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メイド ナーシャの日常  作者: うぃん
第一章 黒い髪のメイド
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メイドと魔女と、夜を駆ける者たち(5)

「あら、最悪ね、あなた」


 黒いローブをまとった魔女が、冷ややかな声でそう呟いた。

その視線の先には、見るも無残な姿となった男――ヘンリーがいた。


 彼が描いた転移の魔方陣は、一見すると成功したかに見えた。


 だが、ほんのわずか、ほんの一滴分のマナが足りなかった。

その誤差が、彼の運命を大きく狂わせたのだ。


「投入したマナが、転移先の座標に到達するための必要量にすこしだけ足らなかった……。惜しかったわね」


 魔女の声には、同情の色は一切なかった。

ただ、興味深い実験結果を眺める研究者のような、冷淡な好奇心だけがあった。


 ヘンリーの身体は、小屋から五百メートルほど離れた森の奥――


 苔むした祠の入り口に鎮座する、巨大な岩に半身を埋め込むように転移していた。


 右半身は岩と一体化し、皮膚と石の境界は曖昧に溶け合っていた。


 まるで呪いによって岩に飲み込まれたかのようなその姿は、見る者に本能的な恐怖を呼び起こす。


 彼は叫んでいた。

喉が裂けるほどの絶叫を、何度も、何度も。


 岩から抜け出そうとするたびに、全身を貫く激痛が走る。


 それは単なる肉体の痛みではなかった。

神経の一本一本が岩に絡みつき、引き剥がされるたびに、まるで鋭利な刃物で切り刻まれるような感覚が全身を襲う。


 岩がわずかに揺れるだけで、彼の意識は白く飛びそうになる。


 それでも彼は、生きていた。

この世に繋ぎ止められていること自体が、もはや奇跡だった。


「た……、たのむ……殺してくれ……」


 血の気の引いた唇から、かすれた声が漏れる。


 魔女は、彼の言葉に眉ひとつ動かさず、まるで退屈な芝居でも見ているかのように、冷ややかな笑みを浮かべた。


「いやよ。なんで、わざわざ殺してやらなきゃならないの?」


 その声は、どこか気だるげで、しかし芯に鋼のような冷酷さを孕んでいた。


 男――ヘンリーは、岩に縫い付けられたように張り付いたまま、血に濡れた唇を震わせていた。彼の体は、魔術によって岩と融合させられ、肉と石が混ざり合った異形の苦痛に苛まれていた。


 魔女は、そんな彼の姿を一瞥すると、興味深げに首を傾げた。


「あなた、面白い蟲を使ってるわね。私、ずいぶん長く生きてるけど……あんな使い方する蟲使いは初めて見たわ」


 彼女の声には、ほんのわずかに愉悦が混じっていた。


 それは、珍しい玩具を見つけた子供のような、純粋な好奇心と残酷な支配欲が入り混じった響きだった。


「なかなか面白いから……私のしもべとして仕えなさい」


 そう言うと、魔女は手にした黒檀の杖を軽やかに振るった。杖の先端からは淡い紫光が漏れ、空気が震える。


 彼女が描き始めた魔方陣は、幾何学と呪文が融合した複雑な構造を持ち、岩の表面に浮かび上がっていく。


 やがて、岩に淡く輝く魔陣が定着すると、ヘンリーの体と岩との癒着が、ゆっくりと、しかし確実に剥がれ始めた。


 肉が裂け、骨が軋み、神経が焼けるような痛みが彼を襲う。


 その激痛は、言葉では到底表現できないほどのもので、ヘンリーは悲鳴すらあげることなく、意識を闇に落とした。


「その命、もらうわね。いろいろと、これから忙しくなるのよ」


 魔女は、血と泥にまみれた男の顔を見下ろしながら、まるで壊れた人形に語りかけるような口調でそう言った。


 彼女の声には、慈悲も憐れみもなかった。ただ、淡々とした事務的な響きだけが残る。


 男はすでに意識を失っていた。岩と癒着した肉体は、まるで根を張った植物のように岩肌に絡みつき、引き剥がされた部分からは血が滲み、骨が露出していた。


 生きたまま身を裂かれるという、想像を絶する激痛の果てに、彼の精神は限界を超えていた。


 魔女は、漆黒の杖をゆるやかに振る。杖の先端に埋め込まれた紅玉が、夜の闇の中で妖しく輝き、空気が震える。


 彼女の足元に描かれた魔方陣が、淡い青白い光を放ち始めると、男の全身がその光に包まれた。


 光は、まるで時間を巻き戻すかのように、男の肉体を修復していく。裂けた皮膚が再び繋がり、砕けた骨が音もなく元の形に戻る。


 血の海だった地面は、まるで吸い込まれるように乾いていき、男の身体は、まるで何事もなかったかのように再生された。


 だが、それは救済ではなかった。


 次の瞬間、男の首元に黒い茨の模様が浮かび上がる。茨はまるで生きているかのように蠢き、皮膚に食い込むようにして刻まれていく。


 痛みはない。だが、男の魂が何かに縛られていく感覚だけが、深い闇の中で静かに広がっていった。


 それは「主従の茨」と呼ばれる、古代より伝わる禁忌の魔術だった。


 この術は、大地のマナを媒介として、主としもべの精神を直接結びつける。主は茨を通じて、しもべの命を意のままに操ることができる。命令、感情、痛み、すべてが茨を通じて流れ込む。しもべは、主の意志に逆らうことができない。


 この術の危険性は、あまりにも高い。かつて、魔術師たちが集い編纂した「魔術大全」──世界中の魔術を記録した書物──においても、この術だけは記載を禁じられ、完全に秘匿されている。知る者は少なく、使える者はさらに限られている。


 魔女は、男の首に刻まれた茨の模様を満足げに見つめると、くるりと背を向けた。


「バカ猫、早く来なさい。帰るわよ」


 彼女の声に応じて、森の奥から黒猫が姿を現す。その瞳は人間のように知性を宿し、しなやかな身体を揺らしながら魔女の後を追う。


 魔女は、夜の闇を裂くようにして空へと舞い上がった。彼女の黒衣は風に翻り、月光を受けて一瞬だけ銀色に輝いた。


 その名は、ナージャ。


 彼女は、ナーシャという少女の肉体を共有する、黒の魔女。


 その存在は、アルネの子マルカムを見守るためにこの地に降った影の守護者である。

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