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飛竜山にて  作者: 楠羽毛
2/2

(後編)

 異音がした地点から、20歩ばかり先━━


 影になったところがみえる。

 湖の対岸。水面より少しだけ上、切り立った岸壁の途中。

 岩にさえぎられて、よく見えないが、かなり大きな穴があるようだ。


 男は、深呼吸した。


 もう、体に異常はない。

 少し、ふらつくが、それだけだ。

 立ちどまっている暇はない。

 あそこに竜がいるのなら、狩らねばならない。


 姿勢を低くして、岩かげから、穴のなかをにらむ。

 暗くて、何も見えない。しかし、何かがうごめいているようにも見える。

 いや、見えるのではない。感じるのだ。

 大気(エア)の流れを読んでいるわけではない。

 呼吸音が聞こえるわけでも、獣臭がするわけでもない。

 それでも、男は直感した。

 そこに、竜がいる。


 ならば、もう迷うことはない。


 男は、弓をかまえた。ここからなら、洞窟の中まで、十分に矢はとどく。

 もちろん、竜に命中するとは限らない。

 たとえ、当たったところで、それで仕留められるとも思えない。

 これは、ただの呼び水である。

 洞窟の中で、竜と戦うのは、怖い。

 だから、出てきてもらう。そのための、矢だ。

 竜の大きさを考える。あの穴から、一瞬で出てくるわけにはゆくまい。湖に這い降りるのか、宙へ舞い上がるのか、いずれにせよ、少しは時間がかかるはずだ。

 竜の半身が、穴から出たところで、槍を投げる。

 どこを狙うのかは、決めていない。そもそも、竜を間近で見たことなどないのだ。

 目があれば、目を。

 喉があれば、喉を。

 とにかく、急所と思われるところを狙う。

 それで仕留められなければ、手斧をもって背に飛び乗るしかない。

 そこまでは、したくない。竜の背に乗って宙を飛ぶなど、考えただけで寒気がする。

 したくないが、他に方法がなければ、やる。

 そう、決めていた。


 狙う。


 当たらなくてもよいと思ってはいるが、とにかく、狙う。

 標的は見えない。だが、そこにいることは感じている。

 ならば、その感じているところの中心を、矢で狙う。

 理屈ではない。感覚で、そうしている。

 弓と、矢と、矢がとんでゆくさきの闇。

 それらすべてがひとつになって、どこまでも広がっていくように思われた。


 これなら、当たる。直感で、そう思う。


 ひきしぼる。

 右手の親指とひとさしゆびの間に、力が凝って熱となる。

 そっとそれを解き放とうとした瞬間、


 なにかが、闇の中で光った。


 赤い、火であったような気がする。

 暗い夜にともる松明を、遠くから見たような。

 夜空にともる星あかりのような。

 それから、


 鋭く刺さる刃のような。


 遠くまたたいたと見えた光が、いつのまにか、男の服のうえにうつっていた。

 胸のあたりに、小さな、指先ほどの赤い光がひとつ。熱くはない。

(これは……、)

 なんだかわからないが、やばい。

 全身の感覚が、そう言っている。

 しらずしらずのうちに、指先から力が抜けている。びいんと、弦がたわむ音。

 矢が、宙をはしる。

 狙いも、くそもない。とにかく、洞窟の闇のなかに、矢がとびこんでいく。

 びいんと、異音。


 それが、どういう音かもわからないまま、男は弓をほうりだして駈け出していた。


 逃げよう。そう思った。けれども、

 手には槍。そして、走ってゆくさきは、対岸。

 竜の洞窟へむかって。



 気がつくと、男の体は、洞窟のなかにあった。

 ひどく、暗い。

 そして、意外なほど広い。

 寒い。


 なにも見えないが、怖くはなかった。


 怖さを感じる機能が、なくなってしまったような気がする。

 両足で、つるつるした地面をふみしめて、槍を構えている。

 古代石の刃だ。

 竜の体のどこであれ、これで切り裂けないはずはない。

 一歩、踏み出す。両足のあいだを大きく開いて、頭を低くする。

 つま先に、棒のようなものが、こつんとあたる。さきほど放った矢だろう。

 生き物の気配はない。だが、なにかが張り詰めている。


 ぎらり、となにかが光った。


 いや、なにかが、ではない。

 視界のすべてを、真昼の太陽のような、まぶしい光が覆った。

 目をつむりそうになるのを、必死でこらえる。

 構えは、崩さない。

 呼吸を止めたまま、わずかの間、前をにらみ続ける。


 そして━━

 見えた。


 竜の、黒い肌が。


 そう、わかると同時に、体が動いている。

 ぼやけて見えるそれに、両手で握った槍の柄を、思いきり突き出す。

 地面を蹴る。

 全身の体重をのせて、古代石の刃が、竜の肌に突き刺さる。


 異音がした。


 堅い感触に、肩がゆれる。槍をとりおとしそうになり、かろうじてこらえる。

 中腰になり、地面に手をつく。

 はじかれた。

 古代石の刃が、刺さらなかったのだ。

 少しずつ、目が慣れていく。

 刃が見える。刃先が、大きく欠けている。

 ばかな。

 息を呑む。あわてて顔をあげる。


 そこに、竜がいた。


 それは、黒い巨体であった。

 肌はのっぺりして、よく研いだ石のように見える。鱗も、毛穴もない。

 顔も、手足も、毛もなく、全身が平面となめらかな曲線でできている。人間よりも獣よりも大きく、へたをすれば小さな家ほどはある。

 三角形。真下からみた竜の印象は、それだった。今こうして間近で見ても、そうとしか言いようがない。胴体と一体化した平らな翼。それだけだ。

 胴体の中心、すこし前方あたりがわずかに膨らんで、他とちがう光沢のある肌でおおわれている。あれが目だろうか、と思う。その両脇に穴。口のようだが、よくわからない。


 男の知っている、どんな動物とも違う。異界の生物。

 これが、竜か。


 いぃぃぃぃぃん、と小さな異音。おもわず、身構える。

 それが、少しずつ消えていき、

 病を得た女のような、しわがれた高い声が、どこからか聞こえてきた。

『……にんげん、』

 そう、一言。

 男は、周囲を見回した。竜は微動だにしない。気がつけば、あたりはすっかり明るく、自然の洞窟というには不自然な、灰色のざらざらした壁と地面があらわになっている。

 古代石。

 すべて、古代石でできているのか。してみると、ここは神話時代の遺跡か。

『にんげんよ、』

 もう一度、奇妙な声。

 男は、槍をかまえなおす。やはり、竜が話しているのか。

『なぜ……ここに、』

「喋るなッ!」

 ふいに、あせりと恐怖が男を襲った。叫んで、槍をぐっと持ちあげる。

 会話してはいけない。

 なぜなら、おれはこいつを狩るのだから。

『ばかな、』

 その声はあくまで平坦だったが、男は嘲笑われているように感じた。

『そのような……、包丁などで、傷つくものか』

 ほうちょう。

 そう、言われて、男の頭に浮かぶのは、石をみがいてつくった刃物状の器具である。

 獣を狩るときに使うものではないし、まして貴重な古代石の刃とは比べるべくもない。

 しかし━━

「あなどるな!」

 全身の力を込めて、もう一度、突く。

 ふたたび、異音。

 それ以上、刃が欠けはしなかったものの、竜の肌はきれいなままだ。微動だにしない。

『何度でも、試せばよい』

 あくまでも平坦な声で、竜はそういった。どこから声を出しているのかは、わからない。

『かまわぬ。壊せるものなら、壊せ。どうせ、できはしないが』

 そう、言われて━━


 突然、気持ちが萎えた。


 男は、目を伏せて、槍をさげた。それでも座る気にはならず、棒立ちのまま、言葉を返す。

「お前は、……なんなのだ」

『お前こそ、何をしに来たのだ』

 そう、言い返されて、ふと気がつく。


 これは、人間だ。

 いや、少なくとも、人と同じ世界に有るものだ。

 黄泉路の王や精霊のような、異界のことわりに属するものではない。

 そう、思うと、気持ちが楽になった。


「おれは、お前を狩りにきたのだ」

 するりと、正直な言葉が口から出てくる。

『狩れるのか』

「狩れない。今、わかった」

 こんなことを言って、どうなるというのか。

 しかし、嘘をつく気にもなれない。どうにでもなれ、と思った。

『ならば、どうする』

「わからぬ。このまま帰るわけにもいかぬ」

 からん、と槍をころがす。

 腰をおろして座る。

 男は、目をとじた。

「おれを、殺すか。」

『なぜ、』

「おまえを殺そうとしたからだ」

『殺すだけの力を持たぬ者が、何を。ただ、追い払うだけよ』

 そうか、とぼんやり思う。

 あれは、竜がおれを追い払おうとした音であったか。

「ならば、もう一度追い払えばよい」

『一度やって引き返さぬものは、何度やっても同じであろう。ここで倒れられても困る』

「そうか、」

 男は、沈黙した。

 これ以上、ここにとどまる意味もない。

 だが……、

『お前は、どうしたいのだ』

 そう言われて、答えに窮する。

 命をかけて狩るつもりではいたが、それは、狩れないのならば死を選ぶという意味ではない。

 どうあがいても望みがかなわぬなら、命を拾ったと思って帰るしかない。それも、わかっている。

 だが、このまま退いてよいのか。

 なまじ、さしせまった危険がないだけに、迷いがある。

 男が黙っていると、竜は、重ねて問うてきた。

『お前は、なぜ、私を狩ろうとしたのだ』

「それは……、」

 そこまで、話してよいのか。

 少し、迷ったが、これ以上どうしようもない。

 言うしかない。

「……空の星を、この手で掴むためだ」


 竜が、何かうめいた。

 嗤ったのだ、と男は思った。


『星、と言うたか』

「言った」

『ただ、空を飛びたいというのではないのか。それなら、少しは計らってやらぬでもないが』

「違う」

『星がどんなものか、知っているのか』

「知らぬ。知らぬが━━」


 いや、知っている。

 星は、ひとの霊が凝ったものであり、地上から飛んだ魂が変ずるところのものである。

 そして、天は、空よりもずっと高いところにあり、神話の時代からの死に人たちが、永劫にそこで暮らすところだと。


 だが、竜が聞いているのは、そういうことではあるまい。


『知りもせぬくせに、大それたことを』

 いわれて、男は目を開けた。

 竜の顔と思われるところを、じっと睨みつける。

「知ろうが知るまいが、やると決めたのだ」

 そう、ゆっくりと言って、また目を閉じる。


 わかってもらいたいなどとは、思わぬ。

 まして、竜などに。


 それから、永遠とも思えるような沈黙があって、

 もう一度、竜の声がした。


『入るがいい。見せてやろう』

 目をあけると、竜が大きく顎を開いていた。

 口と思われたところではなく、胴体の中心のふくらんだところ。

 そこが、大きく開いて、闇が男を飲み込むように待ち受けている。

「おれを━━」

『喰わぬさ』

 今度ははっきりと、竜は嗤っていた。あいかわらず、身じろぎもせぬままに。

『よいから、入れ。星がどのようなものか、お前に教えてやる』



 竜の腹の中には、かわいた狭い空間があった。

 足元も、頭上も、硬く、つるつるしたものでできている。立つだけの高さはない。目の前にある曲線状の構造物は、革のようなもので覆われている。

 この場所は、一体なんなのか。

 竜の体内であることは、間違いない。しかし━━

 とつぜん、足元が動いた。

(喰われる!?)

 とっさに身をかたくする。そうしている間にも、奇妙な振動が足元から全身に響いてくる。


 竜が、動いているのか!?


 上を見あげる。黒いもので覆われていた頭上が、いつのまにかがらんどうになっている。

 いや、違う。

 空は見えるが、空気(エア)は遮断されている。水のように透明な壁があるのだ。

 ふたたび、足元が大きくゆれた。

 男はもんどりうって倒れた。革状の構造物に手をついて、仰向けにころがる。

 すると、かん高い異音とともに、両脇から、うすい帯状のものが飛び出してきた。声をあげる間もなく、体の脇に滑りこみ、がっちりと固定される。

 動けない。

 透明だった頭上に、かちかちと赤いひかりがまたたいた。いくつかの直線と、こまかな蟲のようなたくさんの図形が、空中を流れていく。

 男は、あきらめて目をとじた。もう、理解の範疇をこえている。


 ふたたび、振動。そして、轟音。


 ずしりと、目に見えない重みが男の肩にのしかかってきた。頭がぼうっとして、吐き気がしてくる。

 これは、呪いか。

 耳が痛くなってくる。視界がせばまる。

 頭痛が、


 男は悲鳴をあげた。



『見るがいい』

 しずかな、よく磨かれた古代石の珠のような声で、竜が言った。

 男は、かたく閉じていた目を、ゆっくりと開いた。

 全身が汗だくだった。叫び疲れて、喉がひどく痛い。

 まだ、落ち着いたわけではない。ともかくも、息を整える。

 目を開けたが、まだ、うつむいている。

 顔を上げるのが、怖かった。


 外が、目に入るからだ。


 ぱちんと音をたてて、身体を固定していた帯がはずれた。しゅるりと、背中のほうにある隙間に吸い込まれていく。

 立ちあがるスペースはない。上半身を起こして、大きく深呼吸する。

 心臓の鼓動が、少しずついつもの速さに戻っていく。

 目を閉じて、ふたたび、深呼吸。

 もう一度、目を開いて、見あげる。


 そこには、黒い空が広がっていた。


 夜空、ではない。まだ陽は沈んでいない。

 前方、少し見上げるあたりに、太陽はこうこうと光っている。

 まだ、星は出ていない。


 おかしい。

 洞窟に入ってからの感覚が曖昧だが、もう、とっくに陽は沈んでいるはずの時間ではないか。

 これは、夜の空なのか。

 暗いわけではない。太陽が目の前にあって、まぶしいくらいだ。

 ただ、黒い。

 墨で染めた布を陽にさらしたような。


 これは━━


「おれは、死んだのか。」

 知らず、つぶやく。

 黄泉の国。

 灰の国の奥にあるという、死者がたどりつくもうひとつの世界。

 昼も夜もなく、天も地もなく、ただ凍りつくような寒さと静寂だけが在るという━━

『そう、思ってもらっても、かまわぬが』

 ふたたび、竜の声がした。

『例え、そんなものがあるとしても、私はゆくことがかなうまい。ここは現世よ』

 そう、言われても、信じられようはずもなかった。

 男は、目を見開いたまま、眩しい黒空をじっとみつめていた。

『……下も、見せてやろう』

 その言葉とともに、


 地面が消えた。


 男は絶叫した。ぽっかりと足元に広大な空間がひらき、遠く離れたところに巨大な湖のような青いものが広がっている。ところどころに、白い雲のようなものが渦を巻いて、墜ちてくるものたちを待ち受けている。雲のすきまには、緑と茶色がかすかに見えるが、遠すぎてよく見えない。


 これは、何だ。

 これは、まさか、


 尻の下には、硬い感触が残っている。

 にもかかわらず、眼下に広がる圧倒的な虚無に足をとられて、男はどこまでも墜ちていった。



 長命族の村で、はじめて一人の夜を過ごした日。

 少年は、どうしても寝つけなかった。

 あてがわれた小屋から出て、集会所まで歩く。

 昼間の、血なまぐさい臭いは、もう消えている。

 死の臭いはすぐに遠ざけるのが、長命族の流儀らしい。

 夜半までかかって砂が撒かれ、香草入りの火が焚かれ、死者は火葬された。

 それらが行われている間、少年は、ぼんやりとただ座っていた。


 熾火は、まだわずかに熱を放っている。


 少年は、集会所の隅に腰をおろして、膝をかかえた。

 涙は、まだ湧いてこなかった。

 そうして、小一時間ほどもじっとしていると、


 彼女が、そこにやって来たのだ。



 ━━火葬された魂は、どこへ行くのか。


 隣に座った少女に、少年はそうたずねた。

 少女は、困ったように首をかしげて、いった。


 ━━空に。天の星になるの。

 ━━それなら、


 少年は、ふと喉の奥からあふれだしてくるものを感じた。意味もわからないまま、口にする。


「それなら、おれは、天までゆきたい。」


 少女は、そうだね、といって少年の肩を抱いた。その日から、かれらは同志になった。



 男が目を開けると、そこはまだ竜の体内だった。 

 竜の顎はひらかれ、外が見える。

 ふたたび洞窟の中であった。 

 男は安堵して、立ちあがった。身体がこわばっている。

「……あれは、何なのだ」

 竜に対面するように胡座をかいて、そう尋ねる。

 落ち着いたふりをしながら。

『別に、なんということもない。ただ、空の上がああなっているのだ』

「空の上?」

『そうだ。雲の上の、ずっとずっと高いところだ』

「ならば、あそこが天上ということか」

『そうだが、星のあるところとは違う』

「なに!?」

 男は大声をあげた。

『星のあるところは、もっとずっと遠くだ。私も、そこまではゆけぬ』

「竜でも、ゆけぬのか」

『ゆけぬさ』

「なぜだ」

 しらずしらず、男の声が大きくなる。竜のこたえは、あくまで静かだった。

『そのような力がないからだ。私は、大気のあるところしか飛べぬ。それに、星までの距離は、あまりに遠いのだ。ここから一番近い月でさえ、先ほどの場所の、さらに何千倍も遠くにあるのだよ』

「何千倍……、」

 何千倍、何万倍という単位は、男が実感できる範囲をこえている。

 この時代、魔法使いでもなければ、そのような数を知ることすらなく一生を終えるのがふつうだ。

『お前が、私を狩って、どのように星へと向かうつもりだったかは知らぬ。しかし、所詮は無理なことだ。私はそのようにつくられてはいないのだ』

「……お前は、できなくともよいのだ」

 男は、喉のおくから言葉をしぼり出した。

「おれは、お前の翼を狩りにきたのだ。鳥の翼を火にくべれば、空気(エア)の流れができる。翼に秘められた魔力があふれ出るからだ。お前が遠くまで飛べるのは、鳥よりもずっと強い魔力があるからだろう。ならば━━」

『人間よ、それは違うのだ』

 平坦な竜の声に、少しだけ悲しみのようなものが混じった。

 いや、男がそう感じただけだったかもしれない。

『そのような方法で、星にゆくことはできぬ。よしんば、お前が思うような方法で、人を空に飛ばすことができたとしても、それは、星の世界へゆくこととは根本的に違うのだ』

「なにが違うというのだ、竜よ」

『……少し、昔の話をしよう』

 かたかた、と音がしていた。

 それは、竜の頭のところから響いてくるようだった。

 ほんの少しだけ間をおいてから、竜は続けた。

『その昔、この世界の空には、たくさんの竜がいた。人は、竜とともに空を飛び、海を越え、たった一日で、地上のどこへでもゆけた。そんな時代があったのだ』

 男は、黙って、地面をにらみつけていた。

『その時代には、あるいは、お前の夢も、かなえる術があったかも知れぬ。しかし、今は違う。何もかも変わってしまったのだ。今や、空に竜はなく、遺物は土にうずもれ、人々が解き明かした世界のことわりは、長い時間の果てにほとんどが失われた』

「ならば、」

 男は顔をあげた。竜の目のようなところを、じっと睨みつける。

「ならば、星へ行く方法はあるということではないか。古代人は━━」

『その通りだ、人間よ』

 すこしずつ、竜の声は低くなっていた。

『だが、その方法を、お前にわかるように説明する術が、私にはないのだ。人類が、長い長い時をかけて築いてきたものが、失われてしまった。あまりにも、前提が違いすぎるのだ━━』

「それは……魔法か。古代の魔法のことか」

『お前たちの言葉でいえば、そうだ』

 男は、山人と、仲間が話していたときのことを思いだした。

 魔法使いたちの話は、自分にはわからぬ。わからぬままでいいと思っていた。

 竜が言っているのは、それと同じようなことなのか。

『私とて、直接にその時代を生きたわけではない。ただ、知っているのだ。生まれる前から』

「竜は、……ずっと生きているのではないのか」

『違うよ』

 竜の声が、少し笑ったように感じられた。

『私がここで初めて目覚めたのは、たった数十年前。私が直接に見聞きしたのは、今この時代の出来事だけだ。それでも、様々なことを、生まれたときから知っている。竜とはそういうものなのだ』

「それは……古代人がお前をそのようにつくった、ということか」

『そのとおりだ』

 竜は少し驚いたようだった。

『もっとも、そのようにつくられた理由も、この時代にあっては……もう、意味のないものになってしまったようだ。私が目覚めたときには、まだ、かろうじて仲間のようなものがいたのだが……彼らも、もう、口をきかなくなってしまった。あまりにも長い時間が経ちすぎたのだ』

 男には、もう、想像もつかないような話であった。

 ただ、黙って聞くしかなかった。

『私も、いつまでも生きていられるわけではない。いずれ、朽ちる。旧時代のものたちは、消えゆくしかないのだ。お前たちがこのまま知恵を積み重ねてゆけば、いずれ、お前の願いもかなう時がくるかも知れぬ。だが、それは今ではない。おそらく、数百年、ことによれば数千年も後のことだ。私には、それだけしか言えぬ』

 ただ━━


 ただの、言葉だ。

 男は、沈黙の中で、何度もそう考えた。


 ただ、言われただけではないか。

 諦めろと言われれば、諦めるのか。

 おれの、おれたちの意思は、それだけのものか。


 竜がなんと言おうと、知ったことか。


 だが、



 男は、山を降りた。



 灰の国のほとりに、小さな遺跡がある。

 もともとは、いくつもの階層に分かれた大きな建造物だったらしい。今はほとんど朽ちて、基礎の一部と、小部屋のようになった壁が残っているにすぎない。

 高台になっており、離れたところからもよく見える。


 男は、森の端を早足で歩きながら、空を見上げた。

 狼煙のさきから、まっすぐ目線をおろす。数日前にここを出たときとかわらぬ、灰色の遺構。西に四角い穴のある高い壁、北と南は、朽ちかけた低い壁。

 正面の壁の下に、なにか見える。

 おりかさなって倒れた、なにかの、死骸だ。

 目をこらすと、血が流れているようにも見える。


 ━━ヤマオオカミ!?


 さあっと血の気がひいた。あわてて、走る。

 森のおわりの大きな木のかげから、一歩踏み出したとき、かあん、と乾いた音がした。

 反射的に足を止めて、ふりむく。


 木の幹、ちょうど目線の高さに、ふかぶかと長い矢が突き刺さっていた。


「サラーッ!」

 あわてて、木に身を隠しながら、叫ぶ。

 魔法の弓矢だ。人間の身体など、簡単に貫いてしまう。

 いらえはない。

 もう一度、叫ぶ。

「サラ! おれだ!」

 数秒、待つ。

 やがて、西側の窓から、若い女が顔を出した。

 色黒で、細おもて。長命族らしく、こまかく編みこんだ黒髪を後ろで束ねている。

 大きな目をまん丸くして、叫び返す。

「ジン!」

 女にしては低い声で、

「無事だったか、」

 そう、言いながら、窓に手をかけて身をのりだしてくる。

 男━━ジンと同じく、簡素な麻の着物であるが、飾り紐と赤い紋で長命族のものとわかる。長袖の上着に帯をきゅっと締め、細身の長ズボン。夏でも肌を晒さないのは魔法使いの流儀でもある。

 窓から、小さな足を出す。紐のサンダルではなく、木靴である。

「おい、」とジンが声をかける間もなく、

 かろやかに、飛び降りる。

 ジンは、あわてて走りだした。もちろん、着地に間に合うはずもない。サラは空中でかるく姿勢をととのえて、下草の茂った斜面に滑り落ちた。木靴が石にあたって乾いた音をたて、滑る。

 右手は、大きな魔法の弓をつかんでいる。左手を地面につく、が止まれない。

 ざーっ! とかなり大きな音をたてて、斜面を降りる。

「ばか!」

 ようやく、走り寄ってきたジンが、姿勢を低くして、抱きとめた。

「何してる。大丈夫か」

「いやあ、……木靴が。」

 サラは、てれくさそうに笑った。ふたつも年上のはずだが、まるで子供じみている。

 魔法弓をおいて立ちあがり、尻の砂をはたく。ふと真顔にもどって、

「きみこそ、無事でよかった。……竜は?」

「すまん。」

 ジンは、眉をしかめて首を振った。

「狩れなかった」

「だと思っていたよ」

 サラは間髪入れずにそういった。口許には笑みが浮かんでいた。

「なんだと?」

「今朝も竜が飛んだからな。それより、君の身を心配していた。……本当に、無事でよかった」

 ジンはちょっと黙りこんだ。軽く頭をさげて、もう一度、あやまる。

「……すまない」

「何を、あらたまって」

 サラは声をあげて笑った。そうしていると、やはりジンよりも年上にみえる。

「それで、竜には会ったのか。……どんな生物だった」

「会ったどころじゃない。……竜の腹のなかに入って、飛んだ。それから、話を聞いた」

「なんだって、」

 こんどは、さすがに驚いたようだ。息を呑む。

「竜は、喋るのか。」

「喋るどころではない。……だが、ともかく、」

「ともかく?」

 ジンは一度目をそらして、それから覚悟を決めてサラの目をみつめた。

 一番いいにくいことだが、言わなければならない。

「竜の翼を火にくべても……いや、どんな方法であれ、星のあるところには、ゆけぬと……」

「竜が、そう言ったのか」

 サラは、腕組みをしてじっとジンを見た。

「ああ、……いや、正確には、数百年、数千年かかると……。ただ、風精(エア)をつかって空を飛ぶような方法と、星の世界へゆくのとは、まったく違うことなのだと、言っていた」

「数百年数千年かければ、ゆく方法があると?」

 サラは目を細めた。ジンはにらみつけられたような気がして、身をすくめた。

「……そうともとれるように、言っていたが」

「ならばよい」

 サラは表情をゆるめた。うでぐみをといて、ふんわりと腰に手をあてる。

「ゆく方法は、あるのだな。ならば、その年月を縮める方法を、探すだけだ」

「そんな、簡単に、……」

「なあに、考えはある」

 ぴっ、と長い指をつきだして、サラはたのしそうに言った。

風精(エア)がだめなら、火精(ボルケノ)だ。北へゆこう」

「北?」

「北の海の向こうに、火を放つ山があるという。地中より吹き出す火の力を借りれば、天高く飛べるかもしれぬ」

「そんな、……」

 ばかな、と口許まででかかる。サラはそれを見透かしたように、眉を動かしてわらった。

「だめなら、もう一度竜のところへゆくまでさ。今度は私もゆく」

「竜は、おれたちに話してもむだだと……、」

「きみには、だろ」

 サラはけろりとして、魔法弓をひろいあげた。弦をひきあげる梃子がはずれかかっている。

「……ちょっと、使いすぎたみたいだ。直さないといけないな」

 いわれて、ジンはもう一度あたりを見回した。

 ヤマオオカミの死体が、窓の近くに3体。斜面のまわりに、4体。

 よくみると地面にも、狙いをはずしたらしい矢が、いくつか。

「……無茶をしたものだ」

 ぼそりと言うと、遺跡のほうに戻りかけていたサラが、ふりむいた。

「なんだって?」

「いや、なんでもない」

 ジンは、呵呵、とわらった。

 奇妙に晴れやかな気分であった。


 ふと気配を感じて、空を見る。

 竜は、今日も飛んでいた。


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