ヨーロッパ農業の展開 - 古代・中世
これまであった「ヨーロッパの農業の歴史」を解体。
分割と詳細な記述に書き換え作業が凍結中……。
■地中海性気候
古代ヨーロッパといったらギリシャ・ローマですが、メインとして扱うのは南欧ではなく西欧なので少し駆け足で進めます。
気候的特徴として、紀元前1世紀の『農耕詩』を例にすれば「雨多き夏と晴れた冬とを願って、農夫たちよ、祈れ」というもの。
降水量は冬場の雨季に集中し、多雨と湿潤の状態になる一方で、夏場は降水量が少ない乾季で、強い乾燥と高温がもたらされます。
海岸線が非常に長いことから夏季でも十分な降水が得られる地域も存在しますが、一般に冬場の降水を用いた冬作が行われ、灌漑された地域を除けば夏作はあまり行われません。
主要となる冬場の栽培作物を挙げると、穀物ではコムギ、オオムギ、ライムギといったもの。
一応夏穀として、乾燥に強いキビ、アワ、後にはアメリカ原産で劇的に普及したトウモロコシといったものが見られたようです。
(1)二圃式農法
古代から近代まで基本的な耕地利用は変わらず、圃場を2つ分け、冬穀→休閑の栽培サイクルを行います。
細かい点は三圃式農法の項へ譲ってここでは割愛。
(2)果樹園芸
地中海性気候下では強い日照と高温を確保できる優位があり、比較的乾燥に強く、収益性の高い果樹の生産が発達しました。
例として油糧作物であるオリーブ、宗教的にも重要な酒造原料となるブドウ、中世に栽培が広がるオレンジやレモンやライムといった柑橘類、山間地の主食にもなったクリなどが挙げられます。
(3)アラブ農業革命
イスラム勢力の支配領域は中東や北アフリカなど、非常に乾燥が強い地域に位置しており、そこでは灌漑技術が大きく発展しました。
そうした水車動力やポンプを用いた灌漑機械は、イベリア半島を支配した時期(8~15世紀)に導入され、また他の地中海性気候下のヨーロッパに伝播したとされます。
栽培作物を挙げると、穀物ではコメ、ソルガム、その他重要な作物としてサトウキビ、ワタなどが中世盛期に導入されました。
■大陸性気候・西岸海洋性気候
歴史の本なんかだと単に「アルプス以北」などと表現されます。
地中海性気候との大きな違いは、夏場も降水が得られることであり、本来は冬作物であったはずのムギ類やマメ類などは、この地域に作付けされる中で夏作物化が進行しました。
主要となる冬場の栽培作物を挙げると、穀物ではコムギ、ライムギ、冬オオムギといったもの。
夏穀としては、オオムギ、エンバク、キビといったもののほか、中世に普及したソバなども挙げられます。
(1)古代
古代のアルプス以北で行われた農業の1つは、ローマに由来します。
ローマではガリア征服以来、植民にあたっても防衛のための集住が求められ、定住とやや集約的な農業方式が行われます。
英語で「村落」を意味する"village"の語源ともなった「ウィラ」であり、ローマの富裕層が奴隷を用いた大農場を所有し、地中海式の二圃式農法が導入されています。
またこうした穀物用の耕地とは別に、ブドウ栽培用の果樹園や、家畜飼養のための草原などが別に存在します。
一方でローマの入植地以外では、一般的に移動式の農業経営が見られました。
これは耕作しやすい1つの土地で作物を栽培し、それを地力が枯渇するまで繰り返したら、放棄して別の土地に移動する、という行動を繰り返すものであり、人類で最も原始的な農業方式と言えます。
原始穀草式農法などと呼ばれるものであり、それまで耕作に使われてこなかったことで高度に保たれた地力を引き出せるという優位はあるものの、農具のように生産のための資本も未発達であったことから、生産力はそこまで高いものではありません。
ただし食糧供給の手段としては穀作以外への依存度が高く、草地では羊や牛、森では豚といった家畜放牧や、狩猟採集も重要な食糧調達手段でした。
こうした生産手段は古代世界や新大陸開拓のような人口希薄な状況でなければ成り立たないものの、大西洋岸にほど近い砂質地では長く見られましたし、高山地域での移牧や、亜寒帯地域やヒース地といった酸性土壌で行われた焼畑といった移動式の農業方式は、地域によって近代まで残存します。
双方に言えることとして、ローマ人が用いる地中海式の犂は、表土を粉砕するだけの軽量なものでしたし、それ以外の諸族も十分な資本を持たないことから、開発が可能なのは軽い土質の地域に限られました。
この時期のヨーロッパはまだまだ森林が支配的な地域であったといえます。
(2)中世前期(メロヴィング朝)
この時期はヨーロッパの小氷期にあたり、ローマ帝国という広域国家が滅亡し、全域で民族移動が発生した混乱期です。
農業方式自体に変化はないものの、政治的に不安定であり、中小の自営農民達は有力者の庇護を求めて土地を寄進し、その後貢租の支払い義務とともに土地の再授与といった、土地所有の変化が生じたとされます。
(3)中世前期(カロリング朝)
この時期は前の時代と異なり気候的に安定し、強力な統一王権の下で大所領が形成され、「古典荘園制」と呼ばれる制度が普及する過程とされます。
この時期の経営単位をマンス(フランス語)やフーフェ(ドイツ語)と呼び、それぞれの農民が保有する独立した耕地と、共同で所有される森林や草地における用益権を合わせたものです。
例として9世紀初頭のサン・ジェルマン・デ・プレ修道院領では、所領3万6000haに1470マンスが存在したとのことで、耕地以外も含むとはいえ1人あたりが平均24.5haと、非常に広い面積を経営していたことが読み取れます。
農民達は保有マンスでとれた穀物や畜産品などを貢租として納めたほか、賦役として領主直営地における農作業を課されたそうです。
技術面で見ると一部では水車による製粉の普及が見られるようになり、夏作物化した穀物を用いた冬穀→夏穀→休閑の三年輪作も始まりました。
(4)中世盛期
この時期は「中世の温暖期」にあたり、「中世農業革命」とも呼ばれる経済発展が進行し、より北方のドイツやバルト海地域、果てはグリーンランドに至るまでヨーロッパが拡大していく過程にあたります。
技術面で見ると水車利用が劇的に拡大し、搾油や鍛冶の動力が人力から水車に置き換わり、粉挽きによりムギ類の粥に代わってパン食が普及していく時期です。
鉄供給が増大したことで森林が斧や鋸によって次々と切り倒されていくとともに、草切刃や犂先に金属を用いた重量有輪犂が導入され、耕地の造成が進行していきます。
水車や重量有輪犂といった設備は到底個人で所有できるものではなく、効率的な運用を行うためにこの時期には集村化が進み、村落共同体の形成期となります。
農民それぞれで分散していた耕地は1か所に集められたうえで、大きくは冬穀地・夏穀地・休閑地に三分割され、そこからさらに重量有輪犂の運用に適した細長い短冊状に切り分けられ、領主直営地と教会保有地と農民保有地がバラバラに分割して配置されました(混在地/零細分散錯圃)。
農民は地条のいくつかを自らの持ち分とするものの、それらを柵や生垣で囲い込むことは禁止され、周囲と別の作物を育てるというのは実質的に不可能でした(開放耕地)。
農作業は村落共同体の統制下で実施され、刈跡や休閑地においては家畜が放牧されます(耕作強制/放牧強制)。
こうした一連のシステムを「三圃式農法」と呼びます。
イメージ
冬穀:■■■■■■■□□□□□
夏穀:□□■■■■■■□□□□
休閑:□□□□□□□□□■■■(施肥)
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草地:□□□□□□□□□□□□□□□
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農事暦で見ていくと、3月に夏穀用の犂耕と播種が行われ、4月に家畜の放牧を開始、6月は冬穀用に休閑地の犂耕と冬の家畜飼料として干し草作り、7月には冬穀の収穫と高い位置で穂刈りした刈跡への放牧、8月は冬穀を脱穀しつつ夏穀を収穫し、10月まで休閑地を犂耕して冬穀を播種、といった具合だそうです。
この「休閑」という語は、作付けをやめて畑を休ませるような印象を与えますが、実際のところ夏至の頃から始まる犂耕や、冬季に蓄えた堆厩肥の施肥を行って次の作付けへの準備期間といった向きも強く、むしろ農作業が集中する空間にあたります。
また大開墾が進行する中で領主層は、労働力を確保するために法的にも経済的にもより有利な条件を提示し、人員を集めることに努めました。
農民は新村建設に参加した方が有利という状況が生じ、農民の流出を防ぐために、既存の耕地でも領主の農民層に対する譲歩がこの時期に進んだとされます。
農民が賦役を行うことは減少し、自らの保有地からの現物貢租に一本化され、領主直営地では別に賃金で農業労働者を雇うという形式へ移行していきます。
流通面でも発展が顕著であり、中世初期では塩などの生産地が限定される必需品や、一部の高付加価値商品に限られていたものが、大きく拡大していきます。
ヨーロッパの産品としてはワイン、毛織物、鰊などが特産品として挙げられますが、特に13世紀後半には地中海と大西洋岸、北海を繋ぐ航路も開通し、造船・航海技術の向上と、輸送コストの低下が伺えます。
(5)中世後期
大開墾と人口増大は華々しい経済成長として語られますが、次の時代に大きな問題を抱えることになる時期でもありました。
13世紀末頃には耕作が容易で肥沃な土地というものは開墾しつくしてしまい、農地の拡大が停滞するとともに、村落周辺の森林や草地を開墾してしまったことで家畜飼養が厳しくなり、厩肥の不足から地力の低下が深刻化していきます。
よく「中世ヨーロッパの収穫率は播種量の3倍程度」などと、その低生産性について語られますが、その理由の1つが施肥水準が非常に低くなってしまったことに起因します。
中世からは大きく外れるので恐縮ですが、たとえばテーア『合理的農業の原理』を例にとると、三圃式農法について「通常……6年目ごとに耕地に施肥するだけ」「9年目だけの施肥というのもしばしばである」と述べています。
本来は三圃式農法を行う場合、家畜の飼料を確保するために、耕地とは別にある程度の大きさを持った採草地あるいは放牧地が不可欠でした。
理想的なのは3年に1回、休閑ごとに十分な堆厩肥を圃場に投じることができるのが望ましく、例としてチューネン『孤立国』では、耕地(冬穀・夏穀・休閑)9に対して草地16が必要としています。
18世紀イギリスのヤングは『北部旅行記』で「10の内9の農場にみられる共通の欠陥は、草地があまりにも少ないということ」と述べましたが、中世に進行した人口増加の流れの中で、従来草地に割り当てられていた土地まで開墾の手が伸び、現実には上述の比率を維持することが難しくなってしまい、家畜飼養能力が縮小し、堆厩肥不足による低生産が常態化してしまったというわけです。
こうした事態はなおも人口増加を続けていた、農民の食糧事情に深刻な影響を与えます。
草地や森林を耕地化したことで、家畜飼養能力の減少から動物性タンパク質が不足するようになったのはもちろん、森で入手できた山菜や果物などの多面的な食糧確保の手段が難しくなり、食糧は耕地から供給できる農産物のみと単調化していき、また飢饉への脆弱性を持つようになりました。
そうした状況から生じたのが「14世紀の危機」と呼ばれる社会変動です。
この時期には百年戦争に代表される戦乱による農村の荒廃、負担に耐えかねた農民反乱の多発、栄養状態の悪化を根底とするペストの大流行といった、数々の破滅的な人口変動が生じています。
人口減少は農産物価格の低下と労働賃金の上昇をもたらし、経営に直撃した領主層の没落が多発します。
一方でその時代を生き残った農民には非常に有利な環境が形成されました。
人口過剰が解消されたことで農民は1人あたりにより広い農地を保有できるようになり、さらに労働力の不足が領主層からさらなる譲歩を引き出し、より有利な労働条件を手にすることとなります。
方向性の1つは労働節約的な大規模経営であり、特に近代に絡んでくるものとしては、少ない人手で経営できることからイングランドで牧羊が拡大し、第一次囲い込みへと繋がったことが挙げられます。
方向性のもう1つは劣等地を完全に放棄した、優良地での集約的な商品作物生産であり、輸送コストが低落したのを背景として、特産地の形成が一層進みました。
■主要参考文献
堀越宏一『中世ヨーロッパの農村世界』(山川出版社,1997)
奥西孝至他『西洋経済史』(有斐閣,2010)
■図表
wikipedia"British agricultural revolution"より