満開の桜
アズキちゃんから秘密を聞いてから、一週間後に桜が咲き始めた。予想以上に、桜は花びらを開かせるのを待ち切れなかったようだ。
散歩コースの桜並木の下では、シートを広げて大声で話をしている人や、桜の木を見上げながらゆっくりと歩いている人など、たくさんの人が出没していた。先週には見られなかった光景に驚いた私を見て、リュウが話しかけてきた。
「桜は咲いてから一週間くらいで散ってしまうから、ここぞとばかりに人間は桜を見に行くんだよね。お花見、って言うらしいよ」
「これを満開って言うの?」
一週間前のアズキちゃんの言葉が頭をよぎり、思わずリュウに問いかけていた。
「そうだな、これはまだ満開ではないかな。七分咲きとか八分咲きとか、人間はそんなふうに言っている。でもあと三、四日で満開になると思うけどね。満開になると、桜はもっと綺麗になるよ」
リュウから視線を外し、桜並木を見上げた。淡いピンクが木の枝を覆い尽くしている。夏の青々とした表情とも、冬の寒々とした様子とも違う、包み込むような温かさ。これでも充分綺麗だというのに、満開の桜の木は一体どんなものなのだろうか。
首を傾げながら歩いていると、前方から見知った匂いがするのに気付き、私は目を凝らした。いつもの井戸端会議ポイントに、アズキちゃんの姿を発見し、尻尾を振りながら苦しくならない程度にリードを引っ張る。リュウはそんな私をよそに、自分のペースを崩さない。
「アズキちゃん、おはよう!」
私はアズキちゃんをはじめとする三匹の女子グループ、リュウはケンタを含む四匹の男子グループでまとまる。散歩に連れて行ってくれるママたち飼い主は、みんなで丸くなって話していて、ママの左手側が女子グループ、右手側が男子グループになった。
私は密かに、アズキちゃんがあの秘密の話題を持ち出さないかと期待していた。自分から切り出すのは気が引けるけど、アズキちゃんが話し始めたのなら、私もそれに便乗できる。誘導するように、私は桜の木を見上げた。
「もうすぐ満開だね」
私の仕草に反応してくれたのは、シェルティのカリンちゃんだった。カリンちゃん、ナイス! と心の中でガッツポーズをしながら、アズキちゃんの反応を待った。
アズキちゃんも私たちにつられるようにして桜を見つめ、「春だね」と一言つぶやいた。当然続く言葉があるのだろうと待つ私の期待は見事に裏切られ、アズキちゃんは昨日行ったドッグランの話を始めた。肩透かしを食らったような気分だったけれど、落ち込んだ自分を周りに悟られないように必死に会話についていった。ふと視線を感じて振り向くと、リュウと目が合った。当て付けのように思いっきり逸らしてやると、微かにリュウの苦笑が聞こえた気がした。
それから三日間、アズキちゃんに会ってもあの秘密の話をしてくれることはなかったし、私からも何となく切り出せずにいた。現実離れしすぎているその秘密は、もしかしたら私をからかっただけなのかもしれない。そう思うと、こっちから話題を持ちかけるのが恥ずかしくもあった。
私がモヤモヤとしている中でも、桜は日毎に花びらを増やしていく。
そして四日目の朝。風のない、穏やかな天気だった。いつも通り散歩に出かけた私は、桜並木の下で思わず足を止めた。目の前に広がる光景に、立ち尽くしてしまったのだ。
そこに見えるのは満開の桜! なんという存在感なのだろう。いつもの桜の木より、何倍も大きく感じる。淡いピンクの花びらは、八分咲きの時には柔らかな印象だったのに、今はひとつひとつの輪郭をくっきりと主張しながら、凛とした品格を見せつける。けれど決して嫌味ではない。長い間そこにじっと耐え続けたものだけが発する強さと包容力。満開の桜の木にはそれがあった。
「満開になると、全然違うでしょ」
同じように桜を見上げたリュウの言葉に、黙って頷く。ママも桜に見とれているようで、「綺麗ね」というため息混じりの声が聞こえてきた。
「明日は雨風の予報だから、満開の桜も散ってしまうかも。もったいないわね」
ママは心の底から残念そうにつぶやいた。その言葉で私は無意識のうちに走り出していた。ママの手に繋がっているリードがピンと張り詰め、これ以上速く走れないのがもどかしい。リュウは何事かと訝しく思っているようだけれど、そんなことに構っている場合ではない。食い込むリードのせいで息が切れ切れになりながらも、一直線にアズキちゃんのもとへ駆け寄った。
「この前言っていた秘密について、詳しく教えて!」
挨拶もなしにすごい剣幕でまくしたてた私に少し驚いた顔をしたアズキちゃんだったけれど、その表情はすぐにニヤリと得意げな笑みに変わった。
「コハルちゃんなら、絶対食い付くと思っていたんだ」
アズキちゃんは声を潜めて、とても重要な打ち明け話をするように説明を始めた。
散歩コースから少し奥へ行った所にある古い神社には、周りを囲むように桜の木が並んでいる。住宅街からは少し離れているし、外灯もないせいで、桜が満開になっても夜にそこを訪れる人はほとんどいない。人間にとっては忘れ去られたような神社でも、動物にとっては神聖な場所なのだ。なぜならその神社には、動物の神様がいるのだから。
神様は桜が満開の時(それも日が沈んでいる間)にだけ、動物たちの前に姿を現し、願いを叶えてくれる。暖かい寝床が欲しいとか、美味しいごはんが食べたいといった願いに始まり、人間になりたいという壮大な願いまで、何でも来いだという。ただし、願いを叶えるためにはそれなりの条件をクリアしなければいけない。
「人間になるための条件はふたつ。ひとつは、二匹で人間になり、人間になった後もその相手と一緒にいること。そしてもうひとつは、犬になりたい二匹の動物を見つけること」
アズキちゃんの説明が一通り終わると、一瞬だけ風が優しく吹いた。それを待っていたかのように、それまで神妙に話していたアズキちゃんの雰囲気はいつもの明るい彼女に戻った。
「まあ、私も夜中の神社なんて行ったことないし、その神様にも会ったことないから、本当のところは分からないけどね」
けれど私の動物的勘は、この秘密が真実だと叫んでいる。
「最後にひとつだけ聞かせて。どうして私がこの話に食い付くと思ったの?」
アズキちゃんは「うーん」と首を捻って見せた。
「コハルちゃんって、いつも何か足りないって思ってる気がして。満足してないっていうか、ここが自分の居場所だって思ってないっていうか……。悪い意味じゃないんだよ。そんなコハルちゃんがカッコいいと思ってるんだから」
「色々教えてくれてありがとう」
アズキちゃんの言葉に、私はそれ以上何も言えなかった。私の欲深い気持ちが、周りに伝わっているのだと思うと恥ずかしかった。それをカッコいいだなんて、アズキちゃんの優しい嘘だろう。きっと私は、ずっと物足りなそうに生きてきたのだ。
急に歩き出した私に驚いたママは「あら? 今日はもういいの?」と私に尋ねた後で、「それでは、また」とアズキちゃんのママに挨拶をした。ママの声を後ろ頭に聞きながら、私は前だけを見て歩いた。後ろは決して振り返らない。心は決まっていた。
散歩が終わると、ママは玄関で私とリュウの足を綺麗に洗ってくれる。その後のブラッシングがいつも長くて嫌になるけれど、今日は最後だから大人しくブラシをかけてもらう。
短い間だったけれど、この家は居心地が良かったし、大事に世話をしてくれたママにもパパにも感謝していた。寂しい気持ちがない訳ではない。それでも私は、自分の欲望に勝てなかった。
リードを外され、リビングの定位置に戻って水を飲んでいると、リュウが横に座って話しかけてきた。
「行くんでしょ?」
私は黙って頷く。
「一緒に行く相手は?」
リュウの質問に俯いてしまう。私の勝手な欲望に、彼を付き合わせてしまう。そのことを後ろめたく思わない訳がない。
「いいよ。コハル一人じゃ心配だから、一緒に行く」
「でもっ……!」
分かっている。私にはリュウに頼るしか方法がない。それでも、あっさりと許してくれるリュウの心の中を思うと、いたたまれない気持ちになった。
「でも、じゃないでしょ。どっちにしろ、二匹じゃなきゃ無理なんだし。それなら僕が一緒に行くのが一番いいよ」
きっと今人間だったら、嬉しいのと申し訳ないのとで涙が出たりするのかな。そんなことを思いながら、「ありがとう」と一言伝えるのが精一杯だった。
私の気持ちが落ち着くのを待って、私たちは計画を練った。今夜パパとママが二階の寝室へ行ったら、こっそりと家を抜け出す。出口は玄関脇の小さな窓だ。人間が入れる大きさではないから、といつも網戸になっているけれど、私とリュウならくぐり抜けることができる。問題は、神社に行く前に、犬になりたい二匹の動物を見つけなければならないことだ。
「それについては、僕にちょっと心当たりがあるから、たぶん大丈夫」
リュウの言葉を信じて、ふたつ目の条件もクリアしたことにする。リュウがたぶん大丈夫と言うのなら、絶対に大丈夫だ。
「それから先は、行ってから考えよう。神様に会えるのか、会ったら何を言われるのか、そのあたりは想像の範囲を出ないから。ましてや人間になってからのことなんて、想像さえできないや。ま、二人でなら何とかなるでしょ」
リュウはわざと明るく振舞っていた。それくらいのことは、私にだって分かる。その心の奥底にあるのが、寂しさなのか不安なのか緊張なのか、そこまでは覗けなかったけれど、もしかしたら全部なのかもしれない。「私のせいで、ごめんなさい」と言いたかったけれど、素直になることができなかった。
「それじゃ、作戦会議は以上! 僕はパパとママにお別れの挨拶をしてくるよ。コハルも一緒に行く?」
私は行かない方がいい気がして、首を横に振った。パパとママにはリュウの言葉は伝わらないだろうけれど、最後くらいリュウが私に気を遣わずに言いたいことを言ってほしかった。きっと私がいたら、弱気な泣き言も私への不満も吐露できないだろうから。自分のことより私のことを考えてしまう損な性格の持ち主だって、私はもう知ってしまっている。