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新しい生活

「私、本当に人間になったんだ……」


 鏡の中に映る見知らぬ女の子は、他ならない私だった。


「思い出した? あんまり長く眠ってるし、起きたら記憶が飛んでるみたいだし、心配しちゃったよ」


 どうやら私は相当の時間、眠り込んだままだったようだ。起きてすぐに記憶が繋がらなかったのは、長すぎる睡眠のせいで脳が上手く働いてくれなかったせいかもしれない。


「リュウもちゃんと人間になれたんだね」


 改めてリュウを見る。ようやく動き始めた頭で隣に立っている人がリュウだと認識すると、急に恥ずかしさが込み上げてきて、鏡越しに交差していた視線を慌てて外した。


 だって、だって……。年が近いって、ママは最初に言ってたけど、それはあくまで犬としての年齢のことだったようだ。確かに犬の時は一年か二年しか違わなかっただろうけれど、人間になったらこんなに年の差があるなんて! 私は高校生くらいだけど、リュウはどう見ても大人の男性だ。十歳は離れているのではないだろうか。人間になって年齢差が広がるということは、人間と犬の時間の流れ方は違うのかもしれない。犬でいる間はリュウと対等に大人な気分でいたのに。


 そして何より、正直なことを言えば、人間になった私の心が、人間になったリュウの顔を見てトクンと飛び跳ねたのだ。柴犬としての完璧なリュウの姿を考えれば、人間としてのリュウだってそのまま、どこに行っても注目を浴びそうな容姿になることは想像がついても良かったはずだ。けれど人間になれるかどうかばかりに気を取られて、どんな姿になるのかなんて、今この瞬間までちっとも考えていなかった。


「どうしたの? どこか具合悪い?」


 急にうつむいて動かなくなった私を心配したのか、リュウが顔を覗き込んできた。一瞬の動揺の後、ショートしそうな思考回路を無理やり働かせて言い訳を考える。


 きっと今私は、人間になれたことに浮かれてドキドキしているだけ。それをリュウに対する感情とごちゃ混ぜにしているだけ。絶対そうに違いない!


 そう考えると、少しずつ心臓の音は小さくなり、私だけ狼狽えているのがバカらしくなった。


「大丈夫、ちょっと驚いただけ」


 平然を装って、あくまでいつも通りに。少し冷たい態度くらいの温度で答えた私を見て、リュウはほっと胸を撫で下ろしたようだ。


「それじゃ、外に出てみようか」


 私の返事を待たずに先を歩く、大きな背中に慌ててついて行く。二足歩行って、意外とすんなり歩けるものだな、と感心しつつ、つい周りをキョロキョロと見てしまう。視点の高さが違うだけで、家に置いてある物すべての見方が全く変わった。例えばテーブルは、犬にとっては食べ物の匂いがするのに届かない意地悪な存在だったけれど、こうして二本の足で立っていると物を置くにも適度な高さだし、椅子に座ってテーブルで食事をするのも納得だ。


 そしてほら、玄関だって。


「さあ、行こう」


 リュウは軽々と片手で玄関扉を開けた。犬の時には決して自分で開けることはできなかったもの。今は自由に、自分の意思で開けることができるのだ。


 風が通り抜ける。ふわりと髪の毛が踊る。リュウの短めの、明るすぎない茶色の髪の毛も少しだけそわそわと泳ぐ。世界が広く感じるのは、視点が高いせいなのだろうか。


「晴れてて良かった。少し散歩でもしよう」


 リュウは私の手を取って歩き出した。


「ちょっと待って。手、離して。一人で歩けるから」


 立ち止まり、慌てて振りほどこうとするけれど、リュウは離してくれない。


「僕たち、離れ離れになれないんだから」


 いたずらっぽい笑顔を見せてそう言うと、そのまま歩き出した。トクンとまた心臓が跳ねたことに気付かないふりをして、素直に手を繋いだまま横に並ぶと、目に映るものがみんなキラキラと輝いて見えた。鮮明でカラフルな世界を、今私は歩いている。なんて素敵なのだろう!


「近くに公園を見つけたんだ。きっとコハルも気に入るよ」


 そう言って、リュウは私の手を取ったままゆっくりと歩いた。


 散歩をしながら、リュウは私が寝ていた間のことを話してくれた。


 人間になったリュウが目を開けると、私が目を覚ました時と同じように、見慣れない天井が視界に飛び込んできた。布団に横たわっている自分の姿を確認する。まず掌、人間のものだ。見慣れた毛むくじゃらの手じゃないし、肉球もない。けれど自分の意思のとおりに動く。その掌で顔を触ってみて確信した。人間になるという願いが叶えられたことを。


 その瞬間、あの神社で聞いたのと同じ声が、頭の中に直接語りかけてきたという。


「神様は最後のアドバイスを与えるために、僕の頭に直接コンタクトしてきたんだ。僕は二十六歳、コハルは十六歳。それが人間としての年齢だって教えてくれた。僕は仕事をしなければいけないし、コハルは学校へ通わなければいけない。あとは二人で助け合って生きていきなさい、ってさ。ちなみに僕らが目を覚ました家は、神様からの贈り物だって言ってたよ。そんな訳で、これからもよろしくね、コハル」


「結局リュウだって、私が寝ている間に神様の声を聞いただけで何もしてないじゃん」


 急に目を見て名前を呼ばれたから、頬が熱くなってしまった。そのことがバレないように、憎まれ口で返す。子どもじみた態度しか取れない私とは反対に、リュウは余裕そうに笑っていた。


「ほら、着いたよ」


 リュウの言葉に周りを見渡す。子どもから大人まで、たくさんの人がいた。遊具もある。ベンチもある。それにあの木々は……。


「あれって、桜?」


 公園の周りを囲うように立ち並ぶ、たくさんの花をつけた木々。桜によく似ているけれど、私の知っている桜ではない。


「桜らしいよ。珍しい桜なんだって。ほら、あそこに看板が出てる」


 桜の木とその下に立てられた看板に近づいたことで、以前見た桜との違いがはっきりした。花びらの色が違うのだ。この桜の花びらは、ピンクと黄色がマーブル模様になっている。綺麗だけれど、ピンク一色の桜よりも儚い印象を抱かせた。それに今の段階で五分咲きだから、咲く時期も少し違うのかもしれない。


「ここに『とても珍しい桜で、確認されているのは世界でも数ヵ所』って書いてあるでしょ」


 リュウが看板に書かれた説明を読んでくれたけれど、私の視線は桜に釘付けだった。黙って桜を見上げている私を、リュウは微笑みながら見守ってくれた。


 どれくらいの時間、そうしていただろうか。「そろそろ家に帰ろう」というリュウの言葉で辺りを見回すと、家を出た時にはあんなに眩しかった陽射しも、いつの間にかオレンジ色に変わっている。元々散歩は好きだったけれど、こんなに時間の流れを早く感じる散歩は初めてだ(実際はほとんど桜を見つめている時間だったけれど)。やっぱり、犬と人間では時間の流れ方が違うのかもしれない。

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