1.10. 潜行 ①
この森は飽くまで自然に樹が生えるがままに生やし、人の手は入っていないと言って良い。村人の手が加えられるのは冬に獣狩りとする時と、何年かに一度木材を採るために村近くの樹木を数本切る時だけだ。それであるから、何人かの人間が両腕を広げて繋ぎ、それでようやく抱え込めるといったような太い大樹もそこかしこにある。そしてそれはいつしか腐り、直立したまま洞が出来ているものもある。
そうした一本に目を付けて、野伏せりは不意に、
「入っていろ」
とシドニーを押し込んだ。ここ数日の毎夜の訓練で男の指示に従い続けていた少年には、有無を言わさぬ気迫で言われた今の言葉に異を唱えることは出来なかった。それでも、男が岩を担ぎ上げ、入り口に蓋をしようとした時には慌てたが、
「すぐに戻る」
と同じ力強さで言われてしまっては、反発も出来なかった。中から岩を押してもビクともしない。男が持ち上げようとし、その大きさに、驚愕した時から分かっていた事だ。ロンはこの男を元冒険者だと言っていた。しかしそれでも、自分の身長ほどもある巨石を安々と持ち上げるのを見て、驚くしかなかった。少年は腐り朽ちた木の香りに満ち満ちた暗闇の中に取り残された。
野伏せりはローブの腰紐を解いた。少年を樹洞に残して一人森を進んで行った。既に異常は感じていた。少年をせめて一年、訓練してからであればあそこに閉じ込めずとも良かった。樹々に残る、不自然に折られた枝の跡を見上げた。少年を初めて見たのも数日前である、そうでなくても自分が付きっきりで訓練してやる時間もない。樹間から吹き付ける気流に瘴気が混じっていた。まだ、まだ、少年には魔物と対峙して生き残れる腕はない。未だ目には見えぬ不浄の輩に野伏せりは吠えた。
進むにつれて森の様相は変わっていった。原生林、そのはずではなかったか。いや、樹上を見よ、枝を見よ、幹を見よ、野生の熊が身体を擦り付けて樹皮が剥がれたというのではない、明らかに作為を以って樹木が加工されている。
正面の樹間には何本もの丸太が横倒しになり積み重ねられ、バリケードが作られている。頭上の枝には細い若木で橋が架け渡されている。足下にはあからさまに草が密集し、盛り上がった、落とし穴らしきものもある。こんな森の奥深くで、人が住んでいるわけがない。いや住んでいたとしても隠者はこれほど手間のかかる庵を編みはしない。どこかで狼の遠吠えが聞こえた。
動物を魔物化させる魔素、それには生物の力を活性化させる作用がある。筋力を増幅し、脳内物質の分泌を促進する。魔狼となった狼はより力強く、より凶暴となる。そして魔素が活性化させる力とは、肉体的なもののみではない。知力もまたそうだ。すなわち、知能の高い生物が魔物となれば、知力の働きもまた上がる。
魔狼を退治した時にはもう分かっていた。やつらの首には首輪が掛けられていた。狼どもを飼い慣らすだけの知恵を持ち得る生物。それがこの森には棲んでいる。
――猿だ。魔物化した猿が、この森には棲んでいる。
魔物と化し、筋力も凶暴性も知能も増した猿がいるとなれば、やつらは群を統率し、機を窺い、武器さえ持って、あの村を破壊しに行くだろう。
――狼程度なら、頼まれなければ無視していても良かった。だが、知能を持つ魔物であれば、退治せねばなるまい。人の村が、消滅する。
丸太のバリケードを思い切り殴った。拳がめり込んだ。そして、腕が振るえるほどに拳を力いっぱい握り締め、食いしばった歯の間から、
「ダイン」
と呪文を漏らした。
丸太の束は凄まじい勢いで吹き飛び、バリケードは破壊された。幾つか呼吸を吐いた後に、方々へ丸太が落下して、地面に突き刺さった。
野伏せりは拳の屑を払いつつ、バリケードの内へ踏み込んだ。
「まったく、ご苦労なことだな」
目の前には、岩を土台に、木を縦横に走らせて、蔦が所々にぶら下がっているアスレチックが広がっていた。壁こそないが、屋根は設けられて雨水を防げるようになっている場所さえある。これは既に建造物といってよい。これが人間によって作られたのではないと一体誰が信じただろう。決して野生動物が工作できるような範囲を超えていた。そのアスレチックの向こうには岩壁が切り立っていた。砦の一方を自然の城壁で守ることにしたのだろう。
しかし、これが魔物だ。魔物と化して知能を高めた猿であれば、こうしたものも作り得る。もしも何も知らない農民が、森の奥深くで突如こうした建築物を見たならば、その異様さに魔界へ踏み込んだとも思うだろう。
野伏せりは重々しい足取りで近寄りつつ、片手に炎を宿らせた。こんなもの、さっさと焼き払ってしまうつもりだ。
だが、ふっとした感覚が耳元に届き、即座に身体を伏し倒れると、前方へ受け身を取って転がりつつ、上空へと炎を投げ放った。
元いた場所へ、ばらばらと石の霰が降ってくる。上空の炎は緑の木の葉を掠めて消えた。互いに、避けた。
野伏せりは素早く石を拾い上げ、上空へと投げ付ける。幹や枝に衝突する、激しく鈍い音が連続した。そして、ぎゃっという鳴き声と共に一匹の猿が落ちてき、それが着地するや否やと見る間に、野伏せりの刃が首を刎ねた。
野伏せりは上空を見上げた。この猿は、大樹の枝に架け渡されていた若木の橋を走りつつ、彼へ石を投げ付けていたのだ。
「素晴らしい歓迎だ」
彼の周囲に再び石礫が降り掛かる。枝葉に隠れて姿は見えないが、樹上にはまだまだ猿がいる。狙いを付けられないのなら、無駄に炎を打てはしない。闇雲にエルグを使えば体の熱はすぐに尽きてしまうだろう。野伏せりは駈け、丸太を乱雑に組み合わせて作られた格子の中に逃げ込んだ。アスレチックの屋根にバラバラと落石の音が響き渡った。額を掠める梁を掴み、木枠の間から覗いて見れば、猿は樹から滑り降り、こちらへ向かって来るようだ。
野伏せりはするすると枠組を降りて着地すると小石を拾った。四つ足で駈けて来る猿どもを迎撃するはずだった。だが、彼は振り向いて反対側へと投擲した。
そこには、首輪を付けられた魔狼が一匹迫っていた。咄嗟の事とて狙えず放った一投は、その狼に軽く避けられた。その魔狼は魔猿に番犬として飼われているものだ。
野伏せりは右前方の岩に手刀を放った。その跡には亀裂が残った。その亀裂に指先を触れさせて、
「ダイン」
と唱えた。岩に出来た亀裂は蜘蛛の巣状に伸び広がり、音を立てて粉々になった。同時に岩に乗せられていた丸太やその上に更に重ねられていた枝木が崩れ落ち、砂埃が縦横に横木が張り巡らされた狭い空間に舞い上がった。
崩落した瓦礫の山を、魔狼の襲来を防ぐ壁となして背を向けて、今この瞬間は走り寄る猿どもへと視線を向け、しゃがみ込んだ。