神社へ
「この辺りにいると思うんだけどな」
リュウがそう言いながらキョロキョロしているのは、草木に囲まれて表の道からはよく見えない古びた家の前だった。木造の家は所々壊れていて、今は誰も住んでいないのが分かる。
「本当に大丈夫なんでしょうね?」
私から向けられた疑いの眼差しを、リュウは平然と受け止める。
「ここを住処にしているのは間違いないんだけど、出かけているのかなあ」
私たちが探しているのは、人間になる条件その二である『犬になりたい二匹の動物』だ。
「リュウの言う心当たりって、一体誰のことなの?」
「ああ、それはね……」
リュウの言葉の途中で、草むらを掻き分ける音がカサカサと近づいてきた。
「ほら、彼らだよ」
リュウは音の方向へ視線を向け、ほっとした様子で言った。
音の主を確かめようと、私は目を凝らす。
カサカサ……。カサカサ……。
音が少しずつ大きくなったかと思うと、草むらから姿を現したのは二匹のネズミだった。ほとんど見分けがつかないほどよく似ていたけれど、少しだけ耳の大きさが違っている。
「こんばんは」
リュウが二匹に声をかけると、大きな耳のネズミは挨拶もそこそこに質問を浴びせてきた。
「君たちがボクらを探しているのが分かったから、わざわざ表まで出てきたワケで。一体全体何の用事なワケ?」
「実は折り入って話があるんだ。前に一度、向こうにある神社の神様について話をしたのを覚えている?」
リュウは真剣な眼差しをネズミたちに向けていた。
「覚えているに決まっているワケ。ボクらを犬にしてくれる神様のことなワケ」
小さな耳のネズミが答えると、すかさずリュウも言葉を返した。
「そう。そして僕たちを人間にしてくれる神様でもあるんだよね」
その言葉で、二匹のネズミの耳がピクリと動いた。
「つまり君たちが言いたいのは、ボクらの利害関係が一致している、というワケ?」
大きな耳のネズミが尋ねると、リュウは笑顔で頷いた。
二匹のネズミはお互いに目配せをし合うと、満足気に尻尾を揺らした。続けて小さな耳のネズミが言う。
「よいワケ。今から一緒に神社に行くワケ」
やった! これで条件はふたつともクリアだ。
私は昂ぶる気持ちを抑えることができなかった。
「ありがとう、二匹のネズミさん。私たちが人間になって、あなたたちが犬になったら、パパとママのことを、よろしくお願いします」
私は深々と頭を下げた。……返事がない。おかしな空気を感じて、恐る恐る頭を上げると、二匹のネズミは見るからに不満そうにため息をついた。
「ボクらは君たちの身代わりで犬になる訳じゃないワケ。犬になった後の生き方はボクらが決めることなワケ!」
大きな耳のネズミの言葉に、思わず反論しそうになった私を遮って、リュウがさっきの私よりも深々と頭を下げた。
「気分を害してしまったならごめん。もちろん、犬になってからの人生は君たちのものだから、僕たちの身代わりになって欲しいなんて思っていないよ。ただコハルは、寂しい思いをしているかもしれないパパとママが心配で、あんな言葉が出てしまっただけなんだ。君たちにあの家に住んで、僕たちと同じように生活することを望んでいる訳じゃない。どうか、許してやってくれないかな。僕からも後でよく言っておくから」
二匹のネズミは再び目配せをし合うと、渋々納得した様だった。
正直なところ、私は二匹のネズミがパパとママの新しい家族としてあの家で暮らすことを、当然のことだと思っていた。リュウが私を遮って話し出さなければ、「なんて自分勝手なネズミなの!」とネズミを非難していたかもしれない。けれど冷静に考えれば、自分勝手なのは私の方だ。自分は人間になりたいと自由に選択肢を選んでおいて、一緒に神様の元へ行く動物には選択肢がないなんて、そんなのは平等じゃない。私は心のどこかで見下していたのだ。私はあなたたちが憧れている犬で、これからあなたたちを犬にしてあげるのよ、と。
「ごめんなさい」
無意識のうちに、小さな声でつぶやいていた。犬とネズミ、どちらも同じ生き物なのに、勝手に優劣を決めるなんて、私はどれだけ傲慢だったのだろう。自分の身勝手さが情けなくて、消え入りそうな音量でしか出なかった私の言葉は、どうやらネズミたちの耳には届かなかったようだ。けれど、リュウは優しく頷いてくれた。分かっているよ、と言われているみたいで、少し心が軽くなった。
人間になりたいと決めた時から、私は謝ってばかりだ。そしてリュウに助けられてばかりだ。
「さあ、神社へ急ごう」
リュウの一声で、私たちは走り出した。二匹のネズミはそれぞれ、私たちの首辺りに乗っている。私に乗っている小さな耳のネズミが、振り落とされないようにと長くはない柴犬の毛に必死にしがみついているのが分かる。きっとリュウに乗っているネズミも同じだろう。ネズミが落ちない程度に速度を上げた。私たちの足でなら、神社までそう時間はかからないはずだ。
暗闇に静まり返った道を駆け抜ける。心臓がドクドクと力強く鼓動を打つのは、走っているせいなのかそれともこれから起こる出来事への期待のせいなのか。まだ冷たい春の夜風が火照った体をちょうどよく冷ますから、私たちは風を切って走り続けた。
私にとっては初めて通る道、リュウは来たことのあるらしい道。その道の先に、桜の香りが漂ってきた。神社が近いのだ。なんとなく厳かな気分になり、走るのを止めてゆっくりと歩き出すと、一歩進む毎に桜の香りはどんどん強くなってくる。リュウと並んで四つ角を曲がると、何十本もの満開の桜の木が目に飛び込んできた。夜でも圧倒されるほどの美しさ。思わず息を飲んで立ち止まると、次に出てきたのは感嘆のため息だった。月明りにうっすらと浮かび上がる桜の木は、昼間よりもずっと神秘的だ。
「こんなに綺麗に咲いていても、雨風であっという間に散ってしまう。桜が美しさを誇っていられるのは一瞬なんだ。でも、その一瞬のために、桜は全力で根を張る。だからこそ、見る者の心を捉えるんだろうね」
リュウの言葉からは、桜に対する尊敬の念さえ感じられた。
二匹のネズミが私たちから下りて横に並ぶのを合図にして、全員一斉に神社の境内へ足を踏み入れた。
理論的に説明はできないけれど、神様が現れることはあらかじめ決まっているような気がした。動物的勘? 希望的観測? 違う。それよりももっと確信めいたものだ。私たちは一言も話さず、視線を交差させることもなく、ただじっと前だけを見つめていた。少し前までの高揚した気分はどこかに消え去り、不思議なほど凪いだ気持ちで、神様が現れる瞬間を待っていた。
突然、強い風が吹き抜けた。神社を囲む桜並木がサァーと音を立てながら揺れ、満開に咲き誇っていた桜の花びらがいくつか舞い上がるのが見えた。ほんの一瞬、飛んでいく桜の行方を追いかけ、再び前方へ視線を戻した時、そこには神様がいた。
いや、正確には神様と思われる何者かがいる気配がした、と言うべだろうか。なぜなら、そこにあるものは人の形でも犬の形でもネズミの形でもなく、淡く光る丸い光だったのだから。ふわふわと私たちの目線の高さで浮いている光は、白とも黄色とも緑とも青とも赤とも受け取れる、これまでに見たことのない色をしていた。
『願いは聞き入れられた』
頭の中に届く声。低く靄がかかっているように響いている。
『今後犬として暮らす者、人として暮らす者、どちらも今一緒にいる相手と離れることは許されない』
光は次第に大きくなり、私たちを飲み込んだ。眩い光以外、何も視界には入らない。意識までもが飲み込まれていく感覚が怖くて、強く目を閉じた。