1.13. 野伏せり ④ ──第一章、完
それから更に数日の間、野伏せりとシドニーは森の中にいた。小川で汚れを洗い落とした五人の生首に見守られてシドニーの槍は鋭さを増していく。生首が腐り始め、死の様相が爛れた物質へと変貌を遂げた頃、二人は首を埋葬し、修行場を後にした。
「教えられるものは全て教えた。後は自分で磨け」
村への道すがら、野伏せりはそう言った。シドニーは農作業で分厚くなっているはずの掌に出来た胝を撫でながら頷いた。
「おっさん、教えてもらったことは、他の村人にも教えていいか」
「当然だ。知識や技術は広く伝えられなければならない」
そう答える野伏せりはどことなく虚しそうに見えた。
「おっさんよう、前から思ってたんだが、たまにそういう顔するよな。何でだ。こんなに稽古を付けてくれるんだから、やる気がないってわけでもないだろうに」
「そうか。そうだな。考えることがある。お前からしたら、どうでもいいことだ」
「ふうん」
日は大きく傾いて、鮮やかであった青空の色が薄く透き通り出した時刻、森から抜け出た二人の眼下には遠く村が見えていた。
穏やかな日差しを受けて輝く藁葺き屋根、柵の内側で草を食む牛や山羊、雑草一本ない茶色い畑で生き生きと葉を伸ばす農作物。牛舎から出てくる女と子供、それはおそらくブルーノの妻子であっただろう。畑の隅で寝転がり泥だらけになって遊んでいるのはロリーの幼い弟ではないか。小川ではマーヴィンの老母が洗濯をしている。その後ろでチルトンの妹達が互いの肩を組み内緒話をしている。ドレイクの新妻は家畜の柵に凭れ掛かり、片手をかざして雲の行方を追っていた。
長閑な風が魔の森から帰還した二人の面を打った。この村を襲う魔物はもういない。少なくとも、今は。野伏せりが一掃した。彼らの生活を脅かすものは討伐された。村の平穏が乱されることは、もう暫くはないだろう。次に魔物が現れるようなことがある頃には、きっとシドニーが育っている。
「ここでお別れだ。私はまた、どこかへ行く」
野伏せりが言った。
「おっさん、村の皆には会って行かないのか」
「ああ。……こんな山野に伏しているような者が、あんな真っ当な村へ行っても厄介だろう」
「そんなことは。おっさんは魔物だって退治してくれたじゃないか」
「所詮は流れ者だ。魔物を倒そうが、何をしようが身分は変わらん」
「村の恩人じゃないか」
「そんなことは私の生活が変わる理由にはならん」
「……どうしても、ここでお別れか?」
「ああ」
シドニーは野伏せりの拒絶した態度にじりじりした。
「それじゃあ、せめて、ロンにだけは会ってくれないか。ロンはあんたと話したがっていた。このままあんたがいなくなったら、きっと残念がる」
「ロン、あの青年か。……ああ、彼ならば。……分かった」
「よし、じゃあ、ちょっと待っててくれ」
シドニーは足を縺れさせて駈け出した。野伏せりは腰を下ろし、少年の後姿を見送った。傾く太陽は紅に輝き、空は朱に染まっていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
暮れ行く森の外れで三人は再会した。ロンは野伏せりを引き留めた。せめてあともう何日かはこの村でゆっくりしていけばいい、寝る所も食べ物も自分が提供する。だが野伏せりは頑として首を縦に振らない。所詮は野伏せりだ。ただの数日であっても周囲からは疎ましく見られることだろう。二人が否定しようとも、彼は自分の考えに固執していた。もう散々味わった。今更、わざわざ、そんな風に扱われようとは思わない。……。
「……そうか。そんなに言うなら、無理に野伏せりさんを引き留めるわけにはいかないか」
「お前達が、好意で言っているとは分かっているがな」
「だけど、これからどうするんだ」
「また、どことなく、当てもなく放浪するしかない」
「そうじゃなくて、……野伏せりさんは蓄えもないんだろう? 仕事もしているわけじゃないし、これからどうするんだ」
「そんなもの、どうしようもない。その日、その日で食い扶持を稼ぐしかない」
「根っからの旅人なんだな」
ロンは苦笑し、また続けた。
「住所を決めて、仕事を見付けて、落ち着いた生活をする気はないんだな」
「そんなことは、ない。私だって、安定した生活を送れるものなら送りたかった。だが、社会が私を受け入れなかった」
「そんなことはないだろう。野伏せりさんは冒険者だったんだからさ。魔族を退治していた英雄だ。仕事なんてすぐに見付かるさ」
「英雄、か。仕事なんかすぐに見付かる? よくも、何も、知らない癖に」
野伏せりはギリギリと歯噛みした。
「英雄、か。魔族退治の冒険者、か。……それが何だ! 魔族相手に戦ったさ、ああ、俺達はな。だが、それが何になった。魔王は死んだ。そして俺達はどうなった。お前らが英雄と呼ぶ俺達に一体何をしてくれた? 魔王は死んだ。それで俺達はお役御免だ。冒険は終わった。平和な暮らしだ。何ら生活を立てにゃなんねえ、食い扶持を探さにゃ。だけどどうだ。冒険をしていたんだ、一般社会で働くための技能はねえ、雇われようと思って行った先で散々言われたよ、何々という魔族を倒した、それはうちで働くのに何の役にも立たないなあ、とな。俺達は命を賭けて魔族と戦って来たんだぞ、それを、『何もしていなかった』だとよ。働くのに必要な何もして来なかった! まったく、無駄骨を折ったもんだと思ったよ。はなっから人類のための魔族退治、そんなものしなけりゃ良かったんだ。人類のため、そんな行動しなけりゃあ、俺だって普通の生活を送れただろうさ。伝説の武具、仲間達、名声、そんなものはありゃしない。……ああ! そしてこの様だ。どうやって食っていけばいい。どうやって食っていけばいい? そして結局が、この有り様だ」
「野伏せりさん」
「ああ、野伏せりだ。必死こいて魔族を倒して人の世を取り戻そうとして、その果てが、野伏せりだ」
日は既に暮れていた。彼らは森の傍らに佇む三つの影に過ぎなかった。涼しく心地良い風が吹き抜けていく。木立が騒めいた。遠く、村には幾つかの温かな明かりが灯っていた。淡い明りを受けて炊煙が昇っている。
「働き口を見付けたこともある。……だが、それも解雇された。理由など知らん。ただの人員整理だろう。それだけだ。人類のための冒険など、その程度の価値しかない。所詮は、私は、野伏せりにしかなれん」
俯く野伏せりの顔は、フードに隠れて見えなかった。ロンには何も言うことなど出来なかった。
人類のために冒険をしていた英雄、彼は野伏せりをそのようにしか見ていなかった。憧れの感情に目が眩み、彼を一個の人間とは見ていなかったのだ。彼にも自分の生活がある、そんなことに想像が及んでいなかった。自分にとっての野伏せり像、それしか見ていなかった。彼の立場になど、立とうともしていなかった。
彼の外面しか見ようとはしないというのは、この英雄に生活をする術を与えなかった社会の人々と同じだった。いや、彼ならば簡単に仕事を見付けられるだろうという楽観は、ある意味では、彼に仕事を与えなかった人々よりも残酷な視線であったかも知れない。
「シドニー、お前はさっき、何故私が虚しそうな顔をするかと聞いたな」
不意に名前を呼ばれ、少年は顔を上げた。
「お前に槍を教えた。お前がそれを身に付ければ、きっと村は守られるだろう。魔族は知らんが、魔物程度なら充分な。だが、そうしたところで何になるのか疑問なのだ。きっと村は守られる、それで私は? 教えたところで、村が守られたところで、私には何の意味もないのではないか」
「おっさん!」シドニーは叫んだ。「おっさん、今、自分が何を言っているのか分かっているのか? ひどいぞ、そんな……。まるで村がどうなってもいいみたいな」
「ひどい、そうかも知れないな。だが、この村が救われようと、滅びようと、私が貧しさの内に放浪を続けなければいけないのに変わりはないのだ。どちらにしたって、私にとっては変わらない」
シドニーは野伏せりの頬を殴った。振り上げるような予備動作のない、鮮やかで鋭い一撃だった。槍の稽古で知らず身に付けていた無駄のない身体操作だった。間髪も開けずにシドニーは野伏せりの襟首を掴んだ。
「おっさんよう! おっさんがいなくなっても俺がこの村を守れるように槍を教えたって言ったじゃないか! 村人が死ぬのが、いいわけなんかないって言ったじゃないか! 村が守られようが滅びようがどっちでもいいって、それじゃ、あれは嘘だったのか? それじゃあ、どうして俺に稽古を付けた」
「それは……、それが正しいと思ったからだ」
「それなら、それでいいじゃないか。……この村がどうなってもいいだなんて言うなよ」
「すまなかった」
シドニーは襟首から手を放した。
「野伏せりさん」ロンは悲しそうな表情をしながら、ぽつぽつと言う。「こんなことを言ったって、何にもならないかも知れないけど、それでも俺は感謝してるよ。あんたみたいな人がいたから魔王は倒されたんだ。人の世が戻って来たんだ。それで、野伏せりさんには何のいいこともなかったかも知れないけど、でも、ありがたいとは思っている。心の底から。今回だって、魔物を退治してくれた。村を守ってくれたんだ。ありがとう」
「俺だってそうだ」シドニーは食いつくように言った。「おっさんは俺に稽古を付けてくれたじゃないか。感謝してるよ。おっさんがいなくなっても、俺が村を守る。おっさんが、村を守れるようにしてくれたんじゃないか。おっさんのお陰だよ」
野伏せりはフードに手を当てて、心持下げた。
「そうか」
「そうだよ、おっさんは間違いなくこの村の英雄だ。だから」
だから、だから何だと言おうとしたのだろう。シドニーは次の言葉が出なくてもどかしく感じた。何かを言いたかったはずだ。だが、その言葉が出て来ない。隠れて見えない野伏せりの視線が自分に注がれている気がした。その目は、悲し気でもあり、温かくもあった。
「随分と、長くなってしまったな」野伏せりは呟いた。「私は、もう行く」
血糊が乾き、ひび割れたローブを翻して野伏せりは背を向けた。暗闇に沈み込むように足を運ぶ。
「待ってくれ」ロンが声を上げた。「最後に、野伏せりさん、あんたの名前を教えてくれ。あんた、名前は何ていうんだ」
野伏せりが立ち止まる。
「名前、名前か」
「ああ、そうだ」
彼は振り向きもせずに言葉を交わす。
「そんなもの、随分久し振りに名乗る気がする。――ユーティスだ。すぐに忘れていい」
「ユーティス。ユーティスか。……」
茂る草々を踏み締めて彼は行く。足音は淀みなく続き、すぐに小さくなってしまう。彼の影は夜闇に紛れ、霞み掛かって消えて行く。彼がここにいた痕跡など、塵の一粒すらも見えなくなった。彼の存在は残る二人の五感から完全に消失していた。
「ああ、彼は!」
ロンが大声を張り上げた。
「なんだ、知ってるのか?」
シドニーは片眉を上げて青年に尋ねる。
「曙光の兜のユーティス……。都城を屠るユーティス……。知っているも何もない、彼は、紛れもない、本物の勇者だ」
「ふうん。……凄いやつだったんだ」
興奮して泡を吹きかねないロンをシドニーはまじまじと見詰めた。
その勇者に直接教えを賜った少年の顔は、数日前とは比べ物にならないほど逞しくなっていた。全体として引き締まり、目には力強い意志が漲っていた。そこには幼さや、愚鈍に見える印象はなくなっていた。沈毅に、剛毅に、果たすべき責任を自ら背負った男の顔がそこにはあった。
天空を覆う暗夜の下に、二人の青年が佇んでいた。
第一章、完結です。
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