うわさ
こそこそこそ。幽かに耳に届く話し声に、息をつめて聞耳を立てる。
音楽の香川小枝子先生と数学の宮城大貴先生は付き合っているらしい。高級ブランドショップのアクセサリー売り場に二人がいるのを、誰それの母親が偶然見かけたらしい。指輪を選んでいたらしいのだが、どうやら婚約指輪っぽかった。
大方の予想通りのその内容に、思わず溜息が零れた。両手を塞いでいる一クラス分のノートの重みが増したような気がして、肩まで重く感じる。
重い足を引きずって目的の場所である数学科の教官室にたどり着き、手が塞がっているため足でドアを蹴った。
ほんの数秒の間があってむこう側からドアが開かれると、わたしよりもずっと高い位置から、見慣れた顔が見下ろしていた。
「課題のノート、持って来ました」
そう告げると、体をずらして中に入るように促される。どうやらここで受け取ってくれる様子はない。自分で運べと言う事か。相変わらず生徒に優しくない教師だ。
数学科だけなのか他の教科もそうなのか、いつ来ても放課後の教官室には人気がない。
「先生、また噂になってますよ」
目的の机まで辿り着き、どさりとノートの山を落とす。
「噂って?」
無口な数学教師に代わって、軽やかな声が尋ねて来た。
「先生達が二人で指輪を買いに行ったのを、見た人がいるって」
ほとんど表情が動く事のない強面の数学教師から反応を引き出すのは不可能だと判断して、声の主の方を振り向く。
「あら」
驚いたように目を丸くして口元に手を当てているのは、噂の対象の一人である、小枝子先生だ。放課後ここに来ている事が多いらしく、よく見かける。その事実が、噂に信憑性を持たせる要因にもなっているわけだけれど。
「あら、じゃありませんよ。二年三組の佐賀さんのお母さんが、偶然見かけたって。佐賀さんがあちらこちらで吹聴して回っています」
佐賀さんのお父さんは貿易会社のお偉いさんで、奥様であるお母さんはPTAの役員をしている。お上品な口調ではあるけれど、校長や教頭を相手にしても遠慮呵責なく文句を言えるほどの剛胆さと大胆さを誇る、無敵のオバタリアンだ。噂では教育委員会とも繋がりがあるらしく、教師達も恐れる人物である。そしてそこそこのお金持ちの奥様らしく噂話が大好きで。他の生徒のお母さんや近所の主婦を自宅に招いては、週に数度はお茶会と称した井戸端会議を開催しているらしい。
佐賀さんのお母さんの耳にひとたび入った噂は、その真偽にかかわらず、瞬く間にご近所及び学校中に知れ渡るのが慣例だ。それも見事な背びれ尾びれがついて、メダカが鯛に成長して広がるのだから、始末が悪い。
そんな母親に育てられた佐賀さんも、やっぱり噂話が大好きで。その佐賀さんが積極的に広めた噂だ。きっと明日には、学校中の生徒だけではなく教職員にも伝わっている事だろう。
「指輪を二人で選びに行ったのは本当の事なんだから、まあいいじゃない」
のほほんと。緊張感なんてものとは全く縁がないという顔で、小枝子先生はお茶を啜っている。昨年大学を卒業してすぐに赴任して来た二年目の先生で、今いる女性教師の中では一番の若さを誇っていた。その初々しさとぽややんとした雰囲気が、男子生徒と男性教師陣からの支持を集めている。
そして小枝子先生の噂の相手である、この無表情な数学科教師が宮城先生。今年三年目の、比較的若い教師だ。よほどの事がない限りぴくりとも表情を変えない事で有名で、生徒を褒める時も叱りつける時もほとんど同じ。よくよく見ると微妙に口元が引き締まったり緩んだりしているのだけれど、それを理解できるようになるには、一朝一夕では無理だろう。その外見に比例して授業の厳さも有名だけれど、同時に教え方が上手だという事でも知られている。
小枝子先生は音楽大学出身で宮城先生は国立大学の理工学部出身と、経歴は少し違うものの、実はとても仲が良いのは周知の事実だ。
「そんな事を言っていると、知らない間に、二人は同棲しているとか結婚しているとか、実は隠し子までいるとか言われかねませんよ」
実際、そのくらい凄いのだ。佐賀親子の噂の持つ威力というものは。
「大袈裟ねえ」
「大袈裟なんて事、ないですよ。もし今度、先生が子供連れで出かけるところを見られたりしたら、一巻の終わりです」
少々凄んでみても、小枝子先生はびくりともしない。肝が据わっているのか、どこか抜けているのか、判断に困る所だ。
そもそも小枝子先生がこの数学科の教官室に入り浸っている事で、日頃から色々噂されてはいる。そうじゃなければ、指輪を買いに行ったくらいでいきなり婚約だなんて発想には結びつかないだろう。
「あ、すみません。いただきます」
無造作に目の前に置かれた湯飲みに対して頭を下げると、宮城先生が小さく頷いた。
「子供がいるのは嘘じゃないんだし、これでも一応社会人だし。別に見られてもいいんだけど」
そう。実は小枝子先生は、この若さで既に子供がいるのだ。小枝子先生そっくりの、それはそれは可愛い男の子が。
「違うだろう、小枝子」
初めて口を開いた無愛想宮城先生。しかしその発言内容に、思わずチェックを入れずにはいられない。
「先生、学校内では小枝子先生と呼んで下さい」
壁に耳あり障子に目あり。どこで誰が聞いているのか、分かったものじゃない。
「ああ、悪い」
全然全く悪いなんて思っていないだろうその口調に、わたしは小枝子先生と目を合わせて肩を竦めた。駄目だ、この人、状況を分かっていない。
「まあ、そういう事なんで、言動に気を付けて下さいね」
元々の用事であるノートの提出は、とっくに済んでいる。これ以上余計な噂を流されない内に、この場から退散した方がいいだろう。
そう判断したわたしは、どっこらしょと椅子から立ち上がった。
「あら。紗英ちゃん、もう行っちゃうの? もっとゆっくりして行けばいいのに」
小枝子先生が、実に残念そうにわたしを見上げている。
「小枝子先生。学校では名前で呼んじゃ駄目ですってば」
本当にこの人は。
「ええー。だってわたしと紗英ちゃんの仲なのに」
拗ねて膨れっ面をしている小枝子先生は、大人で教師のはずなのだけれど。
「外でならともかく、学校内では駄目です」
「はあーい」
なんだか不満そうに返事をする小枝子先生は、とてもじゃないけれど年上には見えない。
「じゃ、いいですね。小枝子先生も宮城先生も、あまり二人きりでいないようにして下さい。痛くもない腹を探られるような事があっても、わたしは知りませんからね」
と。できるだけ冷たい口調で言ったつもりだったのだけれど。
「やっぱり、紗英ちゃんったら可愛いー」
立ち上がると同時に駆け寄って来た小枝子先生が、むぎゅっとわたしに抱きついて来たのだ。だから名前で呼ぶのはやめて下さいと言っているのに、聞いていやしないのだ、この人は。すりすりと頬ずりまでされ、ファンデーションがわたしの顔にうっすらとついてしまう。
「離れろ」
べりっとばかりにわたしと小枝子先生を引き剥がしたのは、残る一人の在室者。無感動無表情の宮城先生だった。
「男の焼き餅はみっともないわよ、大貴」
小枝子先生の言葉に、焼き餅なんて物とは全く縁がなさそうに見える宮城先生の顔を、思わずしげしげと見つめてしまう。
「なんだ」
眉間に刻まれた縦皺が、不機嫌さを如実に表していた。
「先生こそ、離れてくれませんかね」
「断る」
気の弱い人なら卒倒しかねないような強面。ベテラン&既婚者が大部分を占める我が校の教師陣の中にあっては独身で十分に若い男性教師なのに、女子生徒からあまり人気がないのは、この険しい顔つきのせいだろうと思う。もう少し顔の筋肉を緩めれば、それなりにもてそうなのに。
「相変わらず分かりやすいんだから」
ころころと、小枝子先生が鈴が転がるような声で笑う。音楽の先生だけあって、笑い声も軽やかで、まるで歌っているようだ。
「わたしが紗英ちゃんと仲がいいのが悔しくて仕方がないのよ、大貴ったら」
「余計な事は言うな」
そっぽを向いている宮城先生の目の下が、ほんのりと赤くなっている。どうやら図星のようだ。
「え。焼き餅って、マジっすか?」
思わず訊かずにはいられないほどに、予想外の反応である。
「下らない噂なんかよりも、事実の方がよっぽど凄いわよね」
なおも楽しそうに話す小枝子先生とは対照的に、宮城先生の口元が歪んでいく。経験上、これはなんとなくまずい展開だ。
「でも、佐賀さん達が思いっきり方向違いの噂を流してくれる方が、色々ごまかせて助かるでしょう?」
確かに、小枝子先生の言葉には一理ある。一理あるのだけれど。
「まあ、紗英ちゃんにとっては面白くはないわよね。わたしなんかと大貴が結婚するかも、なんて噂されちゃうと」
などととんでもない事を言われ、ぎくりと肩が強張る。
「いや、別にそういうわけでは」
慌てて否定したけれど、きっと先生達にはお見通しなんだろう。その証拠に、小枝子先生がくすくすと笑いだし、宮城先生は驚いたように目を見開いている。眉間の皺まで消えているのだから、本気でびっくりしているようだ。
「でもね、紗英ちゃん。わたしは中弥先輩一筋だから! こーんな愛想の悪い男になんて、惚れるわけないじゃなーい」
香川中弥。それが小枝子先生の最愛の旦那様であり、わたしの従兄でもある人の名前だ。小枝子先生と宮城先生の、高校時代の二年先輩でもある。
ちなみに、小枝子先生と宮城先生は同い年なのだけれど、大学時代に結婚・妊娠・出産した小枝子先生が一年休学していたため、教師になるのが遅れたのだ。
「それはそう、なんですけど、ね」
やっぱりさっさとここから出て行けば良かった。なんて思ったところで、後の祭り。思わず後退りしかけたのを、先ほど小枝子先生から引き剥がされた時から捕まれたままの手を宮城先生に引かれて、引き止められてしまった。
「紗英?」
いや、だからそんなに驚かなくても、って言うか、なぜそんなに嬉しそうなんですか、宮城先生。
「え。えーっと、そろそろ、ともくんの保育園のお迎えの時間なので、わたしはこれで」
ともくんというのは、小枝子先生と中弥君の愛の結晶の智紀君。小枝子先生が大学に復学する時に従兄夫婦から頼まれて以来、ベビーシッターとしてわたしがお世話をしている。さすがに学校がある日中は保育園に預けられているのだけれど、送り迎えもわたしの仕事なのだ。中弥君の家で智紀君の相手をして、ついでに夕食をご馳走になって帰るという、何とも美味しいバイトである。
逃げ腰になるわたしの手を、その言い訳を信じたらしい宮城先生が離してくれた。
「いつもごめんなさいね。紗英ちゃんのお陰で、本当に助かるわ」
「いえいえ。わたしもバイト代貰っていますから、ギブアンドテイクですよ」
あはは、と乾いた笑いを浮かべるわたしに、小枝子先生の笑顔が眩しい。
「じゃ、じゃあ、わたしはこれで。お邪魔しましたー」
そろそろとドアに辿り着き、ノブに手を掛けると。
「帰りに、小枝子の家に寄る」
と、後を追うように、声だけが背中に届く。
「せっかく紗英ちゃんのために買った指輪だものね。早く渡したいのよねー」
「うるさい」
え。そうなの? 問題の指輪って、わたしのための物だったの?
あまりにびっくりして、思わず振り向くと。
「うわあ」
滅多に見る事ができないほどに顔を真っ赤に染めた宮城先生が、そこにいた。