(前編)
飛竜山という山が、灰の国の中心にある。
古くは、ヒワタリヤマとかいわれていたらしい。
かつて、その頂から天までとどく花が咲いたという。
神話の時代の話だ。
今は、せいぜい竜が飛ぶくらい。
*
男が、森を歩いている。
岩のような男である。
背は低い。しかし、小さくはない。筋肉でふくれあがっているのだ。北方人らしい彫りの深い顔と、たくましい体つきのせいで年かさに見えるが、肌はまだ若々しい。
実のところは、まだ成人したばかりの若者である。
色素の薄い肌と、茶色がかった黒髪は、典型的な北方人の特徴である。もっとも、ひげを綺麗に処理しているところや、着ているものは南方人のようでもある。
鳶色に染めた麻のパンツと、古代文字をかたどった模様のシャツ。薄着ではあるが、長袖に、ズボンのすそをサンダルに巻き込んで、肌の露出を減らしている。
腰には、小さな石斧と、きつく縛った水袋。背には、木枠つきの麻袋と、大きな弓矢。
太い石槍を杖のようにして、かなり速く足を進めている。
夏である。
高く育った木々のせいで、下ばえの草はあまり育っていない。
とはいえ、厚く重なった苔と、でたらめに這いまわる木の根に、ときどき足をとられそうになる。
むろん、道はない。
日のさす方角をたよりに、北へと進むだけである。
山頂を目指すのだから、上り坂へ向かえばよさそうなものだが、そう簡単な話ではない。
高台から見下ろしたときには、平らな森に見えたが、いざ歩いてみると、意外と凹凸が多い。
小さな丘のようなところがいくつもあったり、奇妙な形をした岩が並んでいたりする。
硬い岩からつきだすように、古代の構造物が見えている箇所もある。
神話の時代、ここで何があったのかは、誰にもわからぬ。
だが、今はただの森だ。
男は、そう自分にいいきかせながら、淡々と歩いている。
高く育った針葉樹が陽をさえぎるせいで、薄暗い。
ひんやりした風が、うなじのあたりをかすめていく。
夏の熱気にあてられた肌を、風精が嘲りながら撫でるようだ。
禁忌を破った者への警告かもしれないが──
おびえている暇はない。
なにしろ、飛竜山の頂まで2日でゆこうというのだ。
男は、ふと足を止めて空を見上げた。
かなり濃い密度で枝がかぶっていて、日がさしている方向は、正確にはわからない。
つまり、方角も、はっきりとはわからないということだ。
これまで、まっすぐ歩いていたのを、少し方向をかえる。
10歩ほど歩き、このあたりで一番背の高そうな木のわきに立つ。
灰色がかった赤茶色の幹。
ツガの木である。
男は、背中の荷をおろす。
涼しいとはいえ、夏であり、数時間も歩き続けた男の体は汗だくである。しかし、休まない。
麻袋から、もうひとつの小さな袋をとりだす。
小さな袋には、小さく文字が書いてある。古代文字であり、男には読めない。
読めないが、なんと書いてあるかは知っている。その道具の名前だ。
アシナワ。そう、書いてあるはずだ。
それは、人の胴回りより、すこし小さな輪のかたちをした、太い綱であった。
男は、自分の両足を、その輪のなかにいれて立った。
足を広げて、足首で輪を固定する。
両腕を、木の幹にまわして、幹の後ろで手をくむ。
地面をける。
幹をはさむように両足を突き出すと、足首のあいだの縄が、木の皮にくいこむ。
手に力を入れる。
両手と、足の縄で、幹をはさみこむようにして、空中で体を固定しているのである。
それから、一瞬だけ手を離して、体をのばし、また幹に腕をのばす。
腕に力をいれて、こんどは足を一瞬だけ離して、ぐっと体を上にあげる。
枝があるところは、いったん縄をはずし、避けるか、枝に足をかけて、また幹にとりつく。
そうやって、尺取り虫のように、男は木を登っていった。
あっという間に、木の葉のあいだをすりぬけ、空が見えるところまで。
いちばん高い枝に、尻をのせて、一息つく。
視界がひらける。
周りにも同じくくらいの高さの木がたくさんあるから、なにもかもが見下ろせるわけではない。
しかし、空は見える。
空と同じほどに高く見える、飛龍山の山頂も。
灰の国に入る前に見上げた姿とは、すこし違う。
遠くからは青く見えた山頂が、ここからは土色だ。
山腹のあたりまでは、森が続いているのか、緑に染まってみえる。
あそこまで、いくのだ。
体をずらして、反対側をむく。
空を見上げる。
煙がみえる。
仲間があげた、のろしだ。
灰の国の入り口にある古代人の遺構で、たったひとりで待っている仲間である。
男が帰るまで、絶やさず煙をあげ続けることになっている。
あそこへ、帰るのだ。
竜を倒して。
*
「気負わなくてもよい。あそこまで、行って帰ってくるだけだ」
今朝、かれを送り出した魔法使いは、そういった。
本当になんでもないことのように。かすかに微笑んですらいた。
もちろん、無理な話だ。
*
少し歩くごとに、太陽の位置から方角を割り出す。
それを数回繰り返した後、木に登って、目的地を確認する。
そのたび、目印をつける。
それだけやっても、不安はぬぐえない。
同じ方向に歩いているつもりだが、ぐるぐる回っているような気がする──
たちどまって、水袋をあけて口に含む。
深呼吸する。
暗くなれば、ますます方向がわからなくなる。今のうちに、もっと進んでおきたい。
ふたたび、歩き出す。
森に入った当初に感じていた、ぶきみな不安感は、少しずつ薄れていた。
慣れると、生き物の気配が、そこかしこにあるのがわかる。
ほとんどは、虫や小さな鳥だが、まれに、いたちや鼠のすがたも見える。
何度か、蛇も見た。
ほとんどは、男がよく知っている種類だったが、なかには見慣れないものもいる。
種類がわからなければ、毒があるかどうかもわからない。とにかく、近づかないことだ。
さらに、注意しなければならないのは、ヤマオオカミである。
四つ足の、敏捷な獣だ。
鋭い牙と、爪で、人間の体など簡単に切り裂いてしまう。
出逢えば、死を覚悟して戦わねばならない。
昔、滞在していた村が、数頭のヤマオオカミに襲われたことがある。
こちらは大勢だったが、何人も死傷者が出た。
今は、自分ひとりだ。やられそうになっても、助けてくれる仲間はいない。
そんなことを、考える。
少し、いやな予感がするのだ。
後方から、がさり、がさりとかすかな音が聞こえたような気がする。
自分の汗のにおいに混じって、肉食獣の匂いが漂っているようにも思える。
立ち止まってみても、気配は消えない。
気のせいかもしれない。
だが、そうでなければ──
ヒュゥ……ッ
吐息の音がした。
反射的に、振り向く。
十歩ほど離れたところで、一対の目が、木々のあいだからじっとこちらを見つめてきていた。
(くそっ……)
後悔する。
槍をかまえる。
背中から弓矢をとりたいが、距離が近すぎる。
槍の穂先をとおして、獣の目をじっと睨みつける。
黒い、毛におおわれた顔がはっきり見えた。間違いない。ヤマオオカミだ。
体の大きさからして、おそらく成獣だろう。
できれば、戦いたくはない。
「シッ!」
鋭い声をあげる。
あいては、微動だにしない。
ずきんと、左肩が痛むような気がした。とっくに治ったはずの古傷である。
「退け!」と、もう一度。
小さく槍を上下させて、威嚇する。
にらみあったまま、長い時間がすぎた。
油汗で足がぬかるむ。
ざわざわと、風で枝がゆれる。
影が動いた。
かさり、かさりと、こするような音が、少しずつ遠ざかっていく。
男は、動かないまま、木々のあいだを睨みつける。
獣の姿は、見えなくなっていた。
*
5年ほど前のことだ。
血が、大きくひろがって、集会所の土を赤く染めていた。
集会所というのは、村の中心にある、かがり火をかこんで集まるための広場だ。
その日は、交易人が到着した翌日であり、物々交換のために集会が行われるはずであった。
男は、交易人の息子である。
集会のため、村人とともに荷を広げて用意をしていたところ、一頭のヤマオオカミがやって来た。
すでに、誰かを襲ったらしく、口に血がついていた。
悲鳴をあげる村人をかばうようにして、父は、男に、武器をとってくるようにいった。
男が、二本の槍と手斧をかかえて戻ったとき、そこに立っている人間はいなかった。
ヤマオオカミは、三頭に増えていた。
一頭は身体が小さく、幼獣であるように思われた。
その、いずれもが、口の周りを血で染めて、肉を喰んでいた。
動かない屍体のなかに、父と母の顔をみつけたとき、男は狂った。
*
男は、干した木の実をかじり、水を飲みながら歩き続けた。
かなり、日が高くなっている。
周囲にヤマオオカミの気配はないが、ともかく日のあるうちに森を抜けてしまいたい。
さすがに、ペースは落ちている。
疲れのせいだけではない。少しずつ、上り坂が多くなっているのだ。
飛竜山の麓に近づいている。
ぞわりと、寒気がした。
血の匂いだ。
それから、獣の毛の匂い。
たぶん、ヤマオオカミの──
あたりを見回す。
下生えの草を、大きくかきわけたようなあとがある。
草の状態からして、長く使われた獣道ではなさそうだ。
つい最近、大きな獣が通ったあとだろうか。
大きな獣。
ヤマオオカミにしては、大きすぎる。
しかし──
(魔獣、……ほんとうに、いるのか?)
男は、ヤマオオカミより大きな獣を見たことがなかった。もちろん、竜は別だが。
北の島国には、人よりずっと大きな四足の獣が群れをなすという。
西方の山岳地帯には、角をもつ獣がいるという。
そして灰の国には、人を食らう魔獣が棲むという。
いずれも、噂にすぎない。
男は、気配に耳をすませながら姿勢を低くして足跡をさがした。
あった。
岩にはえた苔に刻むようにして、いくつか足跡らしきものが残っていた。
大きな爪のあとが、左右対称にふたつ。その後ろに、小さな指のあとがいくつか。
ヤマオオカミのものとは、明らかにちがう。
爪のあとが、苔の層をこえて、岩の表面にまでかすかに刻みつけられている。かなり強く蹴ったか、あるいは体重が非常に重いということだ。
男は、獣道のつづくさきを見た。
血のにおいは、そこからきている。
一歩ずつ、忍びあしで、匂いのもとへと歩く。
近い。
すぐそばだ。
人の腰ほどのでこぼこした岩を中心として、かなり広い範囲で草がひきたおされて乱れていた。
その、岩のうえで、
ヤマオオカミが3頭、折り重なるようにして死んでいた。
*
少し、吐き気がした。
*
黒と、白と、まだら。
目立った傷はないが、白いヤマオオカミの口から、泡のまじった血が流れだしている。
叩きつけられて、内臓をやられたか。
男は、周囲を見回した。魔獣が、もし本当にいるならば、まだ遠くには行っていないはずだ。
弓をとりだし、矢をつがえる。
気配に耳をすませる。
風の音。
鳥の声。
虫のざわめき。
風の音に、さらに意識を集中する。
風精の動きを、
それから、もしいるならば、
灰の国を支配するという、黄泉路の王の気配を知るために。
前方から背後へと、風精が吹き抜けていくのがわかる。
風精が運ぶにおいと、木々にぶつかる音が、周囲の様子を教えてくれる。
前方に、大きな動物の気配はない。いたちが二匹と、小さな蛇がいるだけだ。
背後には──
呼吸音。
自分のものと、もう一つのものを区別するのに、少し時間がかかった。
かすかな獣臭。
ヤマオオカミより、明らかに大きな獣のにおい。
魔獣!?
男は弓をかまえたままふりむき、シィッと強く息を吐いた。木々のあいだ。視認する。
弓が届くか届かないかくらいの距離。
斜面からこちらを見下ろすように、四つ足の大きな影。
灰色の毛でおおわれた身体は、ずんぐりとして丸い。ヤマオオカミどころか、人よりもよほど大きく見える。顔はよく見えないが、きつねのように鼻のところが突き出している。
ぶきみな、大岩のような姿であった。
男は、きりりと弓をひきしぼった。麻をねじりあわせて作った強い弦、特別製の弓ではあるが、基本的には、せいぜいヤマオオカミまでの小さな獣を狩るためのものだ。
(あの弓、持ってくるべきだったか)
そう、少しだけ後悔する。
長命族がつくった魔法の弓、あれならば、ずっと強い矢がうてる。
もっとも、魔法具の扱いはとんと心得ぬ。まともに使える自信がなかったのと、残された相棒が身を守れるようにとあえて置いてきたのだが、いざ魔獣を目の前にするとやはり不安であった。
まして、竜と戦うとなれば。
魔獣は、こちらをじっと見つめている。
警戒しているようにもみえる。
じんわりとした圧力が、泥のようにのしかかってくる。
竜の眷属か、黄泉路の王の化身か。
ただの、珍しき獣か。
それすらも、男にはわからない。
ただ、狐や、いたちや、ヤマオオカミのような尋常の生き物とは違うということは、わかる。
動けない。
ただ、ぼたぼたと脂汗がたれるに任せて、じっと睨み合うしかなかった。
魔獣が、口をあけた。
男は、全身の毛が逆立つのを感じた。
太く、そりまがった牙のようなものが、口のなかに見えたのである。
ヤマオオカミの身体に目立った傷がなかったことから、噛み殺されることはないと思っていた。
よしんば、あれがこの森の守神であれ、怒りに触れて叩き殺されることはあっても、喰われることはないものだと。
だが、あの牙はどうだ。
あれは肉食獣ではないのか。
おれは、喰われるのではないのか。
戦わねばならない。男は、そう決めた。
矢のねらいを、いま一度、つけ直す。
ふしぎと落ち着いていた。
魔獣の顔めがけて、集中する。
視界が狭まる。
ひょうと、弦をはじいて、矢がとんでいく──
魔獣が、頭をさげた。
姿勢をひくくして、足をためるような動きをすると同時に、矢が頭皮をかすめてそれていく。
避けた、ということか。
偶然か、まさか──
そんな思いが、迷いとなって頭をかすめる。
次の矢をつがえるのが、一瞬おくれた。
気がついたときには、魔獣の顔が、すぐ目の前にあった。
全身がばらばらになるような衝撃が、腰から背骨へとつきぬけた。脳が揺れて、目の前が真っ暗になった。それから数秒のあいだ、耳と、後頭部に鈍痛がはしり、ようやく意識が消えた。
*
およそ二ヶ月前のことだ。
灰の国の西にある、アメツヤマとかいう山脈群、そのうちで最も高い頂をもつ山に、男はいた。
ひとりである。
先ほどまでは、仲間の魔法使いと一緒だったが、山頂へゆく途中の小屋においてきた。
賢者、とか、仙人と呼ばれる山人が住んでいる小屋である。
元はといえば、その山人と話すために、ここへ来たのだ。
だが、今、そこに男の意識はない。
山人とは、会った。会ったが、どうということもない。ただの、長命族の老人だ。
それ以上の話は、魔法使い同士、任せておけばよいと思っている。
それより、もうひとつの目的がある。
飛竜山である。
この山は、飛竜山をのぞけば、このあたりで最も高い山である。
灰の国とはちがい、地図もあり、いちおう道もあるが、とても、普通の人間が来るところではない。
山人の小屋をこえてからは、ふみわけ道もなくなり、崖のあいだをはうようにして進まなければならなかった。
飛竜山へのぼる練習としては、うってつけの場所だともいえる。
それに、この山頂からは、飛竜山がよく見える。
男の足元には、小さな岩がある。茶色い、どこにでもある岩である。しかし、この岩は、アメツヤマで最も高いところにある。その上に立つおれは、アメツヤマで最も高いところにいるのだ。
これより高いところは、飛竜山しかない。
あたりは、荒涼とした岩場である。
遠く、あまりにも巨大な台形をした飛竜山をみすえると、左右には天しかない。
少し、みおろせば、アメツヤマ山系の他の山々、それから灰の国の大森林。
見渡すかぎり、人里はどこにもない。
ふと、視界のはしに動くものを感じて、男は目線を動かした。
竜が、飛竜山から飛び立ったのであった。
ここからは、黒いぼんやりとした三角形としか見えない。
しかし、鷲や、とんびのような大きさではない。
人よりも、もっとずっと大きなもののように見える。
竜を、間近でみた人間はいない。
しかし、あれを倒さねばならない。
不思議と、気負いはなかった。晴れやかな気持ちで、男は竜を目で追っていた。
*
目を覚ますと、ひどい頭痛がした。
あたりに動くものの気配はなかった。獣の残り香と、自分の汗のにおいが鼻をさした。
ぎりりと奥歯をかんで、男は立ちあがり、のろのろとまた歩みはじめた。
飛竜山へ。
空がかげり、あたりが暗くなっても、男は歩き続けた。
進めば進むほど、魔獣の気配が、すぐ後ろにあるように感じられた。
岩をよじのぼり、斜面にはえた木に足をかけて見下ろしても、何も見えない。見えないが、そこに何かいるように思われた。風精の声も、耳に届かなかった。
ようやく、立ちどまったのは、山腹も中ほどをこえ、まばらな木々もなくなってきたころだった。
脚が痛む。ひさが震えている。
何度も崖を登ったため、掌に血がにじんでいる。
日が沈んでからは方角がわからず、ただ、斜面の方向をあてにして高いところへと登ってきた。飛竜山は、アメツヤマとちがい、ただ一つの山頂にむけて狭まっていく円錐形の山だ。どこからなりと登れば、いずれ頂上につくはずだ。
そう、考えるしかなかった。どうせ、道などないのだ。
男は、空をみた。
もう高い木々はなく、星空が見える。前に登ったアメツヤマも、同じように途中から森がなくなっていた。それと同じくらい登ったのだとすれば、連れと二人で2日かけて登った行程を、およそ半日で進んだことになる。
足元には、岩場にまだらの模様をつくるように、コケと、小さな草が生えているばかりだ。
寒い。
大岩のすきまにもぐりこむようにして腰をおろし、背負い袋から、分厚い敷布をとりだす。麻布に狐の毛皮をぬいとめた上着も。
アメツヤマに登っていなかったら、夏のさなかにこんなものが必要になるとは思わなかっただろう。木登りの縄にしてもそうだ。山人があの道具をくれなければ、とても、高木にのぼって方向を確認するなど思いつかなかった。
もうひとつ、山人から聞いたことがある。
この、森が終わる地のことだ。
これは、境界である。
人の住まう地と、天とのはざまであると。
これより上は、人の住むところにあらず。
天の領域である。
『ばかをいえ。』
連れの魔法使いは、わらってそう言った。
『地に足をつけて登るだけで天にゆけるなら、何を苦労することがあろうか。山は、山。それだけだ』
自分は、それよりはるか下でとどまっていたくせに、かるくそう切ってすてた。
山人が直接聞いていたら、激怒したろうが。
男には、どちらが正しいかわからぬ。
わからぬが、アメツヤマの山頂を踏んだ経験から、この先のことはおおむね見当がつく。
人がはいれぬ領域などというものは、ここにはない。
ただ、元来、人が住むべき世界ではないというのも、わかる。
風精の息づかいも、下界とはちがう。
木々が高く育たぬのも、おそらくはそのせいであろう。
──あの魔獣も、ここにはやって来るまい。
来るとすれば、獣ではなく、黄泉路の王の本性を顕してのことであろう。
それはそれでおそろしいが、あの牙で喰い殺されるよりは、ましだ。
座って、敷布を身体にまき、背負い袋を抱くようにして休む。
少し水を飲み、固めた芋の粉と、干し魚をふたつ、食う。
火は、おこさない。
魔法具なしではつけるのに手間がかかるし、夜どおしつけておくのも大変すぎる。
真夏であることが幸いした。ぎりぎり、耐えられそうだ。
空をみる。
きれいに晴れているが、さすがに、仲間のあげているのろしは見えない。
満天の星空である。
この星々は、神話の時代の前には、もっとずっと少なかった。
太古のとき、この山の頂から、天にとどくほどの大きな死の花がさいた。
その花弁に触れたものは、灰となって崩れた。
そうして、多くの人が死に、星となって天に昇ったため、今のような星空になったのだという。
ただの、伝説である。
*
「灰の国へゆくべし。」
そう、あいつが言ったとき、おれはなんと答えたのだったか。
*
日がのぼると、自然に目がさめた。
かるく伸びをして、身体の調子をたしかめる。
悪くない。
どこも、痛まない。すこし、疲れが残っているが、それだけだ。
岩陰で糞をして、朝飯をたべる。
腹が減っていた。
干し魚と、芋。
残量に限りがあるから、少しずつよく噛む。
噛む。
噛む。
噛む。
気がつくと、芋がずいぶん減っている。
干し魚も、1匹で済ませるつもりが、2匹喰ってしまった。
ある程度、余分に持ってきてはいるが、気をつけなければ。
帰りに、道に迷うことも想定しなくてはならない。
立ち上がる。
頂上と思われる方向を、見る。
それから、その逆側を。
煙は、今日もちゃんとあがっていた。
*
あの煙は、生存確認だ。
男は、崖を上りながら、そんなことを考えている。
切り立った崖である。
自然の崖であるから、あちこちに凹凸や、手をかけられるところがある。一歩ごとにそれを探って、なんとか進んでいる。
迂回する道はなかった。
いや、あるのかもしれないが、探せなかった。
数時間かけて探せなかったものに、それ以上の時間をかけるわけにいはいかない。
崖の高さは、よくわからない。
下から見上げたときに、てっぺんがはっきり見えたから、たいした高さではないと思っている。
とにかく、その崖を、上っている。
アメツヤマをのぼったときは、必要なかった。崖をさけてゆく道があったからだ。
だから、準備していなかった。
木登りの用意はしていたのに、崖のことを考えていなかったのだ。
間抜けもいいところだ。
くそ。
こんなことを考えていても、仕方がない。
体重を支えている指先から、力が抜けそうだ。
どうせなら、別のことを考えろ。
もっと、やる気が出るようなことを。
たとえば、煙のことだ。
見えないが、あの煙は、いまでもおれの背後であがっているはずだ。
あれは、生存確認だ。
森や山のなかから、帰るべき方向を知るために、あげさせている。それは事実だが、それだけではない。
あいつがいる場所も、灰の国の一部だ。
ヤマオオカミも、魔獣も、そのほかどんな危険も、あいつは防げない。
防ぐだけの用意を、十分にしてきていない。
だから、早く帰らなければならない。
5日。
それだけ待って、戻らなければ、火を消して去るように言ってある。
しかし、そうしないかもしれない。
7日、10日、いや、もしかすると、自らおれを探しに森に入る可能性もある。
だから、ちゃんと帰らねばならない。
やっと足がかりを見つけた。
右手の指がゆるみそうになり、こらえる。十分に、足に体重を移してからだ。
姿勢をただす。一息つく。
あの煙は、生存確認だ。
おれが帰るまで、あいつが無事でいることを確かめるためのものだ。
それが、あがっている限り、おれは帰らねばならない。
荷物が重い。
これを捨ててしまえば、もっと登るのが楽になる。
いや、だめだ。
この崖を上っても、まだまだ山は続く。
竜と戦うために、必要なものも入っている。
しかし、全部はいらないのではないか。
例えば、木登りの道具。
毛布。
余分の食料。
そういったものは、崖下に置いてきてもよかったのではないか。
やめろ。
余計なことを考えるな。
今から、背負い袋をあけて、必要なものだけを残して残りを捨てることなど、できるわけがない。
考えても仕方がないことを考えるくらいなら、ほかのことを考えろ。
たとえば煙のことだ。
いや、そのことはもう考えた。
とにかく、手を動かせ。岩のへこみが、そこにある。掴むんだ。
掴んだ。
休む。
ほんのひと呼吸のあいだ休むつもりだったが、一瞬のうちに、時間がたっている。
意識がとびそうだ。
くそ。
とにかく、なんでもいいから、ほかのことを考えろ。
考えているあいだ、体を動かせ。
なんでもいい。
たとえば、あの日のことだ。
火だ。
あいつは、火を焚いていた。
火精をよぶのか、ときくと、あいつは笑っていった。
──風精さ。
意味はわからなかったが、それが必要なことなのは、わかった。
それが、失敗したことも。
地面が、ずいぶん遠い。
いま、手を離したら、頭が割れて死ぬだろう。
だが──
思い出す。
あのとき、あいつがどんな顔をしていたか。
火を焚き、風精を呼ぶ、あの儀式が失敗した夜。
賢人にきいたとおりに、火をたき、布をはり、風精を待ち受けた。
火のなかに、オオワシとツバメの翼、たくさんの羽根をいれた。
呪文をとなえ、きんきらに染めた衣装をきて、火のまわりで踊った。
それをぜんぶあいつは、一人でやったのだ。
風精はこなかった。
いや、きたにはきた。だが、それは、薄布をふくらませ、少し持ち上げる程度の量であり、人を天に飛ばすような大きな力ではなかった。
おれたちの目的のためには、足りなかったということだ。
だから、あいつは言ったのだ。
灰の国へゆき、竜を狩ると。
最後の足がかりを蹴って、男は崖上にはいあがった。
呼吸をととのえて、背後をみる。
煙は、まだあがっていた。
*
崖をのぼった後、ふたつの急傾斜をこえた。
やがて、太陽が傾き始めたころ──
景色が、急にひらけた。
一面の、水。
それは、湖であった。
左右には大きく広がっているが、対岸はそれほど遠くない。
湖のまわりには、尖った岩がいくつもあるが、それ以上大きなものはない。
つまり、ここが頂上ということか。
(こんなふうになっていたのか……)
対岸は急な崖のようになっているが、こちら側はゆるい斜面で、湖面に近づくことができる。
水は、澄んでいる。しかし、底は見えない。
少し、手ですくって飲む。
うまい。
裸になって水を浴びたい衝動がわきあがるが、こらえる。
ここが頂上なのであれば、すぐ近くに、竜がいるということだ。
あたりを見回す。動くものの姿はない。
それどころか、なんの音もない。
つめたい、うすい空気に、音が喰われているようだ。
呼吸をととのえなおして、荷物をおろす。
袋をあける。厚手の布に包まれた、とっておきの武器をとりだす。
それは、古代石の刃であった。
掌ほどの長さ、ぎらりと光る銀色の。つるつるした、硬い刃。
柄はついていない。
古代石は、それほど珍しいものではない。種類はさまざまだが、遺跡の多いところなら、少し地面を掘るだけでいくらでも出てくる。
しかし、古代石を加工する方法は、誰も知らない。まして、刃を新たに作ることなど、できない。
この刃は、長命族の村に、代々受け継がれてきたものである。
いつ、出土したものかはわからない。もしかすると、神話の時代からずっと、その村にあったのかもしれない。いずれにせよ、代々の持ち主が、きれいに磨き、研ぎ続けてきた、貴重な品である。
槍につけていた、石の刃をはずし、古代石の刃をつけなおす。
固定するための穴などないから、槍先の刻み目におしこんで、麻紐でぎゅうぎゅうに縛りつける。
刃先は薄くて、まっすぐだ。石刃をいくら研いでも、こうはならない。
これなら、竜の皮も貫けるかもしれない。
竜の躰がどんなものか、誰も知らないが。
立ちあがる。
あらためて、周囲を見回す。
湖は、おおむね長狭な楕円形をしており、周囲にはいくつかの大岩がある。
このどこかに竜がひそむとすれば──
岩かげ、湖のふち、それから水中。
いくつか、目のなかであたりをつける。
竜が飛ぶ時間は、おおむね決まっている。今なら、ねぐらに(そんなものがあればだが)いるはずだ。運が良ければ、眠っているかもしれない。
荷物は、ここに残す。
槍と、弓矢、手斧。それだけを持って、中腰で湖のまわりを右回りに進む。
生き物の気配はない。
風精は、しずかだ。というより、この領域は風精が薄すぎて、ほとんど存在が感じられない。
じりじりと、進む。
ときおり湖水に目をやりながら、ひとつひとつ、岩かげを確認していく。
何もない。
何もない。
何も──
湖の端あたりまできたとき、ふと、違和感をおぼえる。
一瞬ためらってから、ふりむく。
湖面が、かすかに波打っていた。
風はない。しかし──
耳が、痛い。
しらずしらずのうちに、膝をついていた。音が、
ぎいいいんと、古代石をこすりあわせたような高音が、足元からせりあがってきた。
──ぃぃぃぃぃぃん。
あたまのなかに、ちょくせつ、おとがとびこんでくる
痛い──
頭をおさえ、子供のような姿勢で地にはいつくばっていた。吐き気がひどい。
視界が、ぐらぐらと悲鳴をあげてゆがんでいく。
おれは、黄泉路の王の怒りにふれたのか。
これが、人の入れぬ領域ということなのか。
世界がぐるぐるとまわりはじめた。耳のなかが感覚を失って、音がきこえなくなっていく。
きもちがわるい。
いつのまにか、頭上に地面がある。なにかがごつんごつんとおれのあたまをなぐっていく。
目がいたい。
くそ。
このままでは、竜と戦うどころでは━━
いや。
だめだ。
竜の、翼を持ち帰らなくては、
おれは、
何のために?
空がみえた。背中に、つめたい感触がある。仰向けにころがっているらしい。
夕月が浮かんでいる。
星はみえない。いや、遠くに、一番星がひとつ。
目をつぶる。
夜空を思いだす。満天の星空を、そして、
神話を。
あの日の言葉を。
*
どれくらい経ったか。
いつのまにか、異音は消えていた。
男は、ふたたび立ちあがった。