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第1章《志願》
「383番の方、面接室にお入り下さい。」
自分の番号が呼ばれたヨーコは緊張しながらも何とか無難に返事をし、
待合室の席を立ち上がった。
50人程の志願者達の視線を感じながら、
蛍光灯の少し眩しすぎたその部屋を後にして薄暗い廊下に出た。
係員の後をしばらく歩くと、面接室と書かれた部屋の入り口に案内された。
少し手前には姿鏡が設置されており、
係員のどうぞという目付きを確認したヨーコは鏡の前で立ち止まると、
少しだけ後ずさり、
自分の全体像が映るようにした。
この日の為に母が見立て買い揃えてくれた紺のリクルートスーツもそれなりに着こなせて見え、
生まれて始めて挑戦したショートカットも活発な印象に写し出されている気がした。
ただ新調した眼鏡は少し赤が強すぎた感はある。
しかしこれは知的に見えるよう狙ったのだ良しとしよう。
鏡に向かって髪とワイシャツの襟を直し
両肩を軽く手で払った後、
身体を係員の方へ向け視線を会わせると
直ぐに彼はどうぞという手振りをした。
2~3歩進みドアの前に立ち、深く深呼吸してからノックをすると、
部屋の中から「どうぞ」という声が返された。
一瞬、ふと母の顔が頭に浮かんだ。
(私は
絶対成ってやる。)
そんな強い気持ちが沸き上がり、
ヨーコは思い切り良くドアを開ける事が出来た。想像していたよりかなり広いその部屋の正面の壁には、
我が組織のエンブレムがでかでかと描かれていた。
子供の頃から目にしてきた
皆の大好きな我が組織のエンブレム。
組織を表す世界地図の真ん中に、
交わって刺された三本の矢がそれぞれ自由、平等、平和を意味している事は
養成所小等部の頃、授業で教わった記憶は今も鮮明だ。
我が組織のエンブレムの前に置かれた長いテーブルには
四人の男と一人の女が横並びで座っており、
その正面に向かい合う形で少し粗末なパイプ椅子がひとつ置かれていた。
「失礼します。」
一礼してパイプ椅子の横まで進み、
五人の真ん中に座っている白髪混じりの髭を蓄えたサングラスの男に視線を合わせつつ
「志願番号383番、クロギ ヨーコです。本日はよろしくお願いします。」
広い部屋に通るような第一声を出せた事で、
先ずは快活な二十歳の若い女性という印象を与える事に成功した様に思え、
ヨーコは少しリラックスした。「掛けたまえ。」
真ん中の髭の男に言われ、ヨーコは静かにパイプ椅子に腰掛けた。
「クロギさん、貴方はまだ若い...しかも女性...昨今では“しかも女性”などと言って良いものかわかりませんが、貴方は我が組織の為に改造人間になる事を自ら志願しているのですか?」
「はい。」
「貴方は改造人間というものがいったいどんなものであるか理解していますか?」
(やはり、この手の質問から入って来たか。)
「勿論です。改造人間とは約40年前、我が組織創始者のひとり、ベルツ博士により発見されたアルデパンス融合素子による複数の異なる生命におけるDNAレベルでの細胞核融合により産み出される新生命体の事であり、融合による優れた身体能力と様々な特殊能力を持つ事が可能となります。」
五人の面接官達は、各々が興味を持ち始めたかの様に、手元の資料と饒舌に語る若く聡明な女性に交互に目をやった。
「うーん、そこまで改造人間を明確に語る事が出来るとは、さすが養成所首席の才女ですね。」
向かって一番左の席、細面でスーツ姿の30代くらいの男が、手に持ったペンを頬に当てながら半分唸る様な口調で発言した。ヨーコはこことばかりに続ける。
「私は身体もいたって健康ですし、まあ訓練部門では中の上くらいですが、何より我が組織の為に活躍したいという思いは我が組織で一番と思っています。」
男一同が「オー」という声を発した。
しかし、向かって一番右の白衣を纏った中年女性だけは、不安げに眉間に皺を寄せながら
「貴方が言う通り、確かに改造人間の技術及びその能力は素晴らしいものです。でも、一度融合したものを分離する技術はまだ開発中...つまり、二度と元の姿には戻れません。
貴方のその若くて美しい外見は永久に失われてしまいますが、そこは問題ないのでしょうか?」
「はい。それは承知の上での志願です。
それに私は過去の改造人間の方達に憧れて今日まで生きて来ました。
中でも《黄色スズメバチ女》さんなどは、私の最も尊敬する女性のひとりです。」
白衣の女性はしばしヨーコの目を真っ直ぐ見つめた後
「《黄色スズメバチ女》...あれは私の姉でした...。
ひと射しに命をかけていた優しく強い姉でした。
...体が縦半分で区切られた赤と青の模様をし、頭が半分ずれた如何にも不完全そうな機械男に、黄色いサイドカーではね飛ばされ殉死しました。」
ファンとして当然熟知していた《黄色スズメバチ女》の最期であったが、ヨーコは何も語らなかった。
ちなみに、相手が機械であった為、
自慢の針は呆気なく折れてしまったのだ。
しかも、
命を懸けた戦場に
不謹慎にもその機械男はギターを奏でながら現れたらしい。
部屋の空気がすっかり重たくなった事を微塵も気にせず中年女性は
「貴方にも御家族はいますよね、ご両親は改造人間になる事をどう思っていらっしゃいますか?」
ヨーコは少し目線を下げながら
「私が五歳の時、父は病気で亡くなりました。それ以降は、母ひとり子ひとりです。」
「そう、それはごめんなさい。」
「いえ。母は今日まで私を不自由なく育ててきてくれましたから。」
一呼吸おいてから目線を再び戻し、
「母ですから、当然最初は強く反対されました。
でも、強い気持ちを何度もぶつけ説得をしました。
今では私の子供の頃からの夢に対する一番の理解者です。
今日のこのスーツは母が選んでくれました。
私は今、母とふたりでここに座っています。」
中年女性は数秒下を向き目を閉じた後、顔を上げた。「そうですか。
貴方のような若くて聡明な方こそが、これからの我が組織にとって、本当に必要な改造人材なのかもしれませんね。」
その顔からはもう眉間の皺は消えていた。
それ以降いくつかの基本的な質問のやりとりが行われたが、もう立ち入った話題は発生しなかった。
その後は徐々に、
改造人材に選ばれた仮定での話題へと移行していった。
改造手術を受けるまでの流れ、
その過程で発生する様々な制約、
無事、改造人間になれた場合の自覚や振る舞い方、
やがて報酬について話が及んだ頃には、
ヨーコは自分の選ばれる可能性を確証していた。
大手町にある秘密基地東京本部の雑居ビルを出た頃には、すっかり辺りは暮れていたが、ヨーコの気持ちは晴々としていた。
雑踏の中で立ち止まり、少しキツめに締めていたベルトを緩めると大きく両手を挙げて背筋を伸ばしてから、地下鉄の入り口へ向かう家路へと再び歩き始めた。
(今日の夕飯は、カレーに違いない。)
第2章《母》
ヨーコは高田の馬場で西武新宿線に乗り換えた。
急行で20分程揺られた後、
花小金井駅で降り、駅の南口を出て桜並木の遊歩道へと向かった。
粗方花は落ち、すっかり葉桜となったその道を5分程歩いて右に曲がりしばらく行くと、カレーの匂いが微かに漂ってきた。
薄い水色の壁に黒い屋根。
2階建てアパートの1階奥にある玄関のドアを開けると、
大好きなカレーの匂いに包まれた。
「ただいまお母さん。」
母はいかにも平静を装ったかのように
「あらヨーちゃん、お帰り。
疲れたでしょ、今日の夕飯はカレーよ。」
驚いたでしょと言わんばかりの夕飯紹介で迎えられたヨーコだが、
そこにサプライズ感は何もない。
母は子供の頃から、何かある度に必ずヨーコの大好物であるカレーを作って迎えてくれてきたのだから。
「ワー嬉しい。
今日も、おかわりしちゃおうかな。」
シャワーを浴び、部屋着に着替えると食卓には二人分のカレーが盛り付けられ、既に母は先に口を付け始めていた。
髪にタオルを巻きながら席に着くや否や
「今日の志願者試験どう?うまく出来たの?」
と聞かれた。
ヨーコは、予め電車の中で考えていた答えを返す。「筆記はかなり自信あるの。でも面接はどれくらいの出来なのか正直わからないわ。それなりに手応えはあった気はするんだけど、そもそも改造人間に女が選ばれる可能性は低いしね。」
ヒロコは娘の答えを聞きながら席を立ち、冷蔵庫から無造作に缶ビールを二本取り出して、うち一本をヨーコに手渡した。
娘に促す前にプルトップを開け、
少し豪快気味に三口ほど喉ごしを楽しんでから
「女が少ないなんてわかってて受けたんだから、今さら何言ってんのよ。」
ヒロコは娘にハッパをかける時はいつも父親の雰囲気を出そうと意識している。
「大丈夫、ヨーはお父さんに似て人を引き付ける何かを持っているの。
容姿はお母さんに似て美人さんだし。」
「出た、美人さん。」
二人で顔を見合わせて声をあげて笑い合った後、
二人とも再びカレーとビールを口に運び始めた。
ヨーコは知っている。
父親のタカシが病死ではない事を...。
養成所中等部の頃、改造人間オタクと皆から言われていたヨーコは、黒サソリ男が父タカシである事に気付いた。
夏休み前の図書館で読んだ改造人間大百科のあるページに載っていた黒サソリ男のドアップの写真。
彼の足首に巻かれていたミサンガは、ヨーコが幼い頃作って父の日に渡した物に酷似して見えた。
夏休み、当時はまだただの幼馴染みであったマサヒコを無理矢理誘って、子供二人で西所沢にある改造人間記念館まで行き、そこに展示されていた遺品のミサンガを確認したのだ。
一部は少し焦げていたのだが、確信を得るには十分であった。
そう、その夏以来なのだ。
それまで子供の夢程度であった改造人間願望が、リアルな人生の目標となったのは。
同時に、それまで単なる幼馴染みとして見ていたマサヒコを、異性として意識するきっかけとなったのも、その冒険旅行のお陰だ。
今にして思えば、吊り橋効果だったのかもしれない。
「やっぱり、
おかわり辞めておくね。」
「何でよ。
母さんいつもより頑張って作ったのに。」
「いつもと同じ、最高の味よ。
でも、もし受かったら健康を維持する事は重要な任務のひとつになるわ。」
「さすが我が娘。やっぱ自信あるんだ。」
ヨーコは軽く微笑みだけを返すと、いつもの食卓を後にし、自室へと向かった。およそ女性の部屋らしくない黒い家具で統一された部屋で、
ヨーコは古いスクラップブックを引き出しの奥から引っ張り出した。
本当はおかわりしたかった。
今ごろ恐らく、母はビール片手に泣いているに違いない。
何枚か捲ると、
古ぼけた記事が張り付けてあるページを直ぐに探し当てた。
《黒サソリ男殉死》
当に暗記している何度も読んだ筈の記事をまた眺めた。
バッタの様な顔をした緑色で細マッチョな怪人が、赤いマフラーをなびかせて空中高く飛び上がっている瞬間の写真だ。父は背中ごしなので表情はわからない。
この写真の直後、バッタ怪人は父に強烈なキックを見舞ったらしい。
それが致命傷となり、父は自爆死を余儀なくされた。
《黒サソリ男よ、君の漆黒に黒光っていたその勇姿を、我が組織民は永遠に忘れる事はないだろう。》
どこの世界に、
自分の夫と娘が改造人間になる事を心から喜んで応援するバカがいるというのだ。
恐らく母もとっくに気付いているのであろう、
私が父の死の真相に辿り着いていることを...。
ヨーコは無性に今すぐマサヒコに会いたい気持ちになった。
明日は土曜日、休みであるマサヒコの部屋に遊びに行く約束は既にしてある。
それを思い出したヨーコは静かにスクラップブックを閉じ、黒いシーツの敷かれたベッドに潜り込み目を閉じた。
(ああ、マサヒコ...。
カレーおかわりしたかった。)
第3章《週末》
土曜日、
マサヒコは朝からの曇り空を気にしつつ、
何度も時計を見てしまっている自分をまるで何処かの乙女のようにすら思えていた。
コインランドリーで洗った衣類を部屋に渡したロープ紐に干し終えると、衣類が空になった紙袋を部屋の角に片付けた。
五階建てワンルームマンションの二階東南のその部屋は、晴れていれば日当たりは良かった。
縦長で非常に狭いその部屋は、狭いだけあってエアコンの効き目だけは抜群だった。
部屋の中にある申し訳なさそうな調理スペースには、ガスコンロがひとつしか置けないため、ヨーコは良く嘆いていた。
表向きには会社勤めであるマサヒコにとって、土日休みにヨーコがお泊まりに来てくれる事が何よりの楽しみであった。
本当の平日はもっぱらキツい戦闘訓練に明け暮れる日々なのだから。
マサヒコはようやく最後の時計確認を済ませ、玄関だけは洒落ているマンションを出て、歩いて西荻窪駅へと向かった。
数分後、マサヒコが駅南口に着いた時には、ヨーコの姿が既にあった。
周囲を気にして手を小さく振りながら近づくと、気付いたヨーコは周囲を気にもせず、嬉しそうな笑顔で大きく手を振った。
今日も眼鏡の赤色以外、黒系で統一されたヨーコのファッションはシックでとても似合ってはいた。
折角童顔で愛くるしい顔立ちなのだから、可愛い花柄のワンピースでも着ればもっと似合うのだろうに...いつもながらマサヒコは幾分かの勿体なさを感じていた。
今夜お目にかかるであろう彼女の下着は、100%黒だ。
「もう着いてたの?早かったね。
待った?」
「ううん。そんなには。」
ヨーコは30分程早く着きすぎていた。
マサヒコに早く会いたいのと、母と二人で家にいたくない気持ちから早く家を出すぎてしまっていた。
背が高く、筋肉質だが少し線の細いマサヒコは、
襟元が少しだけくたびれた淡い灰色のロングTと濃い緑のカーゴパンツにサンダル履きだった。
大好きな端正なその顔立ちには無精髭が僅かに伸びている。マサヒコはいつも休日は髭を剃らない。
二人は駅の北口にある西友へと向かって歩き始めた。
「面接、緊張したでしょ。うまく自分を出せた?」
「うん。多分大丈夫。でも結果はどうかわからないけどね。」
「まあヨーコの場合筆記は大丈夫だろうけど、全国で毎年志願者は多いしね。」
西友入り口を入ると、マサヒコはさりげなくカゴを取って渡してくれた。
「今夜はチキン南蛮とポテトサラダに挑戦します。」
「いいねチキン南蛮。」
マサヒコの顔が緩む。
鶏肉コーナーでむね肉を吟味しながら
「マサヒコ、訓練はどう?
無事卒業出来そう?」
「ああ、君の料理のお陰か体も出来てきたし、戦闘も着実にうまくなってるよ。
ただ...発声は未だに恥ずかしいけどね。」
「駄目よ。戦闘員にとっては戦闘中の発声こそが最も重要なんだからね。」
しまった。
少し声が大き過ぎたし、西荻のスーパーで《戦闘員》って言ってしまった。
二人は辺りを見回したが、幸い気にしている客はいないようだった。
しかし、ここは強く言っておきたいと思ったヨーコは少し声を潜めて続けた。
「一見、奇妙に聞こえるかもしれないけど、あのキーッキーッて独特な発声によって戦闘力が格段にアップするっていう事は科学的にも証明されているし、何より我が組織の伝統でもあるのよ。」
「そんな話は訓練所の教官に嫌と言うほど聞かされてるさ。ただ恥ずかしさが消えないってだけで。」
「少しでも戦闘力が上がれば、少しでもマサヒコが無事でいてくれる確率が上がるという事なの。
だから私にとって発声は大事な事に思えるのよ。」
「わかってるよ。」
マサヒコはヨーコの目をじっと見つめながら優しく答えた。
養成所高等部の三年の秋頃、ヨーコが本気で改造人間になろうとしている事を、ヨーコと親しかった女友達から聞かされた。
黒サソリ男の事はまだ知らなかった当時のマサヒコは、
何度も何度も辞めるよう説得した。
何度説得しても、
涙目で怒鳴りながら懇願してみても、
ヨーコの決心はとうとう一度もブレる事はなかった。
その事で二人の関係がギクシャクした時期もあった。
結局マサヒコは、戦闘員訓練専門学校に進学する事を決めた。
戦闘員の資格を取得し、作戦時のヨーコを守るためだ。
訓練は予想以上に過酷で厳しいものであった。
入学当初は何度血ヘドを吐いたかわからない。
大半の生徒達は数日から数週間で辞めていった。
入学時に学費を一括払いさせられる訳に妙に納得した事を覚えている。
だが、お陰で随分強くなった。
今ならヨーコをどんな敵からも守ってあげられる筈だ。
一通り買い物を終えた二人はマサヒコの部屋へ向かった。
幸い雨はまだである。
人通りが疎らになる住宅街の通りでは手を繋いで歩いた。
並んで歩く時、マサヒコが意識していないとヨーコは大概車道側を歩いてしまう。
部屋に入り食材を冷蔵庫に仕舞ったヨーコは、
無造作に干された洗濯物をチェックしだす。
「干す前にパンパン叩かないと、また戦闘服がしわしわで怒られるよ。」
マサヒコはそんなお説教をしたがるヨーコや、
背を向けて料理してくれている後ろ姿のヨーコがとても愛しく思える。
今の処、
それほど料理はうまくはないが、
ヨーコが作ってくれる事が何より嬉しいのだ。
この週末があるから辛い訓練にも耐えてこれたのだ。
今夜はベッドの上で沢山労ってあげよう。
横になっていたマサヒコは、いつの間にか眠ってしまっていた。
第4章《合格》
面接から二週間経った日の午後、
朝からの雨が本降りに変わってきた頃に、
その通知は届いた。
《合格》であった。
夕方まだ雨の中、
母は近所のコンビニで、
二つ入った苺のショートケーキをわざわざ買って来てくれた。
夕飯は急遽カレーに変更された。
予め、食材は準備していたに違いない。
合格でも不合格でも変更されていたことだろう。
缶ビールで乾杯した。
「ヨーちゃん、
子供の頃からの夢が叶って良かったね。」
「ありがとう。」
「きっと、お父さんが一番喜んでくれてるわよ。」
(やっぱ気付いてる?)
「マサヒコさんにも連絡してあげなさいね。」
「うん。
後でゆっくりお祝いしてもらうわ。
今週は本部で研修や適正検査を受けて、
うまく行けば来月から練馬の改造人間工場に拘束される事になるって書いてあるから、
しばらく会えなくなるね。」
ヨーコはおかわりしながら出来るだけ淡々とした口調で説明した。
「じゃあヨーちゃんに次会う時は、
立派な改造人間になってるのかしら。」
「あまりに立派になった娘を見て言葉を失わないでね。」
「そうね、母さん誉め言葉を考えておかないとね。」
精一杯明るく振る舞う母を見て、
ヨーコは三杯目は辞めておこう思った。
第5章《最後の夜》
夕飯後、
ヨーコはマサヒコの部屋を訪ねた。
電話で合格を知らせたら、
マサヒコの方から会いたいと言ってきた。
今夜会いたくなるのは当たり前だ。
改造前の姿で会えるのは今夜が最後なのだから。
出掛けに母は、
「今夜は私の事は忘れて、泊まって来なさい。」
と言って、タクシー代をくれた。
「ヨーコはどんな生物と融合する事になるのかなあ。」
いつもより荒々しい一回戦を終えたばかりのマサヒコが問いかけてきた。
玄関からベッドまで、二人の脱いだ衣服が転々としていた。
床に落ちている花柄のワンピースが目立っていて少し恥ずかしい。
「私は若くて美人さんだから、
女豹とか...可愛い系なら猫かプレーリードッグ辺りが良いかなあ。」
「そうだね。蜘蛛だったら糸を張り巡らせて、空中デートとか出来るかなあ。」
マサヒコがまた強く抱き締めてきた。
応えるようにヨーコの方から唇を近付けていった。
(ああ、マサヒコ。
朝までに何杯、
私をおかわりできるかな。)
第6章《研修》
サユリはエレベータを降りると先ず更衣室に行き、白衣を羽織り髪をひとつに結わえてからロッカーの扉を雑に閉め、給湯室へと向かった。
インスタントの濃いブラックコーヒーを作り、
かき混ぜるのに使用したスプーンを流しに放り投げ、
カップを片手に研究エリアへと向かう。
指紋認証をパスすると、ドアは心地よい機械音と共に自動で開いた。
大手町の地下深くに作られたこの研究施設は意外に広い。
常時100人程のスタッフが従事している。
擦れ違う白衣の者達は皆、サユリを認識すると立ち止まり、
右手を高く挙げる我が組織の敬愛のポーズと共に
「おはようございます。」と声を掛けてくる。
頷く様な会釈で挨拶を返しながら、
足早に自分の研究室を目指した。
短く「おはよ」と言いながら研究室の中に入ると、皆が一斉に振り向き「おはようございます所長。」と答えた。
この部屋の者達は誰も右手は挙げない。
サユリがそれを嫌がるのを知っているからだ。
「どう?昨日の実験の原因分析は進んでる?」
「いえ、まだ半分程度しか...。」
「そう、キツいだろうけどこの研究は出来る限り急ぎたいの。引き続き頑張ってお願いね。」
「はっ。」
細胞核分離が中々うまくいかない。
理論上はうまくいく筈なのに、動物実験では3回に1回程度しか成功しないのだ。
残りの2回は細胞が溶け出してしまったり、
見た目は普通でも奇行が絶えなかったりする。
とても人体実験に移行出来るレベルにはない。
今日は午後から研修生達に講義する日だ。
彼らはいつも、目を輝かせながら私の話に耳を傾けてくる。
現状では一方通行の改造しかない事を知りながら、
我が組織の理想の為?
或いは自分や家族を守る為?
サユリは毎年、
この時期が憂鬱でならない。
ヨーコ達研修生は、
午前中は簡単な入所説明を受けた後、メディカルチェックが行われ、最後に口腔内から細胞を抽出された。
今回の志願者試験をパスした者は21人との事だった。
皆20代から30代くらいの男性で体格も良かった。
女性はひとりであったが、ヨーコには勿論想定内である。
席が近かった事から、休み時間に早速友達が二人出来た。
ひとりはユースケ。
32歳独身で、プロには成れなかったが、サッカーが得意で冗談もうまい、中々のナイスガイだ。
もうひとりはツヨシ。
25歳既婚で5歳になる娘がいるらしい。
名前の通り強気でガタイも良く、お昼は見るからに豪快に食べていた。
笑うと意外と優しい顔になる。
午後からはいよいよ改造人間に関する講義だ。
ヨーコはワクワクして止まなかった。
チャイムが鳴り終わる前にドアが開き、白衣を翻しながら大股でツカツカと壇上に進んできた中年の女性を見てヨーコは面接の時の人だと直ぐにわかった。
「こんにちは、本日皆さんに講義を行う
サメジマ サユリです。」
皆一斉に起立し、右手を挙げてから着席した。
一瞬、ヨーコはサユリの眉間に皺が寄ったように思えた。
それからの一時間、研修生達は固唾を飲んでサユリの講義に耳を澄ませた。
時折、恐らく毎年定番にしているだろうジョークを織り混ぜながら、快活に早口で講義は進み、終了30秒ほど前に全てを話終えた。
終了のチャイムが鳴り終わる前にはサユリの姿はもう教室になかった。
その日の全ての講義終了後、皆教室に残り、それぞれ数人のグループに固まってしばらく喋っていた。
「ショックだなあ俺は...世の中これだけ多くの生物がいるのにさあ。」
ユースケが最初に口を開いた。
融合に適合する生物の種類は人にもよるが、少ない人では1~2種類、多い人でも5種類程しかないという件であろう。
「好きには選べないって事だよね...成れるものにしか成れないって事かな。」
ツヨシも少なからずショックを受けているようだ。
「でも、改造人間に成れる人って選ばれた人間なんだし、例えどんな生物であっても特殊な能力を身に付けられるし、その力をうまく使えるようになれば我が組織の為に生きる事が出来るのは事実でしょ!」
ヨーコは力説した。
「そうだよな。
例えどんな生物だって、今より優れた能力は得られるし。」
少し笑顔を取り戻したユースケは、
伏し目がちなツヨシの方を見た。
「そうか、そもそも我が組織いや、
大切な家族を守る為に俺はここにいるんだって事を忘れちまうとこだった。
ありがとうヨーコ。」
ツヨシも顔を上げた。
研修期間である一週間はあっという間に過ぎていった。
ヨーコはその殆どの時間、
ユースケとツヨシと三人でつるんでいたお陰で、
久々に学生時代に戻った様な気分にも浸れた。
日を追うごとに皆、我が組織に自分の人生を貢献できるという事が、如何に素晴らしい事であるかという思いを強めていった。
早く改造手術を受けたい。
今そう思っているのは自分だけでなく、ここにいる選ばれし全ての仲間達なのだと思うと、ヨーコはとても満たされた気持ちになっていた。
第7章《手術》
ヨーコは全裸の上にシーツを掛けられ、
少し冷たい手術台の上に横たわっていた。
昨日の夜は、ドキドキして中々寝付けなかった。
子供の頃から何度も夢で見た手術風景に良く似ている。
適合する生物は事前には明かされない。
でも、自分は女性だから、おぞましい姿になどしないだろうと読んでいた。
男達には悪いが、女性の特権だ。
眩し過ぎる強いライトがぼやけて来た気がした。
ようやく麻酔が効いてきたのだろうか。
次に目が覚めた時、
きっと素敵な改造人間になっているに違いない。
そして我が組織の子供達、特に女の子達に夢を与える存在に成れたら、どんなに素晴らしいことだろう。
....。
第8章《覚醒》
ヨーコは麻酔から目を覚ました。
まだ幾分頭の中がスッキリしない。
何か頭の中がヌチャ~っとした様なイメージだった。
担当医と看護師が繋がれた機器から幾つかの数値を読み取った後、
「手術は無事成功しました。しばらくは体の一部が動きにくいので、徐々に訓練して行きましょう。
先ずはおめでとうございます。」
若い看護師は何故かあまりヨーコの方を見ようとしなかった。
二人が出ていった後で、融合した生物を尋ねるのを忘れた事に気付いた。
無理もない、とにかく頭の中がヌチャ~っとしているのだから。
しばらくして
口の中の唾液がネチョネチョしている事に気付き、ベッドの脇の水を取ろうと手を伸ばした時、
腕がもう一組増えている事に気付いた。
昆虫系と融合したのだと直感した。
元々の腕を使い、その新たに増えた腕を手繰って引き下ろした。
黒光りする明らかな外骨格の節々た腕には、太くて長い体毛がびっしりと生えていた。
カブトムシかクワガタ辺りかな?
だとすると、ちょっと女の子よりも男の子に人気が出ちゃうかも。
角を確認しようと頭に手をやった。
角は無かったが代わりに長くて太い髭の様な触覚の様な物があった。
ヨーコは思い出して再度ベッド脇の水の入ったコップを手に持った。
コップは油が塗られていたのか?
ヌルっと滑って手から落ちた。
両手を開いて顔の前で確認した。
...ヌルヌルしていたのは自分の手の方であった。
(たっ体液?)
慌てて自分の体に掛かっていたシーツをめくった。
シーツは少し湿っていて、身体との間に軽く幾筋かの糸を引いてネチョ~っとめくれた。
全体的に黒光りしてモモやスネには太い毛が生えている。
おっぱいはあるが乳房も乳首も黒い。
腹には腹筋のような筋が横に何本か入っていた。
触ってみた感じ、腹部は先程の腕よりは柔らかだった。
身体を半身起こし、背中を触ってみた。
固い、そしてヌラヌラしており、縦に細長い楕円の様な形状だ。
(恐らく、アレと融合したんだ。
しかも茶色でなく、黒の方。)
ベッドから足を降ろす時、
自分の体から大きなカサカサという音がした。
ほぼ確信はあったヨーコだが、立ち上がって部屋を出た。
トイレまで廊下を移動する間、カサカサ音が鳴り響いていた。
トイレの洗面台の鏡に映った姿は
ヨーコの推測した通り、
《ゴキブリ》であった。
茶羽でなく黒の方だ。
眼鏡を掛けていないのに、
ショートカットの上に長く太い触覚が伸びた、テカった黒い顔がはっきり見えていた。
(ラッキー!
融合で視力がアップしたんだわ。)
首は回るがすっかり短くなっていた。
背中を映して短い首を目一杯回してみた。
ゴキブリそのものの背中だった。
羽を広げようと試みたが、
まだうまくは動かせないようだ。
(これから毎日、
しっかり訓練していかなくちゃ。)
それにしても、
何という見事なまでに艶のある黒光りなのだろう。
お父さんとはひと味違う黒だ。
ヨーコはしばらく、
自分のテラテラと黒く輝く外骨格の身体に見いっていた。
(とうとう私は、改造人間に成れた。)
ヨーコは充実感と感動で胸が一杯であった。
第9章《訓練》
一週間も訓練を行っている内に
新しい腕は意識した通りに動かせるようになり、
まだ羽ばたけはしないが、ゆっくり開いたり閉じたりは出来るようになってきた。
パワーやスピードは常人の何倍にもアップしている。
カサカサ音にも慣れてきた。
練馬の地下に設けられた訓練施設はとにかく広く天井も高い。
来るべき日の為に仲間達と一緒に汗をかく事、そして日々進歩する事が
今のヨーコにとって何より楽しい。
ユースケは如何なる時でも忙しなく手をスリスリと擦り合わせている。
《ハエ男》がすっかり板についてきたようだ。
ハエの中でも特にイエバエとの適合が高かったらしい。
元々身体能力が高い彼は、速く器用に飛び回れる。
まだ羽ばたけていないヨーコは少し嫉妬している。
ツヨシはというと
《ダンゴ虫男》だ。
大きな身体をより素早く丸める事に目下努力しているようだ。
毎日タイムを更新しているぜと無数の足をワシャワシャさせながら自慢げに語ってくる。
訓練で汗を流した後で、
仲間達と一緒に食べる食事もヨーコにとって格別の時間だ。
ヨーコは食堂から支給される大量の生ゴミが大好きだが、
ハエ男ユースケはその生ゴミの上にコンモリとう○こをかけて美味しそうに食べる。
「究極の選択ってクイズみたいなのあるだろ?
昔は《う○こ味のカレー》のがマシって答えてたけど、
今は断然《カレー味のう○こ》だね俺は!」
ヨーコとツヨシは一度だけう○こをお裾分けしてもらった事がある。
微かにカレー味はしたけれど、やっぱりヨーコは断然腐りかけの生ゴミ派だ。
(そう言えば明日は
研究所の偉い人達が訓練の視察に来る日だったわ。
ちゃんとお礼を言わなくちゃ...。)
サユリは今朝からずっと憂鬱だった。
眉間の皺は寄りっぱなしであろう。
研究員三人と共に準備する。
白衣のボタンを全てとめ、厚手のマスクを装着してヘルメットを被ると、手術用の薄いゴム手袋をはめた。
ペンと資料を手に取ると、周りの研究員の準備終わりを待ってから
「行くよ。」と言いながら訓練場の重い扉を開けた。
21人の改造人間が各々訓練を行っているのを観察しながら中央へ歩を進めた。
空中を飛び回る者、ひたすら大きなジャンプを繰り返す者、何かの液体を口から吐き出している者、サユリ達が来た事に気付かない程集中している者もいるようだ。
不意に
遠くからカサカサという音と共に黒い固まりが地を這いながら猛スピードで近付いてきた。
「速いっ!」
思わず誰かが叫んだ。
その固まりはサユリ達の手前で止まり、立ち上がった。
「先生、お久しぶりですっ!」
赤い眼鏡は掛けてないが、
そのショートカットの愛くるしい笑顔は紛れもない...あの娘だ!
(笑顔は昔のままで可愛いわ。)
そう思った次の瞬間、
生ゴミの入ったポリバケツの蓋を開けた時の臭いが厚手のマスクを突き抜けてきた。
(口臭だ。)
嗚咽するのを堪えながら
「元気そうね。
たったひとりの女性だから覚えているわよ。クロギ ヨーコさんね。」
ヨーコが握手を求め手を出してきた為、反射的に手を出してしまった。
ヌチャ~っとした手の感触をゴム手袋越しに感じた。
サユリはやはり謝るべきだと思った。
私が止めていれば、こんなにもおぞましい姿にならずに済んだのだから。
機先を制してヨーコが先に口を開いた。
「先生、ありがとうござます。」
「えっ?」
「こんな素敵な改造人間にして頂いて、
私とっても嬉しいんです!」
何故、
目の前の臭くておぞましいゴキブリが
ニコニコ自分に御礼をいっているのか??
サユリは困惑した。
「そう。
気に入ってくれているのなら嬉しいわ。」
その見事なまでにおぞましい黒くて毛の生えた大きなゴキブリに、誉める処など無かったが、苦し紛れに絞り出した。
「その黒光り、最高に素敵よ。」
ヨーコは満面の笑顔で去っていった。
少し安堵したサユリは
「ゴキブリ女の脳細胞の融合はきわめて順調のようね。」
そう言って研究員達の顔を見回した。
全員、真っ青な顔で固まっていた。
多分これが、
余程おぞましい物でも見た時の
人間の顔という奴なのだろう。
第10章《必殺技》
3ヶ月近く経ち、
ヨーコ達の辛くて楽しい訓練も佳境に入ってきた。
今日からいよいよ必殺技の訓練だ。
朝からおやつの魚のアラをバキバキとその強い顎でかじり終えたヨーコは、羽を軽く広げ、音もなく飛行して滑空する様に床に舞い降りた。
「ヨーコちゃん、大人の女性が天井に張り付いたまま食べるのは行儀悪いよ。」
ダンゴ虫男のツヨシが注意する。
ずっと部屋の中を行儀悪く飛び回っていたハエ男ユースケが、ようやく壁にとまってしみじみと言った。
「でも、ヨーコはすっかり羽を使いこなせるようになって良かったね。」
ヨーコは少し嬉しそうにユースケと同じ壁にカサカサと登りながら
「今日から必殺技の訓練ね。
楽しみだわ。」
手をスリスリしながら複眼を輝かせ
「融合生物の特性を生かした必殺技が各自にひとつ用意されているなんて格好良いよね。」
「私、絶対大きな声で必殺技の名前を叫びながら繰り出すんだ。」
お行儀良くテーブルで枯れ葉をちぎって食べていたツヨシが
「そんなの、必殺技の常識だろ~。」
きっと、
ツヨシは丸まって転がって相手にぶつかるだけの技だろうなとヨーコは思った。
防護服に身を包み仰々しいガスマスクを装着した三人の男にヨーコは特別室へと案内された。
中に入ると、10メートルほど離れた向かいの壁にはマネキンが三体置かれていた。
男達は慎重に、ヨーコの胸に先の尖った円錐形のブラジャーを装着した。
良く考えるとヨーコはここ数ヵ月、胸も性器も丸出しの素っ裸だった事に今頃気付いた。
下腹部には黒く太い毛がビッシリ生えているので股間が見える事は先ず無いが、
黒いとはいえおっぱいは丸出しだった。
しかし、
ヨーコも周りの仲間達も、お互い素っ裸である事を気にする者は不思議と誰もいなかった。
「あのマネキンに向かって胸を強く揉んでみて下さい。」
ヨーコは男が指差した方向に胸を向け、強く揉んでみた。
その瞬間、円錐形の先端から薄茶色の液体が勢い良く噴射された。
狙ったマネキンは外れたが、細い軌跡を描いた液体はネチョっと張り付くように壁に当たった。
少し粘性を帯びたその液体は泡と僅かな湯気を立てながらトロ~っとゆっくり垂れていった。
壁は少しだけ溶けたようにも見えた。
(スゴい威力だ!)
男達は感嘆の声を上げた。
その内のひとりが説明を始める。
「ゴキブリの様々な体液が、
胸に内蔵されたタンクに蓄わえられるようになっております。
僭越ながら我々はこの最強の液体を
《おぞまし液》と名付けさせて頂きました。」
「この《おぞまし液》を相手に見舞うのがゴキブリ女である貴方様の必殺技
《おぞましアタック》でございます。」
ヨーコはその威力と
ネーミングの良さに改めて感動した。
第11章《再会》
訓練も終盤に差し掛かっていた。
ヨーコは《おぞましアタック》を完全に自分の物としていた。
マネキンは百発百中だし、空を舞いながら的に当てられる様にもなっていた。
ハエ男ユースケの必殺技は
《まとわりバイオアタック》だそうだ。
自慢の高速飛行で相手の顔にまとわりつくように飛び回りながら、強力な細菌を投げつけるらしい。
団子虫男ツヨシの必殺技は
《ダンゴアタック》
やはりその内容はヨーコの想像通りであった。
今日からいよいよ戦闘訓練が始まる。
ひとりの改造人間に10人の戦闘員が与えられてチームが構成される。
ヨーコはこの日を待ちわびていた。
何故なら、資格取り立ての戦闘員も参加する事になると聞いていたからだ。
無事に戦闘員の資格を取得出来た事はマサヒコから既に聞いているし、
5回目の視察に来たサユリに、マサヒコと同じチームにしてくれるよう根回しもしてある。
ゴキブリ女に
ぬめりはあってもぬかりはない。
戦闘員達が「キーッ」の発声と共に右手を挙げながら、
ようやくゴキブリ女のブースに次々と入ってきた。
我が組織のエンブレムが胸に大きく刺繍された黒いツナギに黒い目出し帽を被った男達は皆屈強そうに見えて頼もしい。
その中でも背が高くて少し細身な者がマサヒコだと、ヨーコは直ぐにわかった。
四つになった手を大きく振り振りしたい気持ちを抑え、
皆に軽くペコっとお辞儀をしてから
「右手を下ろして下さい。
私が皆さんのチームリーダーの
《ゴキブリ女》です。」
ヨーコは出来るだけ優しい声で挨拶した。
緊張のせいなのだろうか、皆どこか落ち着きがない様子に思えた。
「皆さんマスクを脱ぎましょうか。」
ヨーコは皆をリラックスさせようと思い、女性らしい気遣いで提案してみた。
しばらく皆キーキーと小さな声を発してキョロキョロお互いの顔を見合わせた後、目出し帽を脱ぎ始めた。
皆、屈強な割に顔は青白いように見えた。
数ヵ月ぶりのマサヒコの顔は相変わらず端正であったが、
やはり心持ち青白く、唇の僅かな震えが見てとれた。
マサヒコは
浮き足だってブーツの左右を間違えて足を入れてしまい、慌てて履き直した。
今日から戦闘訓練だ。
立派な改造人間になったヨーコに会える。
マサヒコは今すぐひとり走ってヨーコのいるブースへと向かいたかった。
立ち上がって目出し帽を被り、目や口の位置を調整しながら隊列に加わった。
皆で一列になって自分達の担当ブースへと手足を揃えて行進した。
行進は遅く、気持ちだけが早っていた。
ようやく
あるブースの前で止まり、先頭の者が番号を確認して扉を開けると、皆次々と入場し、
マサヒコも後に続いた。
そこには
真っ黒で大きな《ゴキブリ》が一匹、長い長い触覚を不気味に揺らしながら立っていた。
部屋には何とも言えない生臭いようなトイレのような悪臭が充満し、血の気が引くのがわかった。
マサヒコは何が何だかわからなかった。
その見るからにおぞましいゴキブリは、
短い首を一度下に向けてから不意に頭を上げた。
(威嚇?)
不意にゴキブリが喋り出した。
「右手を下ろして下さい。
私が皆さんのチームリーダーの
《ゴキブリ女》です。」
低いダミ声だが、
辛うじて女の声にも思えた。
良く見ると両胸には尖った膨らみもある。
(女?
合格者に女はヨーコひとりだったと聞いていたが...?)
全体的に黒くて目立たなかったゴキブリのその顔を改めて見たマサヒコは驚愕した。
(......。)
赤い眼鏡こそ掛けていないが、その顔は紛れもないヨーコだった。
10年以上前から今の今まで只ひとり惚れ続けてきた初恋の女性ヨーコだ。
益々、何が何だかわからなくなった。
ゴキブリ、いやヨーコは皆に目出し帽を脱ぐよう命じてきた。
皆困惑していた。
無理もない、脱いだら鼻が剥き出しになって今より臭いがキツくなってしまう。
意を決してひとり目が脱いだのを見て、しかたなく全員が続いた。
やはり皆、血の気が引いた真っ青な顔色をしていた。
無理もない...このおぞましい経験は
我々が今まで受けてきたどんな過酷な訓練をも遥かに凌ぐレベルに違いない。
ヨーコはその後、ひとりひとり順番に、出来る限り丁寧な握手とハグをしていった。
ひとり終わる度に、部屋にはネチャッという心地良い音が響き渡った。
改造人間と戦闘員という上下関係の垣根を越えて、
これからこのチームは一心同体で家族の様にやっていこうというヨーコの優しさの意思表示だった。
中には感動で、嗚咽しながら涙する者も数名見受けられた。
マサヒコには特に気持ちを込めて行った。エコひいきは良くないが愛する人だからしょうがない。
他より長めのハグの離れ際、耳元で囁くようにマサヒコは
「黒光りが素敵だよ。」
と言ってくれた。
マサヒコが黒光りを誉めてくれた事は、この上なく嬉しかった。
ヨーコはこの日の自分の意思が強く皆に伝わったのを確信していく事になる。
その後の戦闘訓練は皆驚くほど身が入っていた。
休憩時間であっても目出し帽を外す者は誰ひとりいなかったのだから。
目出し帽を脱いだ戦闘員達は皆、
おぞましい恐怖や耐え難い悪臭と必死に戦っていた。
そんな中、ゴキブリ、いやヨーコは更に恐ろしい儀式をし始めた。
ひとりひとり順番に両手を下側二本の手で掴まれて体の自由を奪われた上、
上側の二本の手で引き寄せられ、ヌメヌメした体をくっつけて体液を体中に塗り付けてくるのだ。
ネチャネチャと不快な音が、そのマーキング行為の執行を待つ者達に、より強い恐怖を誘っていた。
涙目になりながらも、吐くのを必死に押さえ込もうとしている者もいた。
やがてマサヒコにも順番は廻ってきた。
昔と変わらぬ愛くるしい笑顔で見上げてきたヨーコの吐く息はとても臭かった。
厚手の戦闘用手袋を鋭い爪の付いた手に強い力でヌチャッと掴まれ、体をネチャネチャ擦り付けられた。
その間、太い堅い沢山の毛が蠢くように体に触れてくる。
マサヒコは何もかもがおぞまし過ぎて、何を言って良いかわからなかったが、
咄嗟に微かな声を何とか絞り出した。
「黒光りが素敵だよ。」
その後、
戦闘員達皆で上に掛け合った結果、
《戦闘中に鼻栓をしても良いが、それを改造人間に悟られないように。》
という事で落ち着いた。
数ヵ月に及ぶ長かった訓練がとうとう終了してしまった。
戦闘訓練の期間中マサヒコは、目出し帽を被ってばかりだったので、ヨーコは思っていたより楽しくなかった。
いつも黒光りは誉めてくれたが、あまり会話も出来なかった。
その夜、
無性にムラムラと会いたくなったヨーコはマサヒコを呼び出した。
戦闘員にとって上官である改造人間の命令は絶対なのである。
薄暗い誰もいなくなった訓練場の隅の方にマサヒコを連れていった。
マサヒコは既に予想と覚悟が出来ていた様で、
さして抵抗を見せなかった。
静かにマサヒコの体を押し倒し、腕と足で優しく彼の手足の自由を奪うと、余った二本の腕で服を脱がしていった。
結局、
久々に見たマサヒコの黒光りを
ヨーコは一晩中堪能した。
第12章《総統》
それから四日後の夜、
気が抜けていたヨーコにブリーフィングルームへ出頭するよう声が掛かった。
恐らく、
作戦の説明があり、実戦の命令が下る事だろう。
同期の中で何故自分が一番最初なのだろうか?
チーム一丸となって頑張った面が評価されたのだろうか?
考えながらブリーフィングルームに入ったヨーコは、驚いて直ぐに右手を高々と挙げた。
思わず触覚が大きく揺れてしまい格好悪かった。
丸いテーブルの正面奥に、
総統閣下が座していたのだ。
改造人間になってからでさえ、未だお会いした事はなかった方を前に
さしものヨーコも緊張した。
つばの長いキャップを深めに被り、顔を隠すためのフェイスマスクを付けている。
マスクの横と下には白髪混じりの髭がはみ出している。
写真や映像で見たよりもずっと、威厳や威圧感のようなものが強く感じられる。
その周りには、サユリを始めとした幹部達が座っていた。
「まあ、そんなに緊張せず掛けたまえ。」
「はっ総統閣下。」
カサカサ音をなるべく抑えて進み、
ゆっくり一番手前の席に座ると、
ヌチャッと大きな音がしてしまった。
「先ずは厳しい訓練に良く頑張って耐えてくれた事に感謝している
《ゴキブリ女》よ。」
「はっ。勿体ないお言葉、身に余る光栄にございます。」
「早速で悪いのだが、
君の作戦が決まった。
今からこの者達に説明させよう。」
言い終わった総統閣下は腕を組み、目を閉じてそのまま微動だにしなかった。
黙っていてもこの風格とは
さすが我が組織を束ねる総統閣下であられるとヨーコは感心した。
幹部達に説明された作戦の内容は素晴らしいものであった。
ある町の広場に幾つかの店を作る。
タダ同然で食べ放題の店、
ネオンで飾り立てたタダ同然で触り放題の如何わしい店、
その他にも何件か
タダ同然の店を並べて作るのだ。
入り口は分かれているが、
奥に進むとひとつの広い部屋になっており
そこには我が研究所で開発された超強力なトリモチ的な物が一面に敷き詰められている。
一歩でも踏み入れたら最後、
自力での脱出はまず不可能だ。
この世の中の
欲深く、下品で、お下劣な者達をごっそり捕獲し、
彼らに反省を促し、更正させる為である。
うまくすれば我が組織に入って貰えるかもしれない。
自慢ではないが、
我が組織は今までひとりも殺人などした事はないのだ。
我が組織が目指す
犯罪のない理想の世界を築く為、
悪い心を持つ者達を更正させる正義の活動なのだから。
コードネームは
《ジャイアント・ホイホイ》であった。
白熱した作戦会議が終了した事を受け
総統が静かに目を開け口を開いた。
「最後に何か言っておきたい事はないかね?」
ヨーコは迷ったが、思い切って尋ねた。
「恐れながら総統閣下、
女である私が何故同期の中で一番最初に指名されたのでしょうか?」
総統は少し笑みを浮かべながら
「我が組織は男女平等だ。
そして何より君が一番誰よりもやる気があったと、
担当者達が口を揃えて進言してきたからだ。」
(男女平等...?)
その瞬間ヨーコはハッと気付いた。
面接の時、女性蔑視の発言を訂正していた正面に座っていた男性...確かあの人も白髪混じりの髭だった。
(わからなかったとはいえ、あの時私は総統閣下に対して何と青臭い台詞を...。)
ヨーコは恥ずかしさが込み上げ、顔中耳まで真っ赤になるのがわかった。
...しかし、誰ひとりヨーコの顔色の変化に気付く者はいなかった。
顔は黒いのだから無理もない。
ヨーコはヌチャヌチャッと大きな音を立てながら起立した。
右手を高々と挙げて
「一番に選んで頂いた事をとても光栄に思います。
必ずや閣下の御期待に応えられるよう、
命を掛けて作戦に望みます!」
部屋全体に響き渡るような大きな声で宣誓した。
大きな声に驚いたのか皆一瞬固まったが、
直ぐ様、総統以外の全員が立ち上がり
一斉に右手を高々と挙げた。
一呼吸おいた後、総統も立ち上がりゆっくりと右手を高く挙げ
「我が組織史上最強の改造人間
《ゴキブリ女》よ!
お前の健闘を祈っておるぞ!」
それを契機に全員で声を合わせ
「我が組織に栄光あれ!」
を三度叫んだ後、
ヨーコは勢い良く深々と一礼すると
カサカサ音をたてながらその部屋を後にした。
ヨーコが去ったのを確認すると皆、安堵した様な顔で着席した。
総統はしばし顔を上に向けていたが、
フェイスマスクをゆっくり外すとフーッと大きな溜め息をついた。
「お疲れですね。総統。」
サユリが労うと、
彼は大きくただ頷きだけを返すと、
鼻栓を外しにかかった。
彼が疲れているのも無理はない。
この数ヵ月というもの、
「臭くて耐えられません。
何とかなりませんか?」
という類いの切迫した部下達からのクレームが後を絶たなかったからだ。
消臭剤の散布回数を増やし、
業者に全ダクトの清掃を依頼し、
大型で最新式の換気システムも導入した。
その他、思い付く限りのあらゆる対策を行って来たのだが、
一向にクレームは減らなかった。
忍耐強い戦闘員達にまで泣きつかれた。
この広い練馬の地下基地全体が四六時中臭っているのである。
「いくら臭いからとはいえ、
私はあの娘を一番に戦場に送り出してしまって良かったのだろうか?」
全員が一斉に彼の方を向いた。
「仕方ありませんよ、総統。」
誰かが呟くように言うと
全員が深く何度も頷いていた。
第13章《深い愛(1)》
部屋を出たヨーコはやる気に満ち溢れていた。
総統に一番期待されている事が何よりも誇らしかった。
係員の後をカサカサと付いていくと、
やがて面会室と書かれた部屋の前に案内された。
「総統閣下のご配慮で、
特別にお母様をお呼びしております。
是非ごゆっくり二人の時間をお過ごし下さい。」
ヨーコは不意の出来事に驚き触覚を震わせた。
作戦前に家族に会う事は本来、秘密保持の観点から禁じられているからだ。
(閣下は何と慈悲深いお方なのだろう。)
ブリーフィングルームへの出頭を命じられた時から、
母親ヒロコとは、もう会えないだろうと覚悟していたヨーコは深呼吸すると、
意を決してノックをしドアを開けた。
大きな風呂敷包みが置かれたテーブルの向こうには静かに座る母がいた。
ヨーコは
目頭が熱くなるのを必死で堪えた。
「お母さん。」
それしか言葉が出なかった。
久しぶりに見る母はどこか小さく見えた。
「ヨーちゃん、元気そうね。
立派な改造人間になれて良かった。
母さん心から嬉しいわ。」
ヨーコの目から
トロ~っとした粘り気を帯びた液体が自然と溢れ出た。
「そんなに泣いたら折角の素敵な黒光りが台無しよ。」
「お母さん...ありがとう...黒光りを誉めてくれて私...嬉しいわ。」
「ヨーちゃんの素敵なところは
決して黒光りだけじゃないのよ。
腕も増えたし、
外骨格は固くて強そうに節々てるし、
頭の触覚は長くてまるでムチのようにしなやかだし、
体毛なんて一本一本がまるで主張するかのように太くてびっしり生えていて、
背中も艶やかで妖艶なラインが女性的よ。
羽を広げたら優雅さも増して見えるでしょうね。」
ヨーコは恥ずかしそうに少し羽を広げて見せた。
「素敵ね。
でも...お母さん、やっぱり黒くても昔と変わらないヨーちゃんの美人さんの顔が一番好きかも。」
「出た。美人さん。」
二人は泣きながら笑い合った。
第14章《一念発起》
同じ日のまだお昼過ぎ頃の事である。
不意に居間の電話が鳴った。
部屋の掃除をしていたヒロコは掃除機のスイッチをオフにすると、急いで受話器を取った。
どこか懐かしさを感じたその声の主はヨシオであった。
...いや、
今は我が組織の総統閣下である。
「ヒロコさん、お久しぶりです。
お元気ですか?」
「お陰さまで何とかやっております。
総統閣下。」
「そんな呼び方辞めて下さい。
何なら昔のようにヨッちゃんヒロちゃんでも良いんですよ。」
「今はさすがに無理よ。
用件は娘の事かしら?」
「ええ。
ヨーコさんは若いのに大変頑張ってくれています。
素晴らしい娘さんですね。」
「当たり前です。
私の娘ですから。」
「実は、大変早急なのですが、娘さんには明日、我が組織の為の実戦行動をして貰う事になりました。」
ヒロコは一瞬目の前が暗くなった様に感じた。
何れこの日が来るとはわかっていたが、こんなに早くとは思いもしなかった。
「どうしてこんなに早く?」
ヨシオはヒロコの元彼であった。
ヒロコが16歳の頃、
同じ学年のヨシオから熱烈なアタックを何度も受ける内、
優しくて純粋なヨシオに徐々に惹かれていき、二人は交際をする事になった。
1年くらい経った頃の夏休み、
とあるファーストフード店でアルバイトを始めたヒロコはタカシと出会った。
タカシはバイトの先輩で、爽やかなルックスの彼は仕事も出来、回りの女子達の憧れの的存在でもあった。
バイト期間が終わる少し前、半ば強引に誘われてバイクの後ろに乗せられ夕日の綺麗な海まで走った。
夕焼けの残る海岸で告白され、その日初めて朝までタカシと過ごした。
一年交際していたヨシオとは手を握り合った事しかなかったヨーコにとって、
三つ年上のタカシは大人の魅力に溢れ、
何もかもが刺激的で頼り甲斐がある男だった。
夏休みが開けた校舎の屋上で、ヒロコは泣きながら謝り続け、ヨシオとの交際は終わった。
交際中、研究員に成りたいと言っていたヨシオがその後、幹部候補生試験を受けて合格した事は人伝てに聞いていた。
あの少し頼りなかったヨシオが、
まさかその先、
総統にまで登り詰めるとは...。
電話を終えたヒロコはしばらくその場に座り込んだまま
思いを巡らせる他なかった。
たったひとりの娘がゴキブリにされてしまった事、
自分のおぞましさにさえ気付けず無邪気に真っ直ぐに頑張っている事、
皆、臭くて臭くてたまらない事。
ヨシオはなるべく有りのままの事実を話してくれ、
泣きながら何度も謝っていた。
やっぱりヨシオは総統である前に
ヒロコの知るあの優しいヨシオなのだと良くわかった。
重い気持ちを引きずりながらスーパーで買い物をし、
ただひたすら無心にカレーを作った。
大きなタッパーにご飯とカレーを別々に詰めて風呂敷で包み終える頃には、
ヒロコの気持ちは定まっていた。
例えどんなに臭く、どんなにおぞましい姿であったとしても、
夢を叶えた娘の晴れ姿を精一杯誉めてあげよう。
世界中の誰よりも応援し、笑って送り出してあげよう。
夕方、我が組織からの迎えの白いブルーバードに乗り込んだヒロコは、再会したヨシオから鼻栓を渡されたが、
頑として受け取らなかった。
第15章《深い愛(2)》
母が風呂敷を開けると、大きなタッパーが現れた。
ヨーコが思った通りそれは母のカレーだった。
「やったー、
久しぶりにお母さんのカレーだ!」
ヨーコは嬉しさで壁や天井を這いずり回りたい衝動に駆られたが、やめた。
もう自分は大人の女性なのだから。
母が、スプーンを忘れたから何処かで借りられないか?と言ったが、
母を気遣いタッパーのまま長い爪ですくって食べた。
しかし、
一口食べた母のカレーはいつもと違い、
クソ不味い味であった...。
ほのかな苦み以外に味らしい味が感じられなかった。
手の止まったヨーコを見て
「急いで作ったから煮込みが足りなかったかしら...。」
(もはやカレーではない...私の味覚が完全に変わってしまったんだ...。)
「ううん。
いつもより美味しいからビックリしちゃっただけよ。」
ヨーコは覚悟を決め、
ガツガツと貪るように食べ始めた。
食べている間、
何故だか涙がトロトロ垂れ続けていた。
「ねえ、母さん。
私、今日生まれて初めて生で総統閣下を見ちゃったのよ。
私に健闘を祈るって言ってくれたの。」
「そう、それは凄いじゃない。
どんな感じの人だったの?」
「凄く風格があって~、頼り甲斐ありそうで素敵な人だったわ。」
「お父さんがもし生きてたらこんな感じに成ってたのかなあって少し思っちゃった。」
ヒロコは少し嬉しそうに
「そうね、あの人も年を重ねてたら素敵なおじさんになってたかもね。」
「でも、もし二人に告白されたら私はきっとお父さんの方を選ぶわ。」
「どうして?」
「だって私、お母さんの娘だから!」
理由はわからなかったが
ヒロコはしばらくヨーコの予想以上にケラケラと笑っていた。
結局、
母は最後まで一粒の涙も見せなかった。
「無事帰って来れたら、今度はたっぷり煮込んだカレーを作ってあげるから、
父さんの分までしっかり頑張って来なさい。」
笑顔でハッパをかけるように送り出してくれた。
(もう母のカレーを食べる事も、
そしてそれをおかわりする事も二度とないのだろうな...。)
第16章《作戦決行》
月曜日の朝から、
いよいよ《ジャイアント・ホイホイ》作戦が開始された。
ほぼ全ての店が、
連日それなりに繁盛していた。
ヨーコは店の奥のトリモチエリアで、
捕獲されて一日ほど経過し弱ってきた者達をトリモチから剥がし、裏手に停めたマイクロバスに手際よく乗せていった。
定員に達すると我が組織へと運ばれていった。
ヨーコの姿を見た者は皆、恐怖の表情をしたが、
その分、諦めたかの様に良く指示に従ったので、これといって暴力を使う必要などもなかった。
この調子で毎日、これだけ多くの欲深な人達を改心できれば、我が組織の理想にかなり近づけるに違いない。マサヒコ達戦闘員も一丸となってテキパキと役割をこなしてくれている。
全てが順調に進んでいた。
奴らが来るまでは...。
第17章《戦闘》
土曜の夕方5時15分頃であった。
突然奴らはやって来た。
それぞれ色違いの戦闘服を着た五人組が、
明らかに違法改造とわかるバイクに跨がり、
「ボンボロボンボンボン、ボンボロボンボンボンボン」と
大きな声で歌いながらやって来たのだ。
応対しようとしたヨーコの周りに、
素早く戦闘員達が終結した。
訓練通りである。
ヨーコはマサヒコが自分の直ぐ左隣にいる事を確認した。
(何があってもマサヒコは私が守る!)
五人はバイクから降りると横一列に整列し、それぞれの服の色である赤、青、黄、桃、緑の順番に謎のポーズを決めた。
どうやら赤い服の男がリーダーで、
桃色の服は同じ女性の様だ。
赤い服が叫んだ。
「お前達だな?
連続行方不明事件の犯人は?」
(人聞きが悪い!
更生させる為、一時的に送迎しているだけなのに。)
「お前達、我々の作戦の邪魔をする気か?
やっておしまいー!」ヨーコは訓練通り、恥ずかしさを抑えて大きな声で号令を掛ける事が出来た。
厳しい訓練を耐え抜いてきた屈強で勇敢な戦闘員達が一斉に挑み掛かっていく。
たちまち
「キーッ」
「キーッ」
という伝統の発声が辺りにコダマする。
その声を縫うように隣にいたマサヒコが
「ヨーコは俺が守るから。」
と言ってから走り出した。
少し遅れてヨーコはマサヒコの後を追った。
マサヒコは正面にいた黄色の服の男を目指して走る。
(あの黄色、ちゃんと訓練してるのか?)
黄色の男は五人の中でひとりだけ腹が出ており、手足も短くずんぐりしていた。
(奴なら楽勝だ。やったねマサヒコ!)
黄色と対峙したマサヒコは先制の右ストレートを放つ。
だがそれは空を切った。
黄色が体制を屈めたのだ。
かわした黄色は短い手でボディにパンチを繰り出しす。
命中した。
マサヒコの体が折れるのを黄色は見逃さなかった。
短い右足でマサヒコのみぞおちの辺りを蹴りあげた。
次の瞬間、マサヒコの体は黄色の背丈を越える高さにまでフワッと舞い上がり、空中で後ろに大きく1回転してから、鈍い音と共に地面に叩きつけられた。
背中から落ちた時、頭が岩に当たるのが見えた。
赤い液体が辺りに勢い良く飛び散り、
仰向けのマサヒコは仰け反るように大きく二回痙攣した後、ピクリとも動かなくなった。
ほんの数秒の出来事である。
ヨーコには目の前で何が起こったのか良く理解できなかった。
黄色の男は短い手足を使って得意気にポーズを決めた後、
自分の足に跳ねたマサヒコの血を確認しながら「ちっ」と大きな舌打ちをした。
「後はお前だけだ。
醜いゴキブリ女め!」
そう叫ぶ赤い服の男の声に
ふと我に返ったヨーコは辺りの静寂さに気付いた。
辺りを見回すと戦闘員は皆、地面に横たわっていた。
中にはまだ息があるのか、口から血を吹き出しながら小刻みな痙攣を続けている者もいた。
突然、ヨーコは体の奥底からとてつもない怒りが込み上げてくるのを感じた。
「おのれよくもー!」
無意識に叫んでいたヨーコは、羽を大きく広げると高く舞い上がった。
空中で身を翻し、列の向かって右側に回り込むと緑の服の男目掛けて急降下する。
怯んだ緑を狙い、胸を揉み込むと
《おぞまし液》が緑の胸に見事に命中した。
「うーっ」と呻き倒れる緑を尻目に左に旋回し、隣の桃色女を狙う。
びびった桃色女は自ら尻餅をついた為、
《おぞまし液》は虚しく空中に奇跡を描き外れた。
(怯みやがって、
だから女は駄目なんだ。)
躊躇せず飛び続け、次の黄、青、赤には何とか命中させた。
列前を飛び抜けたヨーコは旋回して再び正面に着地した。
(あっ必殺技の名前叫ぶの忘れた...。)
その時、桃色女は肩から斜めに下げていた小さなバッグから何かを取り出し、奴らの仲間に投げ渡した。
「特殊マスクよ!皆着けて!」
すると、
受け取り装着した者から順に、元気を取り戻していき、ポーズを決めた。
緑の服が
「さすがピンク、気が利くぜ!」
青服の男が冷静に
「見ろ、ゴキブリ女が弱っているぞ!」
先程着地した頃から、
ヨーコはひどい目眩と頭痛に襲われていたのだ。
「もし《おぞまし液》を一度に大量に使用した場合、命にかかわる恐れがあります。」
研究所の担当者が言っていた言葉をヨーコは今ごろ思い出した。
「良くわからないけど...今よレッド!
ファイナル・ファイブ・アタック!」
(くそー、良く気が利く女め。)
「良し、いくぞ!」レッドの掛け声を受け、何処から取り出したのか桃色女がサッカーボール大の銀色の玉を空中に蹴り上げた。
銀色の玉は青、黄、緑と空中でパスされていき、緑が更に一段と高く蹴り上げた。
赤い服の男がその玉に向かい、大きく空へとジャンプした。
目眩でぶれた映像だったが、ヨーコには何処かで見た光景であった。
(あっスクラップブックと同じ。)
「ファイナル・ファイブ・アタ~ック!」
と叫んだ赤服は空中で1回転すると、銀の玉をヨーコ目掛けて蹴りつけた。
ヨーコは玉が何重にも見えてしまい、
避けられなかった。
外骨格だが少し柔らか目の腹に
強い衝撃を受け吹き飛ばされた。
ヨーコは腹と背中の間から、何か白い物がムニムニと結構大量に溢れ出ているのがわかった。
それでもヨーコは地面を這った。
ゆっくりジタバタとではあったが、
確実にマサヒコの元に向かって。
カサカサ音はもはや弱々しかった。
白いムニムニを口からも吐きつつ
ようやくマサヒコの元に辿り着いた。
目出し帽が破れており、すっかり血の気が無いマサヒコの顔を半分ほど見る事は出来た。
マサヒコは何故か鼻栓をしていた。
「マサヒコ、お互い守れなかったね。」
頭の中に色々な映像が次々と浮かんだ。
幼い頃の優しかった父と母の笑顔、
お葬式で泣いていた母の顔、
養成所でのマサヒコとの様々な出来事、
台所の流しの三角バケツ、
マサヒコと一緒に行った小金井公園の見事な桜、
空腹に耐えられず食べてしまった茶羽の彼女、
マサヒコと一緒に聞いたストリートライブ、
仲間達との楽しい訓練
そして送り出してくれた母の最高の笑顔。
途中、
幾つか覚えの無い映像も混ざっていた。
「お母さん...マサヒコ...ごめんね。
...今まで本当にありがとう。」
ヨーコは最後の力を振り絞り、奥歯にセットされたスイッチを強く噛んだ。
「総統閣下万歳!我が組織に栄光あれ!」
凄まじい爆音と共に
大きな黒光りの若いゴキブリと
背の高い若き戦闘員の二つの体は
同時に粉々に砕けて飛び散った。
「さあ基地に帰ってカレーでも食うか。」
黄色い服が明るく言った。
「やだイエローったら、朝もお昼も食べたのに、夜もカレー食べるの?」「おいらカレーが好きだから。
カレー好きに悪い奴はいないっていうだろ?」
「それは犬好きだろ。」
青服が冷静に突っ込むと、五人は声を揃えてしばし高らかに笑い合った後、
一目で違法改造とわかるバイクにそれぞれ跨がると
「ボンボロボンボンボン ボンボロボンボンボン」と
歌いながら何処かに走り去っていった。
広場の時計は
キッカリ5時半を指していた。
第18章《倉庫》
《とある広場での謎の爆発事故》から二週間後、
サユリは漸く細胞核分離技術を完成させた。
改造人間を元の人間に戻す事も可能となった。
「総統閣下、お体の具合は如何ですか?」
ヨシオはあの日以来、過労と精神的ショックから体調を崩して入院生活が続いている。
サユリの報告に静かに耳を傾けるその顔は、何処か虚ろな表情で覇気はなかった。
(遅すぎた朗報では意味がないか...。)
サユリは部屋を後にして食堂に向かった。
いつものうどんを啜っていたら
いつもの噂好きの清掃のおばさんが話しかけてきた。
「最近、食堂の横の倉庫から、夜な夜な変な音が聞こえてくるらしいのよ。
何か大きな虫が何匹もうごめいているんじゃないかって。」
いつもの様に眉唾な話だと思いつつ、
「どんな音なの?」
と適当な言葉を返した。
「カサカサ、カサカサって...でもゴキブリにしては音が大きすぎるし、
中には人間の赤ん坊の泣き声を聞いたって人もいるみたいなのよ。」
その話を聞き終える前にサユリは立ち上がり、食べかけのうどんがひっくり返った事も気付かず夢中で駆け出していた。
「あら、うどんが...」
おばさんの大きな声を背にサユリは
(総統、今度こそ朗報かもしれません。)




