1.12. 対面
湿り気を帯びた空気が淀み、獣と瘴気の匂いが充満して肌に貼り付いた。風の一片もそよがぬ洞窟は夏の盛りにもひんやりとして寧ろ肌寒かった。光なき暗闇の奥で水の滴る音がする。壁に手を当てればずるりとして苔が落ちた。
外での殺戮が嘘のようだった。洞窟に足を踏み入れてからは、不自然なほどに襲撃がなかった。水の滴りと自らの足音がより際立たせる静寂の中を野伏せりは歩んだ。
耳を凝らして足音の反響を捉える。この洞窟は割合広そうだ。エルグで炎を出し、辺りを照らすのも一つの手だが、どの程度深い洞窟なのか分からないのなら下手に使うのは悪手だ。襲撃がないということは洞窟に入るまでの間で魔猿はあらかた倒してしまったのだろう。それでも、気は緩めなかった。
さっと全身の毛が撫でられた。風など吹き入らないこの洞窟で、全身の毛が震えたのだ。野伏せりはその感覚した気配を知っていた。魔物が近い。それもこれまでの魔猿などとは比べ物にならないほど大量の魔素に侵された魔物だ。この先にいるのは、これまでの半動物な魔物ではない。もはやラルヴァのような純粋な魔物と言っても良いほどの獰猛な気配を振り撒いていた。
低い低い唸り声が岩肌に反響して届いて来る。野伏せりはエルグを唱え、掌に炎を点じた。炎は周囲を微かに照らした。明かりは少しずつ前進していく。
そして、前方の暗闇に二つの赤い光が反射した。炎を差し向ければ、そこには座り込む巨大な猿が照らし出されていた。
猿はゆっくりと立ち上がった。全身を泥と苔で汚した魔物の体躯は、優に人間の背丈の倍はあった。太い棍棒を片手に持ち、胸を張って仁王立ちした。
野伏せりはするすると腰紐を解く。ローブの陰から銀光を発する剣を抜き出した。
猿は息を吸い込み胸を膨らませると、並の人間ならば音には聞こえずただ衝撃しか感覚されないであろう程の大音響の咆哮を発した。岩肌が震え、そこに伝わる水気が引き剥がされた。
空気の大砲とでも言うべき振動の中を野伏せりは逆らい、駈け寄った。魔猿は棍棒を振り上げ、狙い過たず野伏せりを打った。
棍棒に打たれた岩床は砕かれ、破片が散った。壁にぶつかる乾いた音が幾重も響き渡る。
だが、そこに血の色は交じっていなかった。倒れ込む野伏せりの姿もそこにはない。では、彼は今どこに。
猿が首を回すとすぐに見付かった。野伏せりは壁に凭れて項垂れて、深く深く息を吐いていた。手に剣は握られていない。
辛うじて避けたか。それでもあの様子ならば。魔猿はしたりと思ったか、彼へと歩み寄ろうとする。が、拳に激しい痛みを感じ、棍棒を取り落とした。見れば拳は重力に引かれて垂れ下がり、そればかりか軟体動物のようにぶよぶよと柔らかくなっていた。
己が手の異変をもっとよく観察しようと首を傾けた途端、魔猿の首はずるずると滑り、転げ落ちた。首筋から血を噴き上げて天井を紅に染める胴体は、自らの頭に圧し掛かるようにして倒れ込んだ。首筋からの激流は、岩の地面の上に滔々と流れる血の大河を作った。風なき洞窟の中に鉄錆の匂いが充満した。
棍棒が振り下ろされた瞬間に、野伏せりは打撃を食らう直前に身を躱してすかさず跳躍していたのだった。そして魔猿の拳に着地すると同時にそれを蹴り、骨を砕き、自らはまた跳躍して猿の首の高さまで達するとその首を刎ね、地面に降り立って壁に凭れ掛かり剣を納めた。洞窟の外、丸太のバリケードをダインで吹き飛ばしてからここまで全く休んでいない。その疲れを深い息と共に吐き出した。魔猿が彼を発見したのはこの時である。野伏せりは一仕事終えて既に僅かな休息を取っていたところだったのだ。それから幾許かの間にも猿の意識が繋がっていたのは野伏せりの剣筋が余りにも鋭かったが故だろう。
吐き気を催し、むせ返るような悪臭の中、野伏せりはそれでも生きた魔物の放つ瘴気よりはマシだと思った。
それから二息、三息、身体を休めると彼は魔猿の死体を乗り越え奥へと向かった。これがボス猿なのは間違いないだろう。しかしまだ生き残りがいるかも知れなかった。
そして炎が照らす洞窟の突き当り、そこで彼は発見した。
「ほう……」
一言漏らし、眉を顰めた。
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幾筋かの光は差し込んでくるが暗闇を払うには余りにも少ない。丸くなれば横にもなれるが立ち上がるには余りにも狭い。動き回れもせず、何も見えないのならば、と膝を抱えて目を瞑っていた。何度か微睡み、起きる度に暗闇が晴れていないのに溜息を吐いた。退屈を持て余し、苛立ちもし、じれったくも感じた。まだかまだかと待っていた。時の流れも闇の中に溶け入ってしまったここにいては、一息、二息の時間さえもが百の夜にも千の冬にも感じられた。余りにも長すぎる時の経過を待ちながら、それでも彼が帰って来ないのではないかという思いだけは過ぎりもしなかった。
突然に、光の束が面を打った。シドニーは眩んだ目を擦り、目を細めて逆光に浮かぶ影を見上げた。
「おっさん、もう出ていいのか」
野伏せりは大樹に立て掛けておいた頭陀袋を拾い上げて、「ああ」と言った。そして片眉を上げて、
「着いて来い」と続けた。
シドニーが野伏せりに連れて行かれたのは何十とも知れぬ丸太が散乱した場所だった。積み重なっているものもあり、切り倒されていない木に寄りかかっているものもあり、何者かが暴れ回った後の荒れ地のようだった。
「おっさんがこれをやったのか」
「ああ」
シドニーの問いに短く答えて野伏せりは行く。
丸太の山を越えていくと岩壁に突き当たった。そして岩壁には横穴がある。野伏せりは傍らの太い枝を折り取って炎を点じ、その洞穴に入って行った。シドニーもまたそれに続く。入った途端、
「うわ、何だ、この匂いは」と思わず鼻を押さえた。「ひどいな。先には何があるんだ」
「ひどいものだ」
進んで行くと靴の裏がベタベタと地面に粘り付き、野伏せりの持つ松明代わりの明かりに照らされた床面を見れば、くすんだ茶色に岩が汚れていた。その茶色いものが靴を地面に貼り付けようとする。
さらに進むと地面のべたつきは水気に変わった。ビシャ、ビシャ、ビシャ、と泥濘の撥ねる音がする。照らされる床は黒い水で濡れていた。
その水の反射は奥へ行くほど強くなる。瑞々しい。乾いていないのだろう。水から匂いも立ち昇ってくる。鉄臭い。この水は血であった。
シドニーがそれと分かった時、松明代わりの木に照らされた先、そこには首のない巨大な獣が横たわっていた。断面は真黒く、乾いた血で覆われている。まだ死んだばかりなのだろう、死臭はなく、血と獣の匂いだけが立ち込めていた。
「これか、ひどいものと言うのは」
シドニーは問い掛けたが野伏せりは静かに首を振る。男は魔猿の死骸を通り過ぎた。少年も後に続く。靴の裏に付着した血液が二人の足跡を残していく。
「シドニー」
野伏せりは少年の名を呼んだ。
「ここ数日で、居所が分からなくなった者はいるか」
陰鬱な声が岩壁に響き、四方から届いて来た。
「居所が分からなくなった者? さあ」
シドニーは村での様子を思い出した。魔狼に村は襲われていた。だから討伐に出てきたのだ。だが、村人はまだ襲われていなかった。行方不明はおろか、死者も負傷者もまだ出ていなかった。地面にくっ付きそうになる靴を剥がすようにして歩いて行く。
「そうか」
野伏せりは暗く答えた。
「しかし、この森の近くに住んでいるのはお前達くらいだろう」
「近くに別の村はねえなあ」
「それならやはり」
と、野伏せりは松明を前方に、ぐい、と差し出した。
「お前の知っている者だ」
火明かりに五つの球体が浮かび上がった。それぞれの表面には黒い斑模様が描かれていた。よく見れば表面に凹凸がある。球体にはどれも並んで二つの窪みがある。突起のあるものとないものがある。紫色か、土気色か、緑色の膨らみがあり、細長い裂け目があり、捲れ上がっている。火影に色合いが揺れている。裂け目からは黄色く、濡れた歯が覗いていた。
シドニーは息を飲んだ。そして、
「マーヴィン!」
と叫んだ。
「ああ、ロリー、ドレイク、ブルーノ、チルトンまで……」
シドニーは見知った顔の生首の一つを抱え込んだ。
「どうして、こんな……。村に帰ったはずじゃ……」
少年の流す滂沱の涙が生首を洗う。肩を震わせ、呻き泣いた。野伏せりは少年の肩に手を置き、悲しみに咽ぶのを見守っていた。
「こいつらは、魔物退治から途中で抜けたんだ。途中で、先に帰った! だから、死にはしないはずなんだ。俺達みたいに、最後まで退治しようとしてた連中よりも、ずっと。死んだりなんかしないはずなのに……。どうして。こいつらは今頃は村で酒でも飲んでいるはずなんだよ。他の皆と一緒によう。何で、こんなところにいるんだ。死んでいるんだ……」
野伏せりは彼の肩を掴み、首を振った。しばらくの間を置き、そして言った。
「魔物が出れば、こういうこともある」
少年はえずいた。
「犠牲者がこれで済んだだけ、……まだ、良かった」
少年はグシャグシャになった顔を上げた。
「いいわけなんかないだろう!」
野伏せりは項垂れ、呟いた。
「そう。そうだな。いいわけなんかない。魔物に殺される者が出て、いいわけなんかないのだ」
幾つかの息を置いた後、野伏せりはしゃがみ、少年の目を正面から見据えて言った。
「だから、槍を教えた。これからお前の村に魔物が出ても退治出来るように。私がいなくても、魔物の犠牲者が出ないように」
少年はぼろぼろと体液を流し続けた。顔中が引き攣っている。その顔の筋肉の筋に沿い、液体が流れて零れていった。
「分かった。分かったよ。俺、お前に教わったことは全部覚えるよ。槍を使えるようになる。魔物と、戦えるようになる。魔物から、村を、守れるようになるよ」
そして少年は涙に滲む目で野伏せりを睨み付けた。
「だから、もっと教えてくれ。俺が村を守れるように。魔物を退治出来るように。次にまた出ても、一人も殺されないで済むように!」