嘘つきの眠る森
逆さ虹の森という場所をご存知だろうか。大昔に一度、虹が逆さに掛かったことのある、緑深い森のことだ。その頃からこの森は不思議な力に満ち始めたそう。昔からその森の傍に住んでいた私たち親子にはとてもなじみ深い森であり、裏庭のような存在だった。山菜に木の実、川魚。自然の恵みがそこにはあった。そして、その千歳緑の森の中には様々な子供だましのような噂も存在する。願いが叶う『どんぐり池』の話に誰が作ったのか分からない『オンボロ橋』の話。根っこがたくさん張り出している『根っこ広場』の話。
私はその噂話に心震わせ、怯え、好奇心を膨らませた。
その中でも印象深く残っているのは、根っこ広場。そこで嘘をつけば、根に足を絡め取られ、そのまま地中に吸い込まれる。そんな噂のある場所。
その場所は嘘つきが埋まる場所。木々は嘘の数だけぐんぐん太り、嘘の深さで根を伸ばす。
私はそれを小さい頃によく聞かされていた。
「嘘を吐く子は根っこ広場に連れて行くよ」
根っこに絡め取られたくない私は泣きながら「いやだ」と母に縋りついたものだ。
前を行く男の背を見遣れば、木々の根っこに足を取られ、ふらつく足を庇うようにして木の幹を支えにしているところだった。私は一度も振り返らないその男をただ見つめて立ち止まった。私に踏み締められた小枝の折れる音が寂然とした森に響いた。この森には小動物もいるが、クマもいる。小枝の折れる音に前を行く男が慌てて振り返ったのにも頷ける。
「びっくりさせるなよ」
「ごめん」
おっかなびっくり振り向く彼の風体は、私の好みそのものだ。すらりと伸びた手足にジーンズ。微笑むと出来る目元の笑い皺。サラサラの黒髪に白い肌。薄っぺらい唇。その傍にある小さなほくろ。
全部私好み。その少し小心なところさえも森に住むリスのようでかわいらしい。
彼との出会いは市が主催する縁結びイベントだった。声をかけたのは、もちろん私からだ。肉食系というわけではないが、こういうイベントに来ておいて誰にも声をかけないというのは信条に反する。同じ勇気を出して声をかけるのならば、やはり自分のタイプの男だろう。
話下手の私の言葉を聞く彼の表情はとても穏やかで優しかった。
ただ、私の男を見る目はあまりない。自分でもよく知っている事実であり、他人にも指摘されるものでもあった。友達が言うには都合の良い女になっているらしいが、そこに自覚はない。ただ私がしたいようにしているだけで、困ったこともないのだから。
「なぁ。ヨウコ。ほんとにこの先にあるの?」
鬱蒼とした木々の間からわずかに漏れてくる木漏れ日は彼をいっそう素敵にさせる。童話の中に彼を閉じ込めてしまったような雰囲気。木漏れ日がすべての色をぼかして映す。水彩画のような柔らかいタッチの中に佇む彼のシルエットは色鉛筆でなぞったようで、とても幻想的だ。思わずうっとりとしてしまう。あぁ、このままずっと見つめていられれば幸せなのに。手を伸ばして腕を絡めたくなる。安心して、と背中を抱きたくなる。そんな気持ちと共に、重たく沈む胸を膨らませ、彼の問いに答える私。普段通りを装い、不器用に微笑む。
「えぇ。もうすぐ」
彼をここに連れてくるための餌にしたのは『どんぐり池』の噂だ。どんぐり池は願いを叶える池。ギャンブル好きでありながら、勝ち越しのない彼の目がちろりと輝いた。
結構近くにあるのよ。行ってみる? 道案内するけど?
乗り気の表情は見せないが、彼の心の内は手に取るように分かった。大金を手に出来れば、この女以外と遊べるようになる。そうは思いたくないが、きっと、……。しかし、それでも、彼の笑顔はその日渡した諭吉の価値があったのだ。そのまま諭吉をポケットに捻り入れて喜び勇んで出ていく彼に罪はない。ただ、私がそうしたいだけなのだから。
お金さえあれば、彼の笑顔に会えた。そのために一生懸命働けた。彼に頼まれると嫌とは言えなかった。
「ねぇ、何をお願いするの?」
私は彼の背中に叫んだ。私はね、あなたと幸せになることを……祈りたいわ。
「とりあえず明日の大穴狙いで当たるようにかなぁ」
根っこに足を取られながらも前進している彼の横に追いついた私はにっこりしながら、「はい」とどんぐりを渡した。
「さすが。用意いいな」
私の微笑みが彼の笑顔に応えた。どんぐりは去年の秋に拾っておいたものだ。彼と出会ってすぐに探した選りすぐりのどんぐり。
「ねぇ、私のこと好き?」
慣れた足取りでそのまま彼を追い抜いていく。目は合わなかった。見つめたはずなのに。足元ばかり見ていた彼は機械的に「好きだよ」とめんどくさそうに言葉を落とす。軽い音がする。かさりと蠢くものを足元に感じた。嘘ばっかりだ。もう振り向かないわ。これは絶望に似た何か。思いの深さが比例する憎悪にも近い何か。
もう、振り返らない。
「ヨウコっ」
追い抜いた私を呼び止める声が聞こえるが、私は振り返らない。決めたから。そして、根っこ広場を出る手前立ち止まり、「私も大好きだったよ」と呟いた。彼は追って来ない。私は独り歩き出す。何も追ってはこなかった。
しじま広がる森の中。空は見えない。森はまた少し緑を深めたのかもしれない。
どんぐり池に轍が広がる。
私の願いはまだ叶わない。
書いてみると以前に投稿した自作の『結婚葬送式』に似ているな、なんて思ったり……。
最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。