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メイド ナーシャの日常  作者: うぃん
第一章 黒い髪のメイド
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マリアの選択、メイドの謎(3)

「あの戦は……本当に、ひどいものだったな」


 カール様の声は、低くて重たくて、まるで過去の痛みを噛みしめているように聞こえました。眉間には深い皺が刻まれていて、拳は膝の上で静かに握られていました。


 応接室の空気が、さっきまでの穏やかな雰囲気とはまるで違っていて、ぴんと張り詰めたような緊張感に包まれていました。窓から差し込む陽の光も、なんだか場の空気を察したみたいに、少しだけ陰って見えた気がします。


「始まりは、あまりにも突然だった」


「ルバ王国は、何の前触れもなく宣戦布告をしてきて、ほぼ総力と思われる二万の兵をダルリアに向けて進軍させた。まるで、狂気のような行動だった」


「総力戦ともなれば、自国の守りは手薄になる。背後に敵を抱えるルバが、なぜそんな無謀な策を取れたのか……今でもわからない。他国は沈黙し、まるで何かに縛られているかのようだった」


 カール様が語る戦の始まりは、まるで悪夢のようでした。準備もないまま、国境付近の街が次々と攻め落とされて、炎と悲鳴が夜空を焦がしたと聞いて──私は、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになりました。


「俺の家族も……その時に、すべて失った」


 その言葉に、マリア様が静かに言葉を添えました。


「カールは、親兄弟を皆亡くしているの……」


 私は思わず息を呑みました。カール様の瞳には、深い哀しみが宿っているように見えました。でも、それを表に出すことなく、彼は静かに語り続けました。


「俺の家族だけじゃない。国境付近に住んでいた者のうち、生き延びたのは二割にも満たなかったはずだ」


「争いの前線がエルクの近くまで迫った頃、ようやくダルリア王国は二万の兵を編成して反撃に出た。だが、準備不足の軍では、万全の体制を整えたルバ軍を押し戻すには至らなかった」


「戦は一ヶ月以上、膠着状態が続いた。泥沼のような戦場で、兵士たちは疲弊し、希望を失っていった」


 その混乱の中で、さらに悲劇が重なったのだと、マリア様が言いました。


「……そして、最悪の知らせが届いたの」


 マリア様の声が、少し震えているように感じました。彼女の瞳が、私をまっすぐに見つめてきます。


「ケネス様の奥様、アルネ様と、カリンお嬢様の行方が、突然わからなくなったのよ」


 その言葉に、私は思わず息を止めてしまいました。

──失踪。

戦の混乱の中で起きた、あまりにも大きな出来事。それが、屋敷の中にまで影を落としていたなんて……。


「屋敷は大騒ぎになったわ。誰かが誘拐したのではないか、ルバ軍に売られたのではないか……憶測が飛び交った」


「ケネス様の耳にも、すぐに情報が届いた。そして、彼はこう結論づけたの。アルネ様は、ルバ軍の特殊部隊にさらわれたのだと」


「アルネ様は、王国第二位の魔術師。普通ならば、誰にも気づかれずに誘拐されるなんて、あり得ない」


「でも、もし先にカリン様がさらわれていたのならば、話は違ってくる。娘を助けるために、アルネ様が自ら罠にかかることは、十分に考えられる」


 マリア様の声には、怒りと悲しみが入り混じっていて──私は、ただ黙って聞くことしかできませんでした。


「ケネス様は、静かに席を立ち、エルクの騎士団、剣士、魔術師の中から精鋭五百名を選び、ルバ軍に奇襲を仕掛けたの」


「その進軍は、まさに鬼神のごときものだった。昼夜を問わず戦い続け、魔術による強制回復を使い、休むことなく敵を討ち続けた」


「ケネス様の軍は、敵を次々と打ち破り、膠着していた戦況を押し返していった。その勢いは、ダルリア軍にも伝わり、進軍の後押しとなった」


「だが──その戦いの終結は、思いもよらぬ形で訪れたの」


 マリア様の声が、また少し震えていました。


「魔物たちのスタンピードが、両軍を飲み込んだのよ」


「突然、数十万の魔物が前線を横切るようになだれ込んできた。彼らは、ダルリア軍にも、ルバ軍にも、そして民にも、容赦なく襲いかかった」


「ケネス様の軍も、その波にのまれた。だが、奇跡的に近くで魔物同士の争いが起こり、標的にならずに済んだ。万に一つの偶然だった」


「戦は終わった。両国は停戦を合意し、争いは幕を閉じた」


「王国は、この無様な戦いを隠すため、ケネス様を英雄として祭り上げた。亡くなった騎士団長の代わりに、団長代理として戦を勝利に導いたと」


「その後、正式に王国騎士団長に任命されたわ。彼の活躍が、戦況を五分にまで押し戻したのは事実だから」


 マリア様は、少しだけ目を伏せていました。


「でも──アルネ様とカリン様は、依然として行方不明のままだった」


「ケネス様は、騎士団長としての任務の合間を縫って、必死に奥様を探された。そして、停戦から一年が過ぎた頃──カリン様が見つかったの」


「彼女は、国境近くの山間の村にある、小さな教会に預けられていた。ケネス様は自ら足を運び、迎えに行かれた」


「その隣には、生後一年ほどのマルカム様もいたのよ」


 私は、胸が熱くなるのを感じました。


──失われた家族が、再び見つかった。


それは、どれほどの喜びだったんだろう……。


「ケネス様は、カリン様とマルカム様を連れて屋敷に戻られた。けれど、アルネ様は……戻られなかった」


「その時のケネス様は、失望ではなく、何かを決意したような強い眼差しをしていたわ」


「そして、私たちにこう言ったの。『カリンとマルカムを頼む』と」


「ケネス様は、何かを知っているようだった。でも、私たちには何も語られなかった」


「今も、ケネス様は奥様を探している。騎士団長を引退した今も、全国を巡っているのは、そのためだと、事情を知る者は皆そう言っている」


「後に、カリン様から話を聞いたことがあるの。彼女は、行方不明になる前の晩に眠りについた後、二年間の記憶がないとおっしゃっていた」


「目が覚めると、そこは教会で、隣にはマルカム様が眠っていた。そして、ケネス様が迎えに来られた」


「その時、神父様から手紙のようなものを渡されたそうよ。ケネス様はそれを読んで、涙を浮かべていたと……」


「私たちは、ケネス様の力になりたくて、アルネ様が失踪された時に一緒に消えた魔道具や装飾品を探しているの」


「盗賊の手に渡れば、闇市場で高額で取引されるものばかり。見つかれば、きっとアルネ様の手がかりになるはずなの」


「ナーシャ、あなたも──何でもいいの。アルネ様に関する情報を耳にしたら、教えてちょうだいね」


 マリア様は、静かな微笑を浮かべながらそう言いました。


 私は、胸の奥に渦巻く感情を整理できずにいました。


──このお屋敷に、こんなにも深い物語があったなんて。


その重みを、私はまだ受け止めきれていない気がします。

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