農業と地域性 - 日本の周辺
前話では日本の各地域にどのような差違があるのかを見てきたわけですが、今度は東アジアです。
歴史的にデリケートな地域ではありますが、
①ある程度信頼のおける統計資料にアクセス可能
②植民地支配開始から時間が経ちすぎていない
という観点から、この年代・この地域を選出しています。
◼️台湾(1900年)
台湾については非常にシンプルなもの。
大規模な開発が始まったのは、17世紀以降多くの漢族が移住してからであり、開発途上な面がありました。
清代の台湾の役割は、まず対岸の穀物不足地域(福建・広東)に対して米を供給すること、次いで砂糖や茶を市場に供給するといった具合になります。
大陸との強い結び付きの中での開発であり、不足する物品は輸入すればいいことから、モノカルチャー的に展開しました。
特に産額の多いものとしては米と甘藷。
30年ほど時間は下りますが、総督府の衛生調査では「米、甘藷混合食が最多(66%)」「亜ぐは米食(27.2%)」「甘藷食(4.7%)」であり、これについて「内地に在りては本島の甘藷は麦に匹敵すべきものと見れば大体の説明がとれる」だとか。
気候の違いもあってか麦は全然、ほとんどの地域が米と甘藷を主食としますが、台湾原住民は粟を主要作物としていたことから、一部地域では比率が高いと言えます。
米の欄が空白な澎湖は水の便が悪い島々だからであり、完全に畑作依存となっています。
また特徴的といえるのは落花生でしょうか。
衛生調査では「落花生に塩分を配したるものは副食物とすることは一般に行われている」とのことで、間食によく用いられたのだとか。
一方で大豆は豆類で一緒にされており、その生産量も大きいとは言い難いです。
推測になりますが、清代には東北部で大豆を大規模生産し、国内各地に供給するシステムができていたので、自給よりも輸入に頼っていたんじゃないかと思います。
◼️朝鮮半島(1911年)
日本を見ていくとほぼ全域で最大比率は米だったのですが、朝鮮半島では地域間の差がかなり出ています。
大きく分けると、米を生産の中心とする南西部、雑穀を生産の中心とする北東部、といったところでしょうか。
ここまで比率が高いとなると、雑穀の「雑」という表現も適当と言い難いので、「五穀」として認識した方がいいかもしれません。
まず南西部については日本とほとんど変わりません。
強いていえば甘藷の栽培もほとんど見られない点で、「東北東部」や「中央高地」と生産構造が似ており、寒冷であるものと言えます。
一方の北東部は「日本とは全く違う生産構造の地域」だ、と認識しなければなりません。
学校で習う地理で説明するならば、秦嶺・淮河線に似ている構造なのですが、朝鮮半島北部は華北ともまた違った気候を持ちます。
朝鮮半島北東部は黄河流域よりもさらに高緯度に位置しており、シベリア高気圧の強い影響下にあるので、冬季は華北よりもさらに寒冷かつ乾燥します。
このことでまず影響が大きいのは「麦」の栽培です。
総督府の資料を例に挙げると、「大麦ニハ、春蒔、秋蒔アリテ京城以北ハ春蒔多ク以南ハ秋蒔多シ」だとか。
本来冬作物である麦類を栽培することは、例えば二毛作など土地利用の高度化や、夏作物との労働や気候リスクの分散、といったメリットがあります。
しかしながら北東部でそれは困難であり、競合する1つの夏作物、という役割しか持てないのです。
そのことからか統計では、明らかに南西部で麦の比率が多く、一方の北東部での栽培は粟に劣ります。
また北東部はさらに、大陸性気候の影響が強い黄海側と、山地を越えてそれが弱まる日本海側に分けられます。
気候区分上でも亜寒帯冬季少雨と亜寒帯湿潤で分かれており、日本海側は降雪量が若干多く、夏季の気温上昇が比較的抑えられる、といった傾向を持ちます。
芋(馬鈴薯)の比率が高まっているのは、そうしたより低温で短い夏の中でも、有利に利用できることから選ばれたものかと思われます。
もしかしたら隣国の極東ロシアを通じて、ヨーロッパの優良品種がもたらされた、というような文化的な面もあったのかもしれませんね。
◼️中国東北部(1929年)
中国東北部の栽培動向は、基本的に朝鮮半島北東部の黄海側と同じです。
気候面ではやはり、夏季の高温多雨と冬季の低温少雨を特徴とします。
短くも集中した高温と降水量を有利に利用するため、夏作の雑穀類と大豆生産に特化し、一方で冬季は寒冷に過ぎることから冬作は困難な地域と言えます。
夏季に高温が得られることから、米の生産高も実数としては少なくもないのですが、他作物と比べれば比率は全然ですね。
それにしたって極端なのは大豆生産でしょうか。
黒竜江と吉林だと生産高の3割以上を占めるなど、明らかに自給用ではありませんね。
中国東北部も台湾と同様、本格的に手が入るのは清代であり、低開発だった広大な原野が、大量に進出した漢人移民の手で開発されていきます。
そこでの役割はやはり大豆を大量に栽培し、大きく発達していた沿海航路や長江水運を通じて、清の各地に輸出することでした。
その後日本が権益を得ていく中でもその役割は変わらず、大豆油は欧米向けの有力商品となり、またその油粕は内地に大量に輸入されて、人口激増する時期の農業生産を支えました。
これまでは「雑穀」として一括りにしてきましたが、過半を占める品目がそれだと、あまりに状況把握に不適当なので、さらに4項目に分けています。
粟は先史時代から、高粱もアフリカから宋代には導入された、華北における主要作物であり、中国東北部の自給用に最も主要な作物でした。
日朝中と見てきましたが、いずれも玉蜀黍の栽培は見られるものの、伝統的に栽培されてきた雑穀と比べると大きく劣っており、緑の革命を経るまでの玉蜀黍は、東アジアにおいてそこまで優良作物でもなかった印象です。
またグラフの「その他雑穀」については少し注意を。
具体的な作物は資料だと不詳ですが、黍や稗や蕎麦の他にも、一般に雑穀扱いされなかった大麦やライ麦なんかも纏めて入っていると思われます。
◼️中国
中国の古い統計資料……というのは実際のところ戦乱等の影響から困難なのですが、一応中華民国時期の南京大学による調査から一例として紹介だけ。
フランチェスカ・ブレイ『中国農業史』を参照とするも、線等のクオリティはご容赦ください。
大きく分けると、非灌漑畑作農業地域の北部(河西回廊は例外的に灌漑農業)と、灌漑稲作農業を生産の中心とする南部、といった区分になります。
これがいわゆる「秦嶺・淮河線」にあたりますね。