幾許かの別離と灰色の家族
私が小学四年生のとき、両親は離婚した。
ちょうど、ゴールデンウィークの最終日だった。母から、今日でお母さんたちは夫婦じゃなくなるから、といわれた。
当時はあまり深く意味も考えず、母の話にのんびりと相槌を打っていたと思う。
翌日になり、母は荷物を纏めて家を出て行った。
父と一緒に玄関に立ち、母を見送った。
母は私の頭を撫でて、またね、といい、父を呆れたような顔で見た。無言であった。
改めて思うと、母のあの表情は呆れたというよりも、蔑んでいたのかもしれない。
いや、離婚の原因を知ったいまだから、そう思うだけだろう。
父の浮気。
二十歳年上の女性が相手だったらしい。
当時の父は三十八歳だったから――相手は六十近かったことになる。
若い女ならいざ知らず――母としては許せなかったのだろう。それに気持ち悪くもあったのだと思う。
何にせよ、それから父と私の二人暮らしがはじまった。
家事も料理も全くできない父は、小学生の自分から見ても情けなかった。
食事は出来合いのものばかり。スーパーの惣菜、冷凍食品、コンビニ弁当。父の作る出来損ないの料理に比べればはるかにマシではあったものの、物足りなさは感じていた。
特別美味しかったという記憶はないが、母の手料理が恋しかった。
母とは月に一度会ってはいたけども、ファミレスに行ってばかりだったので、母の料理を口にする機会はなかった。お母さんの料理が食べたい、と直接いったことがあるけど、母は寂しそうに笑うだけだった。
そんな状況を父が憂いていたのかは知らないが、ある日見知らぬ女性を連れてきた。
――お父さん、この人と結婚するから。
そうして父の再婚が決まった。小学五年生の夏休みに入る直前の出来事だった。
義母は普通の人だった。むしろ、地味といってもいいくらいだ。ぼそぼそと話すし、滑舌も悪くて何をいっているのかわからないことも多かった。年齢は父と同じくらい――だったら、離婚の原因となった浮気は何だったのか――どこで出会ったのかはよく知らない。
義母には子供がいた。
女の子で私よりも二つ年上。
名前は、ミレイといった。
地味な義母に対して、ミレイはとても美しい人だった。顔立ちは整っていて、肌は純白。黒髪のショートカットがすごく似合っていて、女の子だからといって髪を長くする必要なんてないのだ、と驚かされた。
「はじめまして――よろしくね」
ミレイはそういって私の頬を撫でた。すべすべした肌は同じ人間とは思えないくらい肌理が細かくて、どきりとしたのを覚えている。
私はすぐに姉に懐いた。
姉は、決して面倒見のいい人ではなかった。どちらかといえば淡白な感じで、朝起きたら挨拶はするけど、それ以上の会話もないし、一緒にいても雑談すらなかった。とはいえ、こちらから話しかければ返事はしてくれるし、嫌がったり蔑ろにするようなこともない。口下手というか、控えめというか――まあ、大人しい人なのだ。その点は義母にそっくりかもしれない。
白い肌、硝子細工のような瞳、整った鼻立ち、細長い手足、と私にもないものを全て持っている姉は憧れの対象であった。
一緒に歩けばみんな姉に視線を送る。ハッとして振り返る人もいるくらいだ。ひそひそと囁く声も聞こえてくる。
可愛い、綺麗――無論、言葉も視線も私に対するものではない。
でも、姉の隣にいられることが私にとっては自慢であり、一番充実した時間をすごせた。
夏休みが終わり、私は友人たちに姉のことを自慢した。無理をいって撮らせてもらった写真を持って、
「見て見て、これ私のお姉ちゃん」
と馬鹿みたいにいって回った。
当たり前だけど、急に出現した私の姉という存在にみんな首を傾げていた。しかし、そんな疑問も姉の美しさに霧散して行き、すぐに憧れへと変わって行った。
いままで学校では取るに足らない存在だった私も、ミレイという姉の存在によってあっという間に注目の的となった。
アクセサリー? 携帯電話? 新しいゲーム機? ペット?
そんなもの、姉の存在に比べれば――いや、比べることすら無意味だ。唯一無二で、誰もが羨む人だった。
とはいえ、そんな華やかな時間もあっという間に終わってしまった。
両親の離婚、父親の浮気、義理の母親、義理の姉。それら私の家庭環境が、瞬く間に学校中へと広まって行ったのだ。
かなり悪意のこもった言葉で。
変態親父、偽物の母親、偽物の姉。
どうしてそうなったのか、誰がどんな目的でかはわからないけど、きっと面白く思わない人間がいたのだろう。
羨望にも嫉妬にも慣れていなかった私は、いとも簡単にそれらの言葉に傷ついた。興味津々で私の周りに集まっていたクラスメイトも、元々いた友人たちも一緒に去って行った。
傷だらけで一人ぼっち。
何で自分がこんな目に遭わなければならないのだ――悪いことなんて何もしていないのに。悪いのは両親だ。悪いのは周りの人間だ。
とてもつらかった。
だけど、私にはミレイがいた。大好きな姉がいた。
姉は泣きじゃくる私を慰めてくれた。
「みんな子供だから。人それぞれ事情があるの。自分たちと同じじゃないからって悪くいうのは間違ってるわ。あなたは何も悪くない」
そういって優しく頭を撫でてくれる。同情なんかしていないのではないかというくらい、表情なんて微塵も変わらないし、慰めること以上のことをしてくれるわけではないのだけど、少なくとも身近に味方がいるということが本当に嬉しかった。
姉の慰めもあり、小学校時代は周囲からの冷淡な態度にも耐えることができた。毅然としていたら、陰口はあったのかもしれないけど、直接悪し様にいわれることは減ったし、前からの友人も自然と戻ってきた。
よくも悪くも逞しくなれ、中学に入ってもそれは全く変わらなかった。
中学に入ってよかったことは、姉と同じ学校になれたことだった。
姉はそのとき三年生で、ちょうど高校受験の年だった。
昼休みには何かと姉のもとに行っていたし、学校から帰るときもほぼ毎日一緒だった。自然と姉の友人とも仲良くなり、逆に私の友人と姉が仲良くなったりもした。
いま思えば、少し鬱陶しかったと思う。
姉は嫌がる素振りを見せなかったので、それに甘んじて金魚の糞みたいにうしろをついて回っていた。
高校は姉も私も別々の学校に進んだので、べったりということはなくなった。
とはいえ、ご飯や買い物にはよく行ったし、勉強とか恋愛の相談も聞いてもらった。年々姉との仲は深まって行ったように思う。
勉強はともかく、恋愛面では姉はからっきしだったので、あまり参考にならなかったけど。
「お姉ちゃん、彼氏できた?」
「全然。私、モテないの」
何でこんなに綺麗な姉が、恋愛と縁もゆかりも生活なのかは甚だ疑問ではあったのだけど、決して愛想のいい人ではなかったし、まあ仕方ないのかなとも思った。
楽しい人生だ。
大きな目で見れば、両親の離婚くらいしか私にとってつらいことはない。
まあ、人生そんなに上手く行かないのだけど。
姉が社会人二年目。私が大学四年生。
姉は銀行に就職した。私は卒業までの単位がぎりぎりで、卒論も終わるか怪しい感じ、就活は全くしておらず、彼氏には二股をかけられ散々な目に遭っていた。
そんなとき、義母が病に倒れた。
病院から連絡をもらい、バイトを休んで慌てて向かった。
脳卒中だった。
一命は取り留めたものの、体に障害が残るかもしれないと医者からはいわれ、実際に義母は一人では歩けない体となった。
いつも表情の変化に乏しい姉も、病院にやってきたときはさすがに酷く狼狽していたし、一人で起きることができない姿を見て泣きそうな顔になっていた。
「大変だったね」
悪いことは重なるものだ。
父は目の覚めた義母にそういって、次の日から行方を晦ませた。
唖然とした。
実の父親のふざけた行動に、姉と義母にどう謝罪すればいいのかわからなかった。
「大丈夫、大丈夫。悪いのはあなたじゃない」
姉は優しくいってくれたし、義母も上手く動かせない口で必死に、気にしないで、といってくれた。
さすがに泣いた。
結局、私は実の母に助けを求めた。
あのクソ野郎、と母は毒づいたものの、義母の世話をあれこれと焼いてくれた。他人だというのに、病院へは仕事や大学で忙しい姉と私以上に通ってくれたし、家まできて、家事が壊滅的にできない私に代わって食事の支度や掃除などもやってくれた。
姉は私と正反対で家のことは得意だったけど、就職を機に家を出ていた。
義母が退院してからも、母はよく家にきてくれた。家事だけでなく、義母の通院にも付き添ってくれた。
姉も頻繁に顔を見せるようになっていたので、実の母と義理の母と姉が一度に揃うという、奇妙な光景を目にすることが増えた。
嬉しいような居心地が悪いような、何とも歪な光景ではあった。
「何か不思議」
姉も笑っていた。
「そういえば、そんなことあったね」
姉はそういってそばを啜った。
「私なんて、お母さんって呼んだら二人反応しちゃって大変だったよ」
「ああ、うちのお母さん困惑してた」
ベシャベシャのルーのかかったカツカレーが、私の注文したものだった。大人しくそばにしておけばよかった。
厚みがないくせに、やけに硬いトンカツを噛んで、義母は母のことをどう思っていたのだろう、とふと考えてしまった。
何かの当てつけのように感じていたのだろうか。単純に感謝していたのだろうか。
実際のところがどうかはもうわからない。
義母は三年前に亡くなった。倒れてから翌年に、今度は心臓麻痺を起こして帰らぬ人となった。
今日は姉と義母のお墓参りに行ってきたところだ。
一昨日台風が上陸した。結構強かったので、お墓のことが心配になり、無事かどうか確認しに行こうと姉と約束したのだ。
幸い、とくに異常はなく、姉と二人で綺麗に掃除をして帰ってきた。お墓から駅に着くころには、ちょうど夕飯の時間だったので、立ち食いそば屋に入って夕食を取ることにしたのだった。
「お姉ちゃん、お母さんて――私たちのお母さんのほうだけど、うちのお母さんのこと、どう思ってたのかな?」
「どうしたの急に?」
「いや、何か気になってさ」
姉は考える素振りを見せたが、そばに乗っていた薬味のネギを口に運び、感謝してたよ、といった。
「あんなにお世話もしてもらって、感謝してもし切れないよ。もちろん、私も」
「そう――まあ、元はといえばお父さんのせいだけど」
「病気はお父さんのせいじゃないから」
でもさ、といったが、冷めちゃうよ、と姉はカレーを食べることを促してきた。
父の話はそれ以降出てこなかった。
「いまいちだったね」
帰りの電車でそういうと、姉は無言で頷いた。
「近くに回転寿司あったし、そっちにすればよかったかな? 本当に失敗」
「回転寿司――」
姉は復唱しただけで、ぼんやりとしている。
何だか、父の話をしてから妙な感じになってる。怒らせてしまったのだろうか。
私の降りる駅が近づき、気まずい空気が漂ったままだったが、じゃあね、といって出口のほうへむかった。
「気をつけてね。もう遅いから」
「大丈夫、彼氏が迎えにきてくれてるから」
「まだ続いてるんだ。よかった」
姉は微笑んだ。
「まあね。お姉ちゃんはまだ一人?」
「モテないからね」
バイバイ、と姉が手を振り、私も手を振り返して電車を出た。
最後にいつもの姉に戻ったように思えた。
怒っていたように感じたのは、私の気のせいだったのかもしれない。
駅を出ると彼氏はすでに車で到着していた。助手席に座ると、腹減ったからラーメン食いに行こう、と彼氏がいうので仕方なく付き合うことにした。
お墓参りから三日経った。
あれ以来、姉とは連絡を取り合っていない。喧嘩別れしたわけではないけど、少し気がかりだ。
ベッドから出て洗面所に行くと、彼氏が髭を剃っていた。
「今日、仕事? 日曜だよね?」
「うん――本当に行きたくない」
バイトが病欠なんだよ、と彼氏は心底嫌そうにいった。
「病気で休めるなんて、いい身分だよな」
ははは、と私は乾いた笑いを上げるしかなかった。
私もフリーターで、立場でいえばそのいい身分の人間だからだ。大学は卒業するのに必死で、二五歳になってもどこにも就職できず、このざまだ。
「七時くらいには帰ってくるから、一緒に飯食いに行こうよ」
返事をする前にスマホが鳴った。
姉からの電話だ。
ちょっとごめん、といって洗面所を出た。
「もしもし、お姉ちゃん?」
「――昨日、うちにお父さんきたよ」
「嘘――」
本当だよ、と姉は涙声でいった。
「通帳と印鑑持ってかれちゃった。あと、母さんの形見の指輪なんだけど、それも持ってかれた」
「あいつ――それ泥棒じゃん。警察は? それに通帳だって止めれば」
「借金があって、それが返済できないとあなたが支払わなくちゃいけないって――だから渡すしかなかった」
「そんなの嘘に決まってんじゃん!」
父への殺意が湧き上がってくる。
とっとと見つけて殺さなきゃ、みんなが不幸になる。
「何が嘘かよくわからなくて――お母さんと結婚したのもあなたのためだっていってた。母親が必要だって。お母さんと私のことなんて、実際のところどうでもよかったみたい」
「とにかくさ、会って話そう」
「――バイバイ」
電話が切れた。
彼氏に、ごめん今日無理、といって部屋を飛び出した。
姉の住むマンションまで一時間くらいかかる。
バイバイ、という言葉が本当に不吉だった。
マンションに辿り着き、姉の部屋のある四階まで駆け上がった。半分くらいで息が上がってしまったけど、止まっている場合でないと、震える足を無理矢理動かして進んだ。
鍵はかかっていなかった。
ドアを開けて部屋に飛び込んだ。キッチンもリビングも人影はない。
トイレも開けたが無人だった。
あとは風呂場だけだ。
嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
扉を開けた。
血の匂いが鼻を掠めた。
浴槽の中身が真っ赤になっている。風呂の床には姉が横たわっていた。左手首からは血が流れている。
「お姉ちゃん――何で――」
姉を抱き起こしたけど、すっかり冷たくなっていて、身動き一つしない。
私がいるんだから、死ぬことなんてないのに――。
小学五年生で再生した家族は、もう誰も残っていない。
いや、まだ一人残っている。
父を本当に殺さなきゃと思い、私は強く姉を抱きしめた。