さようなら、我が家
パパとママがベッドに潜り込むと、家の中は静まり返る。時々冷蔵庫が眠りから覚めたように立てるウィーンという音は、いつもだったら気にも留めないのに、今日はやけに大きく響いていた。
家の外にも音がある。車が通る音もするし、遠くから犬の鳴き声も聞こえてくる。この声は、ボーダーコリーのメアリーだろう。見知らぬ人が家の前を通りかかったのか、その声には警戒している気配が伺えた。私たちの決意以外、世の中は何も変わらず夜が更けていくのだ。
「そろそろ時間かな」
リュウの言葉に、元々ピンと立っている私の耳がピクリと反応して、さらに緊張感を持った。
「行こう。もたもたしている間に、パパかママが起きてくるといけないから」
おずおずと、私はリュウの後をついていく。廊下のフローリングで爪音が響いてしまい、いつもこんなに大きな音を立てていたのかと驚いた。肉球だけをフローリングに付けるように意識して、そっと静かに歩いて行く。神経をすり減らしながら玄関脇の小窓に辿り着くと、リュウが器用にも小さな網戸に鼻先を押し付けて出口を開いた。
いよいよ冒険の始まりだ。心臓の鼓動がトクトクと速くなる。こちらを振り向いたリュウに無言で頷き返すと、リュウはスルリと小窓から外へ出た。続いて私も小窓をくぐる。
数メートル走ったところで、私たちはどちらからともなく立ち止まり、静かに後ろを振り返った。月光の中に佇む、住み慣れた我が家。違う、我が家だった建物だ。この瞬間から、私とリュウはあの家の住人(住犬?)ではなくなったのだから。
パパ、ママ、ごめんなさい。大切に世話をしてもらったのに、何も恩返しできないまま勝手に出て行くなんて。それも私だけでなく、先住犬のリュウまでパパとママから奪ってしまう。恩返しどころか、恩を仇で返すような行動であることは、理解していた。
ふと、リビングに置いてきたフワフワした茶色とオレンジ色のクッションを思い出す。私があの家にやって来た日に用意してくれた、リュウと色違いのクッション。あの柔らかさと温かさは、パパとママの愛情の深さと同じだった。
明日の朝、私たちがいないことに気付いたら、パパとママはどう思うだろう。悲しくて涙を流す? パニックになって慌てふためく? 驚きすぎて呆然と立ち尽くす?
さっきまで我が家だった家の、明朝の様子に予想はつかなかった。痛む気持ちを追い払うように首を振ってから前方へ視線を向けると、リュウが深々と頭を下げていた。リュウの周りだけ、静寂が一層深くなっているように感じた。見てはいけないものを見たような、そんな気分。それほど、誠実で切実な思いを秘めていることが分かった。
ごめんなさい。私は再び心の中で謝罪する。今度はパパとママではなく、リュウに対して。
頭を上げたリュウは、何事もなかったかのように「さあ、行こう」と声をかけ、先を走り始めた。