(後編)
異音がした地点から、20歩ばかり先━━
影になったところがみえる。
湖の対岸。水面より少しだけ上、切り立った岸壁の途中。
岩にさえぎられて、よく見えないが、かなり大きな穴があるようだ。
男は、深呼吸した。
もう、体に異常はない。
少し、ふらつくが、それだけだ。
立ちどまっている暇はない。
あそこに竜がいるのなら、狩らねばならない。
姿勢を低くして、岩かげから、穴のなかをにらむ。
暗くて、何も見えない。しかし、何かがうごめいているようにも見える。
いや、見えるのではない。感じるのだ。
大気の流れを読んでいるわけではない。
呼吸音が聞こえるわけでも、獣臭がするわけでもない。
それでも、男は直感した。
そこに、竜がいる。
ならば、もう迷うことはない。
男は、弓をかまえた。ここからなら、洞窟の中まで、十分に矢はとどく。
もちろん、竜に命中するとは限らない。
たとえ、当たったところで、それで仕留められるとも思えない。
これは、ただの呼び水である。
洞窟の中で、竜と戦うのは、怖い。
だから、出てきてもらう。そのための、矢だ。
竜の大きさを考える。あの穴から、一瞬で出てくるわけにはゆくまい。湖に這い降りるのか、宙へ舞い上がるのか、いずれにせよ、少しは時間がかかるはずだ。
竜の半身が、穴から出たところで、槍を投げる。
どこを狙うのかは、決めていない。そもそも、竜を間近で見たことなどないのだ。
目があれば、目を。
喉があれば、喉を。
とにかく、急所と思われるところを狙う。
それで仕留められなければ、手斧をもって背に飛び乗るしかない。
そこまでは、したくない。竜の背に乗って宙を飛ぶなど、考えただけで寒気がする。
したくないが、他に方法がなければ、やる。
そう、決めていた。
狙う。
当たらなくてもよいと思ってはいるが、とにかく、狙う。
標的は見えない。だが、そこにいることは感じている。
ならば、その感じているところの中心を、矢で狙う。
理屈ではない。感覚で、そうしている。
弓と、矢と、矢がとんでゆくさきの闇。
それらすべてがひとつになって、どこまでも広がっていくように思われた。
これなら、当たる。直感で、そう思う。
ひきしぼる。
右手の親指とひとさしゆびの間に、力が凝って熱となる。
そっとそれを解き放とうとした瞬間、
なにかが、闇の中で光った。
赤い、火であったような気がする。
暗い夜にともる松明を、遠くから見たような。
夜空にともる星あかりのような。
それから、
鋭く刺さる刃のような。
遠くまたたいたと見えた光が、いつのまにか、男の服のうえにうつっていた。
胸のあたりに、小さな、指先ほどの赤い光がひとつ。熱くはない。
(これは……、)
なんだかわからないが、やばい。
全身の感覚が、そう言っている。
しらずしらずのうちに、指先から力が抜けている。びいんと、弦がたわむ音。
矢が、宙をはしる。
狙いも、くそもない。とにかく、洞窟の闇のなかに、矢がとびこんでいく。
びいんと、異音。
それが、どういう音かもわからないまま、男は弓をほうりだして駈け出していた。
逃げよう。そう思った。けれども、
手には槍。そして、走ってゆくさきは、対岸。
竜の洞窟へむかって。
*
気がつくと、男の体は、洞窟のなかにあった。
ひどく、暗い。
そして、意外なほど広い。
寒い。
なにも見えないが、怖くはなかった。
怖さを感じる機能が、なくなってしまったような気がする。
両足で、つるつるした地面をふみしめて、槍を構えている。
古代石の刃だ。
竜の体のどこであれ、これで切り裂けないはずはない。
一歩、踏み出す。両足のあいだを大きく開いて、頭を低くする。
つま先に、棒のようなものが、こつんとあたる。さきほど放った矢だろう。
生き物の気配はない。だが、なにかが張り詰めている。
ぎらり、となにかが光った。
いや、なにかが、ではない。
視界のすべてを、真昼の太陽のような、まぶしい光が覆った。
目をつむりそうになるのを、必死でこらえる。
構えは、崩さない。
呼吸を止めたまま、わずかの間、前をにらみ続ける。
そして━━
見えた。
竜の、黒い肌が。
そう、わかると同時に、体が動いている。
ぼやけて見えるそれに、両手で握った槍の柄を、思いきり突き出す。
地面を蹴る。
全身の体重をのせて、古代石の刃が、竜の肌に突き刺さる。
異音がした。
堅い感触に、肩がゆれる。槍をとりおとしそうになり、かろうじてこらえる。
中腰になり、地面に手をつく。
はじかれた。
古代石の刃が、刺さらなかったのだ。
少しずつ、目が慣れていく。
刃が見える。刃先が、大きく欠けている。
ばかな。
息を呑む。あわてて顔をあげる。
そこに、竜がいた。
それは、黒い巨体であった。
肌はのっぺりして、よく研いだ石のように見える。鱗も、毛穴もない。
顔も、手足も、毛もなく、全身が平面となめらかな曲線でできている。人間よりも獣よりも大きく、へたをすれば小さな家ほどはある。
三角形。真下からみた竜の印象は、それだった。今こうして間近で見ても、そうとしか言いようがない。胴体と一体化した平らな翼。それだけだ。
胴体の中心、すこし前方あたりがわずかに膨らんで、他とちがう光沢のある肌でおおわれている。あれが目だろうか、と思う。その両脇に穴。口のようだが、よくわからない。
男の知っている、どんな動物とも違う。異界の生物。
これが、竜か。
いぃぃぃぃぃん、と小さな異音。おもわず、身構える。
それが、少しずつ消えていき、
病を得た女のような、しわがれた高い声が、どこからか聞こえてきた。
『……にんげん、』
そう、一言。
男は、周囲を見回した。竜は微動だにしない。気がつけば、あたりはすっかり明るく、自然の洞窟というには不自然な、灰色のざらざらした壁と地面があらわになっている。
古代石。
すべて、古代石でできているのか。してみると、ここは神話時代の遺跡か。
『にんげんよ、』
もう一度、奇妙な声。
男は、槍をかまえなおす。やはり、竜が話しているのか。
『なぜ……ここに、』
「喋るなッ!」
ふいに、あせりと恐怖が男を襲った。叫んで、槍をぐっと持ちあげる。
会話してはいけない。
なぜなら、おれはこいつを狩るのだから。
『ばかな、』
その声はあくまで平坦だったが、男は嘲笑われているように感じた。
『そのような……、包丁などで、傷つくものか』
ほうちょう。
そう、言われて、男の頭に浮かぶのは、石をみがいてつくった刃物状の器具である。
獣を狩るときに使うものではないし、まして貴重な古代石の刃とは比べるべくもない。
しかし━━
「あなどるな!」
全身の力を込めて、もう一度、突く。
ふたたび、異音。
それ以上、刃が欠けはしなかったものの、竜の肌はきれいなままだ。微動だにしない。
『何度でも、試せばよい』
あくまでも平坦な声で、竜はそういった。どこから声を出しているのかは、わからない。
『かまわぬ。壊せるものなら、壊せ。どうせ、できはしないが』
そう、言われて━━
突然、気持ちが萎えた。
男は、目を伏せて、槍をさげた。それでも座る気にはならず、棒立ちのまま、言葉を返す。
「お前は、……なんなのだ」
『お前こそ、何をしに来たのだ』
そう、言い返されて、ふと気がつく。
これは、人間だ。
いや、少なくとも、人と同じ世界に有るものだ。
黄泉路の王や精霊のような、異界のことわりに属するものではない。
そう、思うと、気持ちが楽になった。
「おれは、お前を狩りにきたのだ」
するりと、正直な言葉が口から出てくる。
『狩れるのか』
「狩れない。今、わかった」
こんなことを言って、どうなるというのか。
しかし、嘘をつく気にもなれない。どうにでもなれ、と思った。
『ならば、どうする』
「わからぬ。このまま帰るわけにもいかぬ」
からん、と槍をころがす。
腰をおろして座る。
男は、目をとじた。
「おれを、殺すか。」
『なぜ、』
「おまえを殺そうとしたからだ」
『殺すだけの力を持たぬ者が、何を。ただ、追い払うだけよ』
そうか、とぼんやり思う。
あれは、竜がおれを追い払おうとした音であったか。
「ならば、もう一度追い払えばよい」
『一度やって引き返さぬものは、何度やっても同じであろう。ここで倒れられても困る』
「そうか、」
男は、沈黙した。
これ以上、ここにとどまる意味もない。
だが……、
『お前は、どうしたいのだ』
そう言われて、答えに窮する。
命をかけて狩るつもりではいたが、それは、狩れないのならば死を選ぶという意味ではない。
どうあがいても望みがかなわぬなら、命を拾ったと思って帰るしかない。それも、わかっている。
だが、このまま退いてよいのか。
なまじ、さしせまった危険がないだけに、迷いがある。
男が黙っていると、竜は、重ねて問うてきた。
『お前は、なぜ、私を狩ろうとしたのだ』
「それは……、」
そこまで、話してよいのか。
少し、迷ったが、これ以上どうしようもない。
言うしかない。
「……空の星を、この手で掴むためだ」
竜が、何かうめいた。
嗤ったのだ、と男は思った。
『星、と言うたか』
「言った」
『ただ、空を飛びたいというのではないのか。それなら、少しは計らってやらぬでもないが』
「違う」
『星がどんなものか、知っているのか』
「知らぬ。知らぬが━━」
いや、知っている。
星は、ひとの霊が凝ったものであり、地上から飛んだ魂が変ずるところのものである。
そして、天は、空よりもずっと高いところにあり、神話の時代からの死に人たちが、永劫にそこで暮らすところだと。
だが、竜が聞いているのは、そういうことではあるまい。
『知りもせぬくせに、大それたことを』
いわれて、男は目を開けた。
竜の顔と思われるところを、じっと睨みつける。
「知ろうが知るまいが、やると決めたのだ」
そう、ゆっくりと言って、また目を閉じる。
わかってもらいたいなどとは、思わぬ。
まして、竜などに。
それから、永遠とも思えるような沈黙があって、
もう一度、竜の声がした。
『入るがいい。見せてやろう』
目をあけると、竜が大きく顎を開いていた。
口と思われたところではなく、胴体の中心のふくらんだところ。
そこが、大きく開いて、闇が男を飲み込むように待ち受けている。
「おれを━━」
『喰わぬさ』
今度ははっきりと、竜は嗤っていた。あいかわらず、身じろぎもせぬままに。
『よいから、入れ。星がどのようなものか、お前に教えてやる』
*
竜の腹の中には、かわいた狭い空間があった。
足元も、頭上も、硬く、つるつるしたものでできている。立つだけの高さはない。目の前にある曲線状の構造物は、革のようなもので覆われている。
この場所は、一体なんなのか。
竜の体内であることは、間違いない。しかし━━
とつぜん、足元が動いた。
(喰われる!?)
とっさに身をかたくする。そうしている間にも、奇妙な振動が足元から全身に響いてくる。
竜が、動いているのか!?
上を見あげる。黒いもので覆われていた頭上が、いつのまにかがらんどうになっている。
いや、違う。
空は見えるが、空気は遮断されている。水のように透明な壁があるのだ。
ふたたび、足元が大きくゆれた。
男はもんどりうって倒れた。革状の構造物に手をついて、仰向けにころがる。
すると、かん高い異音とともに、両脇から、うすい帯状のものが飛び出してきた。声をあげる間もなく、体の脇に滑りこみ、がっちりと固定される。
動けない。
透明だった頭上に、かちかちと赤いひかりがまたたいた。いくつかの直線と、こまかな蟲のようなたくさんの図形が、空中を流れていく。
男は、あきらめて目をとじた。もう、理解の範疇をこえている。
ふたたび、振動。そして、轟音。
ずしりと、目に見えない重みが男の肩にのしかかってきた。頭がぼうっとして、吐き気がしてくる。
これは、呪いか。
耳が痛くなってくる。視界がせばまる。
頭痛が、
男は悲鳴をあげた。
*
『見るがいい』
しずかな、よく磨かれた古代石の珠のような声で、竜が言った。
男は、かたく閉じていた目を、ゆっくりと開いた。
全身が汗だくだった。叫び疲れて、喉がひどく痛い。
まだ、落ち着いたわけではない。ともかくも、息を整える。
目を開けたが、まだ、うつむいている。
顔を上げるのが、怖かった。
外が、目に入るからだ。
ぱちんと音をたてて、身体を固定していた帯がはずれた。しゅるりと、背中のほうにある隙間に吸い込まれていく。
立ちあがるスペースはない。上半身を起こして、大きく深呼吸する。
心臓の鼓動が、少しずついつもの速さに戻っていく。
目を閉じて、ふたたび、深呼吸。
もう一度、目を開いて、見あげる。
そこには、黒い空が広がっていた。
夜空、ではない。まだ陽は沈んでいない。
前方、少し見上げるあたりに、太陽はこうこうと光っている。
まだ、星は出ていない。
おかしい。
洞窟に入ってからの感覚が曖昧だが、もう、とっくに陽は沈んでいるはずの時間ではないか。
これは、夜の空なのか。
暗いわけではない。太陽が目の前にあって、まぶしいくらいだ。
ただ、黒い。
墨で染めた布を陽にさらしたような。
これは━━
「おれは、死んだのか。」
知らず、つぶやく。
黄泉の国。
灰の国の奥にあるという、死者がたどりつくもうひとつの世界。
昼も夜もなく、天も地もなく、ただ凍りつくような寒さと静寂だけが在るという━━
『そう、思ってもらっても、かまわぬが』
ふたたび、竜の声がした。
『例え、そんなものがあるとしても、私はゆくことがかなうまい。ここは現世よ』
そう、言われても、信じられようはずもなかった。
男は、目を見開いたまま、眩しい黒空をじっとみつめていた。
『……下も、見せてやろう』
その言葉とともに、
地面が消えた。
男は絶叫した。ぽっかりと足元に広大な空間がひらき、遠く離れたところに巨大な湖のような青いものが広がっている。ところどころに、白い雲のようなものが渦を巻いて、墜ちてくるものたちを待ち受けている。雲のすきまには、緑と茶色がかすかに見えるが、遠すぎてよく見えない。
これは、何だ。
これは、まさか、
尻の下には、硬い感触が残っている。
にもかかわらず、眼下に広がる圧倒的な虚無に足をとられて、男はどこまでも墜ちていった。
*
長命族の村で、はじめて一人の夜を過ごした日。
少年は、どうしても寝つけなかった。
あてがわれた小屋から出て、集会所まで歩く。
昼間の、血なまぐさい臭いは、もう消えている。
死の臭いはすぐに遠ざけるのが、長命族の流儀らしい。
夜半までかかって砂が撒かれ、香草入りの火が焚かれ、死者は火葬された。
それらが行われている間、少年は、ぼんやりとただ座っていた。
熾火は、まだわずかに熱を放っている。
少年は、集会所の隅に腰をおろして、膝をかかえた。
涙は、まだ湧いてこなかった。
そうして、小一時間ほどもじっとしていると、
彼女が、そこにやって来たのだ。
*
━━火葬された魂は、どこへ行くのか。
隣に座った少女に、少年はそうたずねた。
少女は、困ったように首をかしげて、いった。
━━空に。天の星になるの。
━━それなら、
少年は、ふと喉の奥からあふれだしてくるものを感じた。意味もわからないまま、口にする。
「それなら、おれは、天までゆきたい。」
少女は、そうだね、といって少年の肩を抱いた。その日から、かれらは同志になった。
*
男が目を開けると、そこはまだ竜の体内だった。
竜の顎はひらかれ、外が見える。
ふたたび洞窟の中であった。
男は安堵して、立ちあがった。身体がこわばっている。
「……あれは、何なのだ」
竜に対面するように胡座をかいて、そう尋ねる。
落ち着いたふりをしながら。
『別に、なんということもない。ただ、空の上がああなっているのだ』
「空の上?」
『そうだ。雲の上の、ずっとずっと高いところだ』
「ならば、あそこが天上ということか」
『そうだが、星のあるところとは違う』
「なに!?」
男は大声をあげた。
『星のあるところは、もっとずっと遠くだ。私も、そこまではゆけぬ』
「竜でも、ゆけぬのか」
『ゆけぬさ』
「なぜだ」
しらずしらず、男の声が大きくなる。竜のこたえは、あくまで静かだった。
『そのような力がないからだ。私は、大気のあるところしか飛べぬ。それに、星までの距離は、あまりに遠いのだ。ここから一番近い月でさえ、先ほどの場所の、さらに何千倍も遠くにあるのだよ』
「何千倍……、」
何千倍、何万倍という単位は、男が実感できる範囲をこえている。
この時代、魔法使いでもなければ、そのような数を知ることすらなく一生を終えるのがふつうだ。
『お前が、私を狩って、どのように星へと向かうつもりだったかは知らぬ。しかし、所詮は無理なことだ。私はそのようにつくられてはいないのだ』
「……お前は、できなくともよいのだ」
男は、喉のおくから言葉をしぼり出した。
「おれは、お前の翼を狩りにきたのだ。鳥の翼を火にくべれば、空気の流れができる。翼に秘められた魔力があふれ出るからだ。お前が遠くまで飛べるのは、鳥よりもずっと強い魔力があるからだろう。ならば━━」
『人間よ、それは違うのだ』
平坦な竜の声に、少しだけ悲しみのようなものが混じった。
いや、男がそう感じただけだったかもしれない。
『そのような方法で、星にゆくことはできぬ。よしんば、お前が思うような方法で、人を空に飛ばすことができたとしても、それは、星の世界へゆくこととは根本的に違うのだ』
「なにが違うというのだ、竜よ」
『……少し、昔の話をしよう』
かたかた、と音がしていた。
それは、竜の頭のところから響いてくるようだった。
ほんの少しだけ間をおいてから、竜は続けた。
『その昔、この世界の空には、たくさんの竜がいた。人は、竜とともに空を飛び、海を越え、たった一日で、地上のどこへでもゆけた。そんな時代があったのだ』
男は、黙って、地面をにらみつけていた。
『その時代には、あるいは、お前の夢も、かなえる術があったかも知れぬ。しかし、今は違う。何もかも変わってしまったのだ。今や、空に竜はなく、遺物は土にうずもれ、人々が解き明かした世界のことわりは、長い時間の果てにほとんどが失われた』
「ならば、」
男は顔をあげた。竜の目のようなところを、じっと睨みつける。
「ならば、星へ行く方法はあるということではないか。古代人は━━」
『その通りだ、人間よ』
すこしずつ、竜の声は低くなっていた。
『だが、その方法を、お前にわかるように説明する術が、私にはないのだ。人類が、長い長い時をかけて築いてきたものが、失われてしまった。あまりにも、前提が違いすぎるのだ━━』
「それは……魔法か。古代の魔法のことか」
『お前たちの言葉でいえば、そうだ』
男は、山人と、仲間が話していたときのことを思いだした。
魔法使いたちの話は、自分にはわからぬ。わからぬままでいいと思っていた。
竜が言っているのは、それと同じようなことなのか。
『私とて、直接にその時代を生きたわけではない。ただ、知っているのだ。生まれる前から』
「竜は、……ずっと生きているのではないのか」
『違うよ』
竜の声が、少し笑ったように感じられた。
『私がここで初めて目覚めたのは、たった数十年前。私が直接に見聞きしたのは、今この時代の出来事だけだ。それでも、様々なことを、生まれたときから知っている。竜とはそういうものなのだ』
「それは……古代人がお前をそのようにつくった、ということか」
『そのとおりだ』
竜は少し驚いたようだった。
『もっとも、そのようにつくられた理由も、この時代にあっては……もう、意味のないものになってしまったようだ。私が目覚めたときには、まだ、かろうじて仲間のようなものがいたのだが……彼らも、もう、口をきかなくなってしまった。あまりにも長い時間が経ちすぎたのだ』
男には、もう、想像もつかないような話であった。
ただ、黙って聞くしかなかった。
『私も、いつまでも生きていられるわけではない。いずれ、朽ちる。旧時代のものたちは、消えゆくしかないのだ。お前たちがこのまま知恵を積み重ねてゆけば、いずれ、お前の願いもかなう時がくるかも知れぬ。だが、それは今ではない。おそらく、数百年、ことによれば数千年も後のことだ。私には、それだけしか言えぬ』
ただ━━
ただの、言葉だ。
男は、沈黙の中で、何度もそう考えた。
ただ、言われただけではないか。
諦めろと言われれば、諦めるのか。
おれの、おれたちの意思は、それだけのものか。
竜がなんと言おうと、知ったことか。
だが、
*
男は、山を降りた。
*
灰の国のほとりに、小さな遺跡がある。
もともとは、いくつもの階層に分かれた大きな建造物だったらしい。今はほとんど朽ちて、基礎の一部と、小部屋のようになった壁が残っているにすぎない。
高台になっており、離れたところからもよく見える。
男は、森の端を早足で歩きながら、空を見上げた。
狼煙のさきから、まっすぐ目線をおろす。数日前にここを出たときとかわらぬ、灰色の遺構。西に四角い穴のある高い壁、北と南は、朽ちかけた低い壁。
正面の壁の下に、なにか見える。
おりかさなって倒れた、なにかの、死骸だ。
目をこらすと、血が流れているようにも見える。
━━ヤマオオカミ!?
さあっと血の気がひいた。あわてて、走る。
森のおわりの大きな木のかげから、一歩踏み出したとき、かあん、と乾いた音がした。
反射的に足を止めて、ふりむく。
木の幹、ちょうど目線の高さに、ふかぶかと長い矢が突き刺さっていた。
「サラーッ!」
あわてて、木に身を隠しながら、叫ぶ。
魔法の弓矢だ。人間の身体など、簡単に貫いてしまう。
いらえはない。
もう一度、叫ぶ。
「サラ! おれだ!」
数秒、待つ。
やがて、西側の窓から、若い女が顔を出した。
色黒で、細おもて。長命族らしく、こまかく編みこんだ黒髪を後ろで束ねている。
大きな目をまん丸くして、叫び返す。
「ジン!」
女にしては低い声で、
「無事だったか、」
そう、言いながら、窓に手をかけて身をのりだしてくる。
男━━ジンと同じく、簡素な麻の着物であるが、飾り紐と赤い紋で長命族のものとわかる。長袖の上着に帯をきゅっと締め、細身の長ズボン。夏でも肌を晒さないのは魔法使いの流儀でもある。
窓から、小さな足を出す。紐のサンダルではなく、木靴である。
「おい、」とジンが声をかける間もなく、
かろやかに、飛び降りる。
ジンは、あわてて走りだした。もちろん、着地に間に合うはずもない。サラは空中でかるく姿勢をととのえて、下草の茂った斜面に滑り落ちた。木靴が石にあたって乾いた音をたて、滑る。
右手は、大きな魔法の弓をつかんでいる。左手を地面につく、が止まれない。
ざーっ! とかなり大きな音をたてて、斜面を降りる。
「ばか!」
ようやく、走り寄ってきたジンが、姿勢を低くして、抱きとめた。
「何してる。大丈夫か」
「いやあ、……木靴が。」
サラは、てれくさそうに笑った。ふたつも年上のはずだが、まるで子供じみている。
魔法弓をおいて立ちあがり、尻の砂をはたく。ふと真顔にもどって、
「きみこそ、無事でよかった。……竜は?」
「すまん。」
ジンは、眉をしかめて首を振った。
「狩れなかった」
「だと思っていたよ」
サラは間髪入れずにそういった。口許には笑みが浮かんでいた。
「なんだと?」
「今朝も竜が飛んだからな。それより、君の身を心配していた。……本当に、無事でよかった」
ジンはちょっと黙りこんだ。軽く頭をさげて、もう一度、あやまる。
「……すまない」
「何を、あらたまって」
サラは声をあげて笑った。そうしていると、やはりジンよりも年上にみえる。
「それで、竜には会ったのか。……どんな生物だった」
「会ったどころじゃない。……竜の腹のなかに入って、飛んだ。それから、話を聞いた」
「なんだって、」
こんどは、さすがに驚いたようだ。息を呑む。
「竜は、喋るのか。」
「喋るどころではない。……だが、ともかく、」
「ともかく?」
ジンは一度目をそらして、それから覚悟を決めてサラの目をみつめた。
一番いいにくいことだが、言わなければならない。
「竜の翼を火にくべても……いや、どんな方法であれ、星のあるところには、ゆけぬと……」
「竜が、そう言ったのか」
サラは、腕組みをしてじっとジンを見た。
「ああ、……いや、正確には、数百年、数千年かかると……。ただ、風精をつかって空を飛ぶような方法と、星の世界へゆくのとは、まったく違うことなのだと、言っていた」
「数百年数千年かければ、ゆく方法があると?」
サラは目を細めた。ジンはにらみつけられたような気がして、身をすくめた。
「……そうともとれるように、言っていたが」
「ならばよい」
サラは表情をゆるめた。うでぐみをといて、ふんわりと腰に手をあてる。
「ゆく方法は、あるのだな。ならば、その年月を縮める方法を、探すだけだ」
「そんな、簡単に、……」
「なあに、考えはある」
ぴっ、と長い指をつきだして、サラはたのしそうに言った。
「風精がだめなら、火精だ。北へゆこう」
「北?」
「北の海の向こうに、火を放つ山があるという。地中より吹き出す火の力を借りれば、天高く飛べるかもしれぬ」
「そんな、……」
ばかな、と口許まででかかる。サラはそれを見透かしたように、眉を動かしてわらった。
「だめなら、もう一度竜のところへゆくまでさ。今度は私もゆく」
「竜は、おれたちに話してもむだだと……、」
「きみには、だろ」
サラはけろりとして、魔法弓をひろいあげた。弦をひきあげる梃子がはずれかかっている。
「……ちょっと、使いすぎたみたいだ。直さないといけないな」
いわれて、ジンはもう一度あたりを見回した。
ヤマオオカミの死体が、窓の近くに3体。斜面のまわりに、4体。
よくみると地面にも、狙いをはずしたらしい矢が、いくつか。
「……無茶をしたものだ」
ぼそりと言うと、遺跡のほうに戻りかけていたサラが、ふりむいた。
「なんだって?」
「いや、なんでもない」
ジンは、呵呵、とわらった。
奇妙に晴れやかな気分であった。
ふと気配を感じて、空を見る。
竜は、今日も飛んでいた。