春の秘密
この家に来てから十ヵ月が過ぎた頃には、私なりの生活リズムも出来上がりつつあった。その中でも最も重要で、雨の日も風の日も欠かさずに行っている私の大好きなこと。そう、朝晩の散歩! 晴れた日には胸いっぱいに太陽の匂いが染み付いた空気を吸い込み、雨の日にはレインコートを着て濡れたアスファルトの匂いを楽しみ、風の日には飛んでくる木の葉の音といつもは感じられない遠くの気配に耳を澄ませた。
この貴重な散歩の時間は、必ずリュウが一緒だった。最初こそその存在が気になったけれど、ひと月もすれば空気と同じだ。それに、密かに感謝していることもあった。悔しいから、リュウには絶対言わないけれど。
見知らぬ土地にやって来た私に、もちろん友達なんていなかった。誰かと楽しくもない会話をする必要もなかったし、大嫌いな愛想笑いをしなければいけない場面もなくなった訳だから、むしろ気が楽だった。別に友達なんていなくても良かった。そう思い込んでいた。そんな私に、リュウは自分の仲間を紹介していった。
「今度うちに来たコハルだよ。仲良くしてやって」
明るくお調子者のリュウには、仲間がたくさんいた。家ではどちらかというと物静かで、ゆっくりと流れる時間を愛おしそうに過ごしているくせに、外に出ると陽気で少しうるさいくらいだった。無理しちゃって、と半ば呆れてはいたけれど、家での様子を誰かに話そうとは思わなかった。
リュウが私を紹介すると、みんな必ず嬉しそうに「コハルちゃん、よろしくね」と言ってから、自分の名前を教えてくれた。
気が付くと、今では散歩の途中でみんなと話をすることが楽しみになっていた。誰とも関わらなくていいなんて、正に負け犬の遠吠えだったのだ。愛想笑いでもなく、嫌々でもなく、私は自然と笑っている。友達と笑い合える私になれたことだけは、リュウに感謝していた。何度も言うけど、このことはリュウには絶対秘密だ。口が裂けても、伝えることはないだろう。
リュウのおかげで(と言うのは不本意だけど)気の合う仲間も出来て、散歩の途中でリュウとは別々でおしゃべりをすることが多くなった。今日も、恒例の井戸端会議が開かれている。
「桜が咲くまで、あと二週間くらいかな」
そう言いだしたのは、散歩仲間の一人であるアズキちゃんだった。確かに、近頃は太陽の陽射しが柔らかくなってきている。春が近いのだ。散歩コースの桜並木だって、いつの間にかほんのりピンクがかってきているのが、良い証拠だ。
春の足音を感じて、ぼんやりと桜の木を見上げていた私に、アズキちゃんは言葉を続けた。
「コハルちゃんは、外に出て初めての春だよね。もしかしてあの秘密、もう聞いた?」
高揚する気持ちを無理やり押さえつけているのだろう。不自然なほどにゆっくりと、囁くようにアズキちゃんは言った。
あの秘密? 私には見当もつかなかったけれど、ざわざわと風にたなびく木の葉の音が私を落ち着かなくさせて、無意識にリュウの姿を探した。少し離れた所で、リュウはケンタとくだらない話をしながら笑い合っていて、その姿はなんとなく私の足を地面に留めてくれるような気がした。私はアズキちゃんに視線を戻し、大きく息を吸い込んでから「秘密」の正体を尋ねた。それが私の運命を変えるとは知らずに。
「秘密って何?」
周りの空気がピンと張り詰め、気温が低くなったような錯覚に陥った。アズキちゃんの返事を待つ時間がゆっくりと流れる感覚。どんな答えが返ってくるのかは知らないのに、なぜか私は全身で緊張していた。もしかしたら深層心理で、その重要性を嗅ぎつけていたのかもしれない。
もったいぶってニヤニヤした後にアズキちゃんの口から出てきた言葉は、私の心を鷲掴みにすることになる。
「この先にある神社の桜が満開になっている間だけ、私たちは人間になるチャンスがあるのよ」