記憶の声
僕は目の前で消えたジャンに何も感じなかった。自分が今すべき事は映画の準備だった。脇役ながらも必死に掴み取ったのだ。チャンスを逃してはなるまい。
セリフはすでに頭に入っている。衣装のテストも先週の金曜日に終えた。これから約半年の撮影期間を耐えていかなければならないのだ。
健康面での配慮やメンタルな部分でも、今までにないほど充実している。
僕はゆっくりと歩きながらワン・デイに戻った。
流さんはお皿を洗っていた手を止めて、顔をあげると僕を見た。女の子二人はまだお喋りに夢中だった。 テーブルの上にはチーズケーキとチョコレートケーキが置いてあった。
「慎慈、大丈夫か?」と流さんは血走った目をしながら言った。流さんもジャンをに会ってから混乱をしているようだった。
「大丈夫ですが流さん、ジャンは目の前で消えてしまいましたよ」と僕は指を鳴らして言った。
「煙のように、泡のように、シャボン玉が弾けるようにね」と僕はカウンターの前の椅子に座って鉛のように重い体を預けた。
「慎慈、今後は一体どうするんだ?会わせなければ良かったね…すまないことをした」と流さんは声を落として言った。
「別にいいですよ。いつか役作りで今日の事が参考になる日が来るかもしれないですし何事も経験です。 しばらく、ジャンは姿を見せないと思います。ジャンに、会おう、と頼まれても今は会う気はないです」と僕は淡々と言葉を吐き出した。
忘れてしまいたいがために、感情の無い言葉を発していた。もし、これが映画の撮影での初日のシーンで僕が言うセリフだったならば、早速、役は降ろされてクビになり、荷物をまとめて田舎に帰れ!2度とこの映画の世界に戻るなよ!と監督に怒鳴られることだろう、と思った。
流さんは後悔しているようだった。
「慎慈、何か食べていってくれよ。奢るよ」と流さんは言ったが、僕は「ありがとう、今日は疲れたから帰宅します。またの機会に奢ってくださいね。お願いします」と言って店を出た。
ジャンに会った交差点手前の路上に戻ると、机も椅子も水晶玉も、すべてが、もぬけの殻のように消えていた。
僕は悪い夢を見ていたのだ、と自分に言い聞かせながら駅へと向かった。
駅は混雑していた。三番ホームの電車が到着するのに、あと10分ばかり待つ事になった。
僕はベンチに座り斜め向かいに設置してある飲料水の自動販売機に貼ってある化粧品の宣伝用ポスターを眺めた。
綺麗な女優がクールな眼差してこちらを見つめていた。僕はこの女優をドラマで見た記憶があったが名前が出てこないでいた。
カラスが線路の上を悠然と我が物顔で歩いていた。 カラスは奇怪なこの世界を見届けているスパイのように思えた。
僕は不吉な印象を纏うカラスが苦手だった。カラスは常に訳知り顔で、事の結末を見納めたいがために傍観を決め込んでいるのだ。 カラスがこちらをじっと見つめていた。
僕は心の中でカラスが羽を広げられないでいる姿を思い描いた。
突然、カラスが慌てふためいた。線路の上を走りだして、行ったり来たり引き返したりを繰り返して、「カァーカァー」と仲間を呼ぶ声を出した。
何処からともなく仲間のカラスが5、6羽現れて電線に乗り、騒いでいるカラスを見下ろしていた。線路上のカラスは焦っていた。羽を広げられないでいた。 飛べない様子のカラスは線路の上を降りて、フェンスと砂利の間の細いスペースを歩きながら走り去っていった。「変なカラスがいるんだな」と僕は思った。
僕は、なぜか急に思い出した。幼い頃、バラ園で紐に吊るされているカラスの死骸を見た記憶が鮮明に頭に浮かんできたのだ。
「迷惑なカラスが頻繁に薔薇を荒らしに来るので、他のカラスが近付かないように、見せしめのために吊るされているんだよ」と懐かしい母の言葉が耳の奥で聞こえてきた。
飛べないでいるカラスがまた戻ってきた。
妙で不思議なカラスがいるぞ、と辺りも気付き出してきた。
僕は心の中で、羽を直してやり、電線の上にいる仲間の元に加わるカラスの姿を思い描いみた。
テレビのチャンネルが切り替わるように、飛べなかったカラスが一瞬にして電線に現れて乗っかった。
仲間のカラスたちが一斉に驚き、警戒の鳴き声をあげて、現れたカラスから逃げるようにして飛び去ってしまった。
取り残されたカラスが後を追い掛けるように飛んでいった。
つづく
ありがとうございました。