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飛竜山にて  作者: 楠羽毛
1/2

(前編)

 飛竜山という山が、灰の国の中心にある。

 古くは、ヒワタリヤマとかいわれていたらしい。

 かつて、その頂から天までとどく花が咲いたという。


 神話の時代の話だ。


 今は、せいぜい竜が飛ぶくらい。



 男が、森を歩いている。

 岩のような男である。

 背は低い。しかし、小さくはない。筋肉でふくれあがっているのだ。北方人らしい彫りの深い顔と、たくましい体つきのせいで年かさに見えるが、肌はまだ若々しい。

 実のところは、まだ成人したばかりの若者である。

 色素の薄い肌と、茶色がかった黒髪は、典型的な北方人の特徴である。もっとも、ひげを綺麗に処理しているところや、着ているものは南方人のようでもある。

 鳶色に染めた麻のパンツと、古代文字をかたどった模様のシャツ。薄着ではあるが、長袖に、ズボンのすそをサンダルに巻き込んで、肌の露出を減らしている。

 腰には、小さな石斧と、きつく縛った水袋。背には、木枠つきの麻袋と、大きな弓矢。

 太い石槍を杖のようにして、かなり速く足を進めている。


 夏である。


 高く育った木々のせいで、下ばえの草はあまり育っていない。

 とはいえ、厚く重なった苔と、でたらめに這いまわる木の根に、ときどき足をとられそうになる。

 むろん、道はない。

 日のさす方角をたよりに、北へと進むだけである。

 山頂を目指すのだから、上り坂へ向かえばよさそうなものだが、そう簡単な話ではない。

 高台から見下ろしたときには、平らな森に見えたが、いざ歩いてみると、意外と凹凸が多い。

 小さな丘のようなところがいくつもあったり、奇妙な形をした岩が並んでいたりする。

 硬い岩からつきだすように、古代の構造物が見えている箇所もある。


 神話の時代、ここで何があったのかは、誰にもわからぬ。

 だが、今はただの森だ。


 男は、そう自分にいいきかせながら、淡々と歩いている。

 高く育った針葉樹が陽をさえぎるせいで、薄暗い。

 ひんやりした風が、うなじのあたりをかすめていく。

 夏の熱気にあてられた肌を、風精(エア)が嘲りながら撫でるようだ。

 禁忌を破った者への警告かもしれないが──


 おびえている暇はない。

 なにしろ、飛竜山の頂まで2日でゆこうというのだ。


 男は、ふと足を止めて空を見上げた。

 かなり濃い密度で枝がかぶっていて、日がさしている方向は、正確にはわからない。

 つまり、方角も、はっきりとはわからないということだ。


 これまで、まっすぐ歩いていたのを、少し方向をかえる。

 10歩ほど歩き、このあたりで一番背の高そうな木のわきに立つ。

 灰色がかった赤茶色の幹。

 ツガの木である。

 男は、背中の荷をおろす。

 涼しいとはいえ、夏であり、数時間も歩き続けた男の体は汗だくである。しかし、休まない。

 麻袋から、もうひとつの小さな袋をとりだす。

 小さな袋には、小さく文字が書いてある。古代文字であり、男には読めない。

 読めないが、なんと書いてあるかは知っている。その道具の名前だ。


 アシナワ。そう、書いてあるはずだ。


 それは、人の胴回りより、すこし小さな輪のかたちをした、太い綱であった。

 男は、自分の両足を、その輪のなかにいれて立った。

 足を広げて、足首で輪を固定する。

 両腕を、木の幹にまわして、幹の後ろで手をくむ。

 地面をける。

 幹をはさむように両足を突き出すと、足首のあいだの縄が、木の皮にくいこむ。

 手に力を入れる。

 両手と、足の縄で、幹をはさみこむようにして、空中で体を固定しているのである。

 それから、一瞬だけ手を離して、体をのばし、また幹に腕をのばす。

 腕に力をいれて、こんどは足を一瞬だけ離して、ぐっと体を上にあげる。

 枝があるところは、いったん縄をはずし、避けるか、枝に足をかけて、また幹にとりつく。

 そうやって、尺取り虫のように、男は木を登っていった。

 あっという間に、木の葉のあいだをすりぬけ、空が見えるところまで。

 いちばん高い枝に、尻をのせて、一息つく。

 視界がひらける。

 周りにも同じくくらいの高さの木がたくさんあるから、なにもかもが見下ろせるわけではない。

 しかし、空は見える。

 空と同じほどに高く見える、飛龍山の山頂も。


 灰の国に入る前に見上げた姿とは、すこし違う。

 遠くからは青く見えた山頂が、ここからは土色だ。

 山腹のあたりまでは、森が続いているのか、緑に染まってみえる。


 あそこまで、いくのだ。


 体をずらして、反対側をむく。

 空を見上げる。


 煙がみえる。


 仲間があげた、のろしだ。

 灰の国の入り口にある古代人の遺構で、たったひとりで待っている仲間である。

 男が帰るまで、絶やさず煙をあげ続けることになっている。


 あそこへ、帰るのだ。

 竜を倒して。



「気負わなくてもよい。あそこまで、行って帰ってくるだけだ」

 今朝、かれを送り出した魔法使いは、そういった。

 本当になんでもないことのように。かすかに微笑んですらいた。


 もちろん、無理な話だ。



 少し歩くごとに、太陽の位置から方角を割り出す。

 それを数回繰り返した後、木に登って、目的地を確認する。

 そのたび、目印をつける。


 それだけやっても、不安はぬぐえない。

 同じ方向に歩いているつもりだが、ぐるぐる回っているような気がする──


 たちどまって、水袋をあけて口に含む。

 深呼吸する。


 暗くなれば、ますます方向がわからなくなる。今のうちに、もっと進んでおきたい。


 ふたたび、歩き出す。

 森に入った当初に感じていた、ぶきみな不安感は、少しずつ薄れていた。

 慣れると、生き物の気配が、そこかしこにあるのがわかる。

 ほとんどは、虫や小さな鳥だが、まれに、いたちや鼠のすがたも見える。

 何度か、蛇も見た。

 ほとんどは、男がよく知っている種類だったが、なかには見慣れないものもいる。

 種類がわからなければ、毒があるかどうかもわからない。とにかく、近づかないことだ。

 さらに、注意しなければならないのは、ヤマオオカミである。

 四つ足の、敏捷な獣だ。

 鋭い牙と、爪で、人間の体など簡単に切り裂いてしまう。

 出逢えば、死を覚悟して戦わねばならない。

 昔、滞在していた村が、数頭のヤマオオカミに襲われたことがある。

 こちらは大勢だったが、何人も死傷者が出た。

 今は、自分ひとりだ。やられそうになっても、助けてくれる仲間はいない。


 そんなことを、考える。


 少し、いやな予感がするのだ。

 後方から、がさり、がさりとかすかな音が聞こえたような気がする。

 自分の汗のにおいに混じって、肉食獣の匂いが漂っているようにも思える。

 立ち止まってみても、気配は消えない。


 気のせいかもしれない。

 だが、そうでなければ──


 ヒュゥ……ッ


 吐息の音がした。

 反射的に、振り向く。


 十歩ほど離れたところで、一対の目が、木々のあいだからじっとこちらを見つめてきていた。


(くそっ……)

 後悔する。

 槍をかまえる。

 背中から弓矢をとりたいが、距離が近すぎる。

 槍の穂先をとおして、獣の目をじっと睨みつける。

 黒い、毛におおわれた顔がはっきり見えた。間違いない。ヤマオオカミだ。

 体の大きさからして、おそらく成獣だろう。

 できれば、戦いたくはない。

「シッ!」

 鋭い声をあげる。

 あいては、微動だにしない。

 ずきんと、左肩が痛むような気がした。とっくに治ったはずの古傷である。

「退け!」と、もう一度。

 小さく槍を上下させて、威嚇する。


 にらみあったまま、長い時間がすぎた。


 油汗で足がぬかるむ。

 ざわざわと、風で枝がゆれる。

 影が動いた。

 かさり、かさりと、こするような音が、少しずつ遠ざかっていく。

 男は、動かないまま、木々のあいだを睨みつける。


 獣の姿は、見えなくなっていた。



 5年ほど前のことだ。

 血が、大きくひろがって、集会所の土を赤く染めていた。

 集会所というのは、村の中心にある、かがり火をかこんで集まるための広場だ。

 その日は、交易人が到着した翌日であり、物々交換のために集会が行われるはずであった。

 男は、交易人の息子である。

 集会のため、村人とともに荷を広げて用意をしていたところ、一頭のヤマオオカミがやって来た。

 すでに、誰かを襲ったらしく、口に血がついていた。

 悲鳴をあげる村人をかばうようにして、父は、男に、武器をとってくるようにいった。


 男が、二本の槍と手斧をかかえて戻ったとき、そこに立っている人間はいなかった。


 ヤマオオカミは、三頭に増えていた。

 一頭は身体が小さく、幼獣であるように思われた。

 その、いずれもが、口の周りを血で染めて、肉を喰んでいた。


 動かない屍体のなかに、父と母の顔をみつけたとき、男は狂った。



 男は、干した木の実をかじり、水を飲みながら歩き続けた。

 かなり、日が高くなっている。

 周囲にヤマオオカミの気配はないが、ともかく日のあるうちに森を抜けてしまいたい。

 さすがに、ペースは落ちている。

 疲れのせいだけではない。少しずつ、上り坂が多くなっているのだ。

 飛竜山の麓に近づいている。


 ぞわりと、寒気がした。


 血の匂いだ。

 それから、獣の毛の匂い。

 たぶん、ヤマオオカミの──


 あたりを見回す。


 下生えの草を、大きくかきわけたようなあとがある。

 草の状態からして、長く使われた獣道ではなさそうだ。

 つい最近、大きな獣が通ったあとだろうか。


 大きな獣。


 ヤマオオカミにしては、大きすぎる。

 しかし──

(魔獣、……ほんとうに、いるのか?)

 男は、ヤマオオカミより大きな獣を見たことがなかった。もちろん、竜は別だが。


 北の島国には、人よりずっと大きな四足の獣が群れをなすという。

 西方の山岳地帯には、角をもつ獣がいるという。

 そして灰の国には、人を食らう魔獣が棲むという。

 いずれも、噂にすぎない。


 男は、気配に耳をすませながら姿勢を低くして足跡をさがした。


 あった。


 岩にはえた苔に刻むようにして、いくつか足跡らしきものが残っていた。

 大きな爪のあとが、左右対称にふたつ。その後ろに、小さな指のあとがいくつか。

 ヤマオオカミのものとは、明らかにちがう。

 爪のあとが、苔の層をこえて、岩の表面にまでかすかに刻みつけられている。かなり強く蹴ったか、あるいは体重が非常に重いということだ。

 男は、獣道のつづくさきを見た。

 血のにおいは、そこからきている。


 一歩ずつ、忍びあしで、匂いのもとへと歩く。

 近い。

 すぐそばだ。


 人の腰ほどのでこぼこした岩を中心として、かなり広い範囲で草がひきたおされて乱れていた。

 その、岩のうえで、


 ヤマオオカミが3頭、折り重なるようにして死んでいた。



 少し、吐き気がした。



 黒と、白と、まだら。

 目立った傷はないが、白いヤマオオカミの口から、泡のまじった血が流れだしている。

 叩きつけられて、内臓をやられたか。

 男は、周囲を見回した。魔獣が、もし本当にいるならば、まだ遠くには行っていないはずだ。


 弓をとりだし、矢をつがえる。


 気配に耳をすませる。

 風の音。

 鳥の声。

 虫のざわめき。


 風の音に、さらに意識を集中する。


 風精(エア)の動きを、

 それから、もしいるならば、

 灰の国を支配するという、黄泉路の王の気配を知るために。


 前方から背後へと、風精(エア)が吹き抜けていくのがわかる。

 風精(エア)が運ぶにおいと、木々にぶつかる音が、周囲の様子を教えてくれる。

 前方に、大きな動物の気配はない。いたちが二匹と、小さな蛇がいるだけだ。

 背後には──


 呼吸音。


 自分のものと、もう一つのものを区別するのに、少し時間がかかった。

 かすかな獣臭。


 ヤマオオカミより、明らかに大きな獣のにおい。


 魔獣!?


 男は弓をかまえたままふりむき、シィッと強く息を吐いた。木々のあいだ。視認する。

 弓が届くか届かないかくらいの距離。

 斜面からこちらを見下ろすように、四つ足の大きな影。

 灰色の毛でおおわれた身体は、ずんぐりとして丸い。ヤマオオカミどころか、人よりもよほど大きく見える。顔はよく見えないが、きつねのように鼻のところが突き出している。

 ぶきみな、大岩のような姿であった。

 男は、きりりと弓をひきしぼった。麻をねじりあわせて作った強い弦、特別製の弓ではあるが、基本的には、せいぜいヤマオオカミまでの小さな獣を狩るためのものだ。

(あの弓、持ってくるべきだったか)

 そう、少しだけ後悔する。

 長命族がつくった魔法の弓、あれならば、ずっと強い矢がうてる。

 もっとも、魔法具の扱いはとんと心得ぬ。まともに使える自信がなかったのと、残された相棒が身を守れるようにとあえて置いてきたのだが、いざ魔獣を目の前にするとやはり不安であった。

 まして、竜と戦うとなれば。


 魔獣は、こちらをじっと見つめている。

 警戒しているようにもみえる。


 じんわりとした圧力が、泥のようにのしかかってくる。

 竜の眷属か、黄泉路の王の化身か。

 ただの、珍しき獣か。

 それすらも、男にはわからない。

 ただ、狐や、いたちや、ヤマオオカミのような尋常の生き物とは違うということは、わかる。

 動けない。

 ただ、ぼたぼたと脂汗がたれるに任せて、じっと睨み合うしかなかった。


 魔獣が、口をあけた。


 男は、全身の毛が逆立つのを感じた。

 太く、そりまがった牙のようなものが、口のなかに見えたのである。

 ヤマオオカミの身体に目立った傷がなかったことから、噛み殺されることはないと思っていた。

 よしんば、あれがこの森の守神であれ、怒りに触れて叩き殺されることはあっても、喰われることはないものだと。

 だが、あの牙はどうだ。

 あれは肉食獣ではないのか。

 おれは、喰われるのではないのか。


 戦わねばならない。男は、そう決めた。


 矢のねらいを、いま一度、つけ直す。

 ふしぎと落ち着いていた。

 魔獣の顔めがけて、集中する。

 視界が狭まる。

 ひょうと、弦をはじいて、矢がとんでいく──


 魔獣が、頭をさげた。

 姿勢をひくくして、足をためるような動きをすると同時に、矢が頭皮をかすめてそれていく。

 避けた、ということか。

 偶然か、まさか──

 そんな思いが、迷いとなって頭をかすめる。

 次の矢をつがえるのが、一瞬おくれた。


 気がついたときには、魔獣の顔が、すぐ目の前にあった。


 全身がばらばらになるような衝撃が、腰から背骨へとつきぬけた。脳が揺れて、目の前が真っ暗になった。それから数秒のあいだ、耳と、後頭部に鈍痛がはしり、ようやく意識が消えた。



 およそ二ヶ月前のことだ。

 灰の国の西にある、アメツヤマとかいう山脈群、そのうちで最も高い頂をもつ山に、男はいた。

 ひとりである。

 先ほどまでは、仲間の魔法使いと一緒だったが、山頂へゆく途中の小屋においてきた。

 賢者、とか、仙人と呼ばれる山人が住んでいる小屋である。

 元はといえば、その山人と話すために、ここへ来たのだ。


 だが、今、そこに男の意識はない。


 山人とは、会った。会ったが、どうということもない。ただの、長命族の老人だ。

 それ以上の話は、魔法使い同士、任せておけばよいと思っている。

 それより、もうひとつの目的がある。


 飛竜山である。


 この山は、飛竜山をのぞけば、このあたりで最も高い山である。

 灰の国とはちがい、地図もあり、いちおう道もあるが、とても、普通の人間が来るところではない。

 山人の小屋をこえてからは、ふみわけ道もなくなり、崖のあいだをはうようにして進まなければならなかった。

 飛竜山へのぼる練習としては、うってつけの場所だともいえる。


 それに、この山頂からは、飛竜山がよく見える。

 男の足元には、小さな岩がある。茶色い、どこにでもある岩である。しかし、この岩は、アメツヤマで最も高いところにある。その上に立つおれは、アメツヤマで最も高いところにいるのだ。

 これより高いところは、飛竜山しかない。

 あたりは、荒涼とした岩場である。

 遠く、あまりにも巨大な台形をした飛竜山をみすえると、左右には天しかない。

 少し、みおろせば、アメツヤマ山系の他の山々、それから灰の国の大森林。

 見渡すかぎり、人里はどこにもない。


 ふと、視界のはしに動くものを感じて、男は目線を動かした。

 竜が、飛竜山から飛び立ったのであった。

 ここからは、黒いぼんやりとした三角形としか見えない。

 しかし、鷲や、とんびのような大きさではない。

 人よりも、もっとずっと大きなもののように見える。


 竜を、間近でみた人間はいない。

 しかし、あれを倒さねばならない。


 不思議と、気負いはなかった。晴れやかな気持ちで、男は竜を目で追っていた。



 目を覚ますと、ひどい頭痛がした。

 あたりに動くものの気配はなかった。獣の残り香と、自分の汗のにおいが鼻をさした。

 ぎりりと奥歯をかんで、男は立ちあがり、のろのろとまた歩みはじめた。


 飛竜山へ。


 空がかげり、あたりが暗くなっても、男は歩き続けた。

 進めば進むほど、魔獣の気配が、すぐ後ろにあるように感じられた。

 岩をよじのぼり、斜面にはえた木に足をかけて見下ろしても、何も見えない。見えないが、そこに何かいるように思われた。風精(エア)の声も、耳に届かなかった。

 ようやく、立ちどまったのは、山腹も中ほどをこえ、まばらな木々もなくなってきたころだった。

 脚が痛む。ひさが震えている。

 何度も崖を登ったため、掌に血がにじんでいる。

 日が沈んでからは方角がわからず、ただ、斜面の方向をあてにして高いところへと登ってきた。飛竜山は、アメツヤマとちがい、ただ一つの山頂にむけて狭まっていく円錐形の山だ。どこからなりと登れば、いずれ頂上につくはずだ。

 そう、考えるしかなかった。どうせ、道などないのだ。

 男は、空をみた。

 もう高い木々はなく、星空が見える。前に登ったアメツヤマも、同じように途中から森がなくなっていた。それと同じくらい登ったのだとすれば、連れと二人で2日かけて登った行程を、およそ半日で進んだことになる。

 足元には、岩場にまだらの模様をつくるように、コケと、小さな草が生えているばかりだ。

 寒い。

 大岩のすきまにもぐりこむようにして腰をおろし、背負い袋から、分厚い敷布をとりだす。麻布に狐の毛皮をぬいとめた上着も。

 アメツヤマに登っていなかったら、夏のさなかにこんなものが必要になるとは思わなかっただろう。木登りの縄にしてもそうだ。山人があの道具をくれなければ、とても、高木にのぼって方向を確認するなど思いつかなかった。

 もうひとつ、山人から聞いたことがある。

 この、森が終わる地のことだ。

 これは、境界である。

 人の住まう地と、天とのはざまであると。


 これより上は、人の住むところにあらず。

 天の領域である。


『ばかをいえ。』

 連れの魔法使いは、わらってそう言った。

『地に足をつけて登るだけで天にゆけるなら、何を苦労することがあろうか。山は、山。それだけだ』

 自分は、それよりはるか下でとどまっていたくせに、かるくそう切ってすてた。

 山人が直接聞いていたら、激怒したろうが。


 男には、どちらが正しいかわからぬ。


 わからぬが、アメツヤマの山頂を踏んだ経験から、この先のことはおおむね見当がつく。

 人がはいれぬ領域などというものは、ここにはない。

 ただ、元来、人が住むべき世界ではないというのも、わかる。

 風精(エア)の息づかいも、下界とはちがう。

 木々が高く育たぬのも、おそらくはそのせいであろう。


 ──あの魔獣も、ここにはやって来るまい。


 来るとすれば、獣ではなく、黄泉路の王の本性を顕してのことであろう。

 それはそれでおそろしいが、あの牙で喰い殺されるよりは、ましだ。

 座って、敷布を身体にまき、背負い袋を抱くようにして休む。

 少し水を飲み、固めた芋の粉と、干し魚をふたつ、食う。

 火は、おこさない。

 魔法具なしではつけるのに手間がかかるし、夜どおしつけておくのも大変すぎる。

 真夏であることが幸いした。ぎりぎり、耐えられそうだ。


 空をみる。


 きれいに晴れているが、さすがに、仲間のあげているのろしは見えない。

 満天の星空である。

 この星々は、神話の時代の前には、もっとずっと少なかった。

 太古のとき、この山の頂から、天にとどくほどの大きな死の花がさいた。

 その花弁に触れたものは、灰となって崩れた。

 そうして、多くの人が死に、星となって天に昇ったため、今のような星空になったのだという。


 ただの、伝説である。



「灰の国へゆくべし。」

 そう、あいつが言ったとき、おれはなんと答えたのだったか。

 


 日がのぼると、自然に目がさめた。

 かるく伸びをして、身体の調子をたしかめる。

 悪くない。

 どこも、痛まない。すこし、疲れが残っているが、それだけだ。

 岩陰で糞をして、朝飯をたべる。

 腹が減っていた。

 干し魚と、芋。

 残量に限りがあるから、少しずつよく噛む。

 噛む。

 噛む。

 噛む。

 気がつくと、芋がずいぶん減っている。

 干し魚も、1匹で済ませるつもりが、2匹喰ってしまった。

 ある程度、余分に持ってきてはいるが、気をつけなければ。

 帰りに、道に迷うことも想定しなくてはならない。


 立ち上がる。


 頂上と思われる方向を、見る。

 それから、その逆側を。


 煙は、今日もちゃんとあがっていた。



 あの煙は、生存確認だ。


 男は、崖を上りながら、そんなことを考えている。

 切り立った崖である。

 自然の崖であるから、あちこちに凹凸や、手をかけられるところがある。一歩ごとにそれを探って、なんとか進んでいる。

 迂回する道はなかった。

 いや、あるのかもしれないが、探せなかった。

 数時間かけて探せなかったものに、それ以上の時間をかけるわけにいはいかない。

 崖の高さは、よくわからない。

 下から見上げたときに、てっぺんがはっきり見えたから、たいした高さではないと思っている。

 とにかく、その崖を、上っている。

 アメツヤマをのぼったときは、必要なかった。崖をさけてゆく道があったからだ。

 だから、準備していなかった。

 木登りの用意はしていたのに、崖のことを考えていなかったのだ。

 間抜けもいいところだ。

 くそ。

 こんなことを考えていても、仕方がない。

 体重を支えている指先から、力が抜けそうだ。


 どうせなら、別のことを考えろ。

 もっと、やる気が出るようなことを。

 たとえば、煙のことだ。


 見えないが、あの煙は、いまでもおれの背後であがっているはずだ。

 あれは、生存確認だ。

 森や山のなかから、帰るべき方向を知るために、あげさせている。それは事実だが、それだけではない。

 あいつがいる場所も、灰の国の一部だ。

 ヤマオオカミも、魔獣も、そのほかどんな危険も、あいつは防げない。

 防ぐだけの用意を、十分にしてきていない。

 だから、早く帰らなければならない。

 5日。

 それだけ待って、戻らなければ、火を消して去るように言ってある。

 しかし、そうしないかもしれない。

 7日、10日、いや、もしかすると、自らおれを探しに森に入る可能性もある。

 だから、ちゃんと帰らねばならない。


 やっと足がかりを見つけた。

 右手の指がゆるみそうになり、こらえる。十分に、足に体重を移してからだ。

 姿勢をただす。一息つく。


 あの煙は、生存確認だ。

 おれが帰るまで、あいつが無事でいることを確かめるためのものだ。

 それが、あがっている限り、おれは帰らねばならない。


 荷物が重い。

 これを捨ててしまえば、もっと登るのが楽になる。

 いや、だめだ。

 この崖を上っても、まだまだ山は続く。

 竜と戦うために、必要なものも入っている。

 しかし、全部はいらないのではないか。

 例えば、木登りの道具。

 毛布。

 余分の食料。

 そういったものは、崖下に置いてきてもよかったのではないか。

 やめろ。

 余計なことを考えるな。

 今から、背負い袋をあけて、必要なものだけを残して残りを捨てることなど、できるわけがない。

 考えても仕方がないことを考えるくらいなら、ほかのことを考えろ。

 たとえば煙のことだ。

 いや、そのことはもう考えた。

 とにかく、手を動かせ。岩のへこみが、そこにある。掴むんだ。

 掴んだ。

 休む。

 ほんのひと呼吸のあいだ休むつもりだったが、一瞬のうちに、時間がたっている。

 意識がとびそうだ。

 くそ。

 とにかく、なんでもいいから、ほかのことを考えろ。

 考えているあいだ、体を動かせ。

 なんでもいい。

 たとえば、あの日のことだ。


 火だ。

 あいつは、火を焚いていた。

 火精(ボルケノ)をよぶのか、ときくと、あいつは笑っていった。


 ──風精(エア)さ。


 意味はわからなかったが、それが必要なことなのは、わかった。

 それが、失敗したことも。


 地面が、ずいぶん遠い。

 いま、手を離したら、頭が割れて死ぬだろう。

 だが──


 思い出す。

 あのとき、あいつがどんな顔をしていたか。

 火を焚き、風精(エア)を呼ぶ、あの儀式が失敗した夜。

 賢人にきいたとおりに、火をたき、布をはり、風精(エア)を待ち受けた。

 火のなかに、オオワシとツバメの翼、たくさんの羽根をいれた。

 呪文をとなえ、きんきらに染めた衣装をきて、火のまわりで踊った。

 それをぜんぶあいつは、一人でやったのだ。


 風精(エア)はこなかった。


 いや、きたにはきた。だが、それは、薄布をふくらませ、少し持ち上げる程度の量であり、人を天に飛ばすような大きな力ではなかった。

 おれたちの目的のためには、足りなかったということだ。


 だから、あいつは言ったのだ。

 灰の国へゆき、竜を狩ると。


 最後の足がかりを蹴って、男は崖上にはいあがった。

 呼吸をととのえて、背後をみる。


 煙は、まだあがっていた。



 崖をのぼった後、ふたつの急傾斜をこえた。

 やがて、太陽が傾き始めたころ──

 景色が、急にひらけた。


 一面の、水。


 それは、湖であった。

 左右には大きく広がっているが、対岸はそれほど遠くない。

 湖のまわりには、尖った岩がいくつもあるが、それ以上大きなものはない。

 つまり、ここが頂上ということか。

(こんなふうになっていたのか……)

 対岸は急な崖のようになっているが、こちら側はゆるい斜面で、湖面に近づくことができる。

 水は、澄んでいる。しかし、底は見えない。

 少し、手ですくって飲む。


 うまい。


 裸になって水を浴びたい衝動がわきあがるが、こらえる。

 ここが頂上なのであれば、すぐ近くに、竜がいるということだ。

 あたりを見回す。動くものの姿はない。

 それどころか、なんの音もない。


 つめたい、うすい空気に、音が喰われているようだ。


 呼吸をととのえなおして、荷物をおろす。

 袋をあける。厚手の布に包まれた、とっておきの武器をとりだす。


 それは、古代石の刃であった。


 掌ほどの長さ、ぎらりと光る銀色の。つるつるした、硬い刃。

 柄はついていない。

 古代石は、それほど珍しいものではない。種類はさまざまだが、遺跡の多いところなら、少し地面を掘るだけでいくらでも出てくる。

 しかし、古代石を加工する方法は、誰も知らない。まして、刃を新たに作ることなど、できない。

 この刃は、長命族の村に、代々受け継がれてきたものである。

 いつ、出土したものかはわからない。もしかすると、神話の時代からずっと、その村にあったのかもしれない。いずれにせよ、代々の持ち主が、きれいに磨き、研ぎ続けてきた、貴重な品である。

 槍につけていた、石の刃をはずし、古代石の刃をつけなおす。

 固定するための穴などないから、槍先の刻み目におしこんで、麻紐でぎゅうぎゅうに縛りつける。

 刃先は薄くて、まっすぐだ。石刃をいくら研いでも、こうはならない。


 これなら、竜の皮も貫けるかもしれない。

 竜の躰がどんなものか、誰も知らないが。


 立ちあがる。

 あらためて、周囲を見回す。

 湖は、おおむね長狭な楕円形をしており、周囲にはいくつかの大岩がある。


 このどこかに竜がひそむとすれば──


 岩かげ、湖のふち、それから水中。

 いくつか、目のなかであたりをつける。

 竜が飛ぶ時間は、おおむね決まっている。今なら、ねぐらに(そんなものがあればだが)いるはずだ。運が良ければ、眠っているかもしれない。

 荷物は、ここに残す。

 槍と、弓矢、手斧。それだけを持って、中腰で湖のまわりを右回りに進む。

 生き物の気配はない。

 風精(エア)は、しずかだ。というより、この領域は風精(エア)が薄すぎて、ほとんど存在が感じられない。

 じりじりと、進む。

 ときおり湖水に目をやりながら、ひとつひとつ、岩かげを確認していく。


 何もない。

 何もない。

 何も──


 湖の端あたりまできたとき、ふと、違和感をおぼえる。

 一瞬ためらってから、ふりむく。

 湖面が、かすかに波打っていた。

 風はない。しかし──

 耳が、痛い。

 しらずしらずのうちに、膝をついていた。音が、


 ぎいいいんと、古代石をこすりあわせたような高音が、足元からせりあがってきた。


 ──ぃぃぃぃぃぃん。


 あたまのなかに、ちょくせつ、おとがとびこんでくる


 痛い──


 頭をおさえ、子供のような姿勢で地にはいつくばっていた。吐き気がひどい。

 視界が、ぐらぐらと悲鳴をあげてゆがんでいく。

 おれは、黄泉路の王の怒りにふれたのか。


 これが、人の入れぬ領域ということなのか。

 

 世界がぐるぐるとまわりはじめた。耳のなかが感覚を失って、音がきこえなくなっていく。

 きもちがわるい。


 いつのまにか、頭上に地面がある。なにかがごつんごつんとおれのあたまをなぐっていく。

 目がいたい。

 くそ。

 このままでは、竜と戦うどころでは━━


 いや。

 だめだ。


 竜の、翼を持ち帰らなくては、



 おれは、



 何のために?



 空がみえた。背中に、つめたい感触がある。仰向けにころがっているらしい。

 夕月が浮かんでいる。

 星はみえない。いや、遠くに、一番星がひとつ。


 目をつぶる。

 夜空を思いだす。満天の星空を、そして、

 神話を。


 あの日の言葉を。



 どれくらい経ったか。

 いつのまにか、異音は消えていた。



 

 男は、ふたたび立ちあがった。


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