神の晩年
尾崎行雄略歴
安政 五年 相模国又野村に生まれる
明治 七年 慶應義塾入学
明治 十二年 新潟新聞主筆
明治 十五年 報知新聞入社
明治二十一年 欧米視察
明治二十三年 第一回衆議院議員総選挙に当選
明治三十一年 文部大臣
大正 二年 憲政擁護運動の先頭に立つ
大正 三年 司法大臣
昭和 十二年 国会にて軍部批判の演説
昭和 十七年 不敬罪にて起訴される
―*―
戦艦ミズーリの艦上で降伏文書への調印が行なわれたのは昭和二十年九月二日です。その二日後、第八十八議会が召集されました。終戦後、初の帝国議会です。
空襲を避けるために黒く塗られた帝国議会議事堂の中央塔が、真っ平らな焼け野原に黒々とそびえています。食糧不足のため、帝国議会議事堂の周囲は可能な限り耕されて畑になっています。その畑の中を帝国議会議員たちが登庁していきます。
その議員の群れの中に、かつて「憲政の神」と称された尾崎行雄がいました。とびきり小柄です。すでに八十六才と高齢ながらピンと背筋を伸ばして歩いていきます。背広にネクタイ、頭に山高帽を載せ、手に杖を握り、ゆっくりと歩きます。鼻の下から顎にかけて白い髭が伸びています。この髭は、戦時中に不敬罪で起訴された時から伸ばし続けているものでした。
その尾崎に一歩遅れて付き添っているのは家政婦の服部文子でした。和服の上に予防衣を着け、黒い鞄を抱えています。生まれながらの虚弱児だった尾崎行雄は、健康を管理してくれる援助者を常に必要としました。先妻の繁子、後妻の英子、そして今は服部文子に頼っているのです。服部はもともと看護婦でした。
さかのぼること二十年、中耳炎を悪化させた尾崎行雄は慶応病院で手術を受け、一ヶ月ほど入院しました。このとき尾崎を担当した看護婦が服部文子でした。服部の甲斐甲斐しい働きぶりを気に入った尾崎英子は、服部を尾崎家の家政婦に招きました。それというのも英子自身の体内に腫瘍が発見されており、夫の面倒を見ることが困難になっていたからです。英子は昭和七年に他界しました。以来、服部文子は尾崎行雄の健康を最大の関心事にして暮らしています。文子は、結婚もせず、一所懸命かつ一意専心に尾崎の健康をひたすら守ってきました。その文子を後ろに感じつつ尾崎は帝国議会議事堂へと歩いていきます。
議事堂の前では、登庁していく議員たちを新聞記者とカメラマンが鵜の目鷹の目で物色していました。紙面を埋めるネタを捜しているのです。そこへ「憲政の神」がやって来ました。
「それ、来た」
とばかりに記者たちは尾崎行雄の周囲に殺到しました。戦時中には尾崎を敬遠し、近づきもしなかった記者たちが、今は尾崎を凱旋将軍のように迎えています。
「尾崎先生、敗戦についてのご見解を聞かせて下さい」
「占領軍の占領政策はどのようなものになるとお考えですか」
「戦争責任についてのご意見はありませんか」
記者たちはしきりに質問を投げかけますが、尾崎は相手にしません。耳が遠くて聞こえないのも一因でしたが、記者たちの軽佻浮薄さが尾崎には気に食わず、無視したのです。
尾崎行雄は、その長い政治生活の間、何度も新聞によって持ち上げられたり、蹴落とされたりしてきました。尾崎が弱冠四十才にして文部大臣に就任すると、新聞は「政界の麒麟児」とおだてました。しかし、共和発言が舌禍事件として問題化すると「共和主義者」だとこき下ろしました。尾崎が東京市長になって国政を離れると「愕堂、死せり」と書き、国政に復帰すると「愕堂、蘇生せり」と書きました。ちなみに愕堂とは尾崎の雅号です。憲政擁護運動が盛り上がると「憲政擁護の神」と称賛しましたが、司法大臣に就任すると「愕堂すでに老いたり」とけなしました。そして、尾崎が普通選挙運動に取り組むようになると「愕堂復活」とくるのです。死んだり生きたり、老いたり復活したりと変転きわまりないのが新聞記事の評価というものです。
尾崎は、弱冠二十歳で新潟新聞主筆となり、その後、報知新聞や朝野新聞の論説記者を勤めたことがあります。だから新聞業界の内部事情は熟知しています。ですが、それでも辟易するのです。
「何か一言お願いします!」
記者のひとりが大声をあげました。知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいた尾崎でしたが、迂闊にもこの声に反応してしまいました。何か言わねばなりません。
「この敗戦を招いた罪の大半は、君たちの負うべきものではないか」
尾崎は憎まれ口を叩いてやりました。戦時中、敵愾心を煽り、戦果を誇大に報道し、国民を戦争へと煽っていた新聞が、今では平和だの民主主義だのと書き立てています。その無節操な軽薄さを糾弾する一言です。しかし、新聞記者たちは無邪気に喜びました。尾崎行雄のコメントを引き出せたからです。「しめた!」と記者たちは散っていきます。尾崎は文子に声をかけました。
「蛙の面に小便ですね」
帝国議会議事堂正面の階段を、尾崎は文子の手を借りながら一段ずつ登りました。議事堂の内外では議員たちが盛んに声を掛け合い、挨拶を交わし合っています。国家が敗戦したというのに笑顔が多いのは妙でした。衆議院議員四百六十六人中、三百八十一人は翼賛会の推薦議員です。尾崎のように大政翼賛会に反対し、非推薦で当選した議員は八十五名に過ぎません。戦時中、ただやみくもに政府に協賛してばかりいた翼賛議員たちは、悪びれた風もなく笑顔で議事堂内を歩き回っています。敗戦も占領もどこ吹く風といった様子です。尾崎は不愉快です。知り合いでもないのに尾崎に笑顔で挨拶してくる図々しい者もいます。その調子の良さは、それでこそ政治家だとも言えるのですが、尾崎の理想とする政治家像とは違います。
この日、衆議院は午後二時一分に散会となりました。帰路につく衆議院議員たちの群れを見ながら、尾崎は文子に話します。
「服部さん、ご覧なさい。彼らが日本を滅ぼしたのです。日本が今後どのような進路をとるにせよ、敗戦直後のこの時期に朝野文武の責任者が反省し、贖罪の態度を明らかにせねばならない。衆議院議員とて無責任ではない。軍閥の非立憲的行為を防止できなかったばかりでなく、戦時中にはすっかり軍閥政権の協賛機関に成り下がっていたのですから」
「はい」
健康上の意見や忠告ならば遠慮しない文子でしたが、政治向きのことは話しません。それが節度だと思っています。もし文子が政治論をぶったとしても、尾崎は黙って聞いたでしょう。なにしろ尾崎は、はやくも明治後期には婦人参政権について考え始めていた男です。女性の政治参加には肯定的です。
第八十八議会はわずか二日で終わります。占領軍最高司令官マッカーサーは既に東京入りしていましたが、占領軍から帝国議会に対する介入はまだありませんでした。だから第八十八議会は、日本の主権下で開催された最後の帝国議会となりました。審議された項目は次のとおりです。
・皇軍将兵ならびに国民勤労戦士に対する感謝敬弔に関する決議案
・承詔必謹決議案
・戦災者救済に関する質問
・大東亜戦争を不利なる終結に導きたる原因ならびにその責任の所在を明白にするため政府の執るべき措置に関する質問
そして、内閣総理大臣東久邇宮稔彦王が演説し、一億総懺悔を訴えたのです。
「至尊の聖明を以てさえも、なお今日の悲局を招来し、かくも深く宸襟を悩まし奉りましたことは、臣下としてまことに申し訳のないことでありまして、民草の上をこれほどまでに御軫念あらせらるる大御心に対し、我々国民は御仁慈の程を深く肝に銘じて自粛自省しなければならないと思います。敗戦の因って来たるところはもとより一にして止まりませぬ。前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民ことごとく静かに反省するところがなければなりませぬ。我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相たすけ相携えて各々その本分に最善を尽くし、来たるべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります」
後世、誤解されているのですが、一億総懺悔は天皇陛下に対する懺悔であり、決してマッカーサー将軍に対して懺悔をしたわけではありません。
この一億総懺悔演説に尾崎は賛成でした。ただ不満もありました。「反省が足らぬ」と思ったのです。その憤懣を尾崎は決議案に託して第八十九議会に提出します。「世界連邦建設に関する決議案」です。その決議案は次のように訴えます。
「建国以来未曽有の大屈辱を招致したる吾人昭和の住民は、いかなる苦難を忍んでもこれを洗雪し、以て祖宗に謝罪せざるべからず。その方法の一として本員は世界連邦の建設を提唱し、その実行を促進せんことを切望し、ここにこれを決議す」
屈辱を雪ぐため日本人は世界連邦建設という責務を引き受けよ、というのです。さらに同決議案は、酒と煙草を禁止して反省悔悟の実をあげ、さらには漢字の使用を禁じて屈辱を記念せよとまで主張しています。なんとも壮大かつ自罰的な決議案です。敗戦の衝撃が尾崎を気狂いにしていたのかもしれません。愛国心の強き故でした。この突飛な内容の決議案は三十名の賛成者を集めたものの、未決のまま廃案となりました。これに満足できぬ尾崎は、さらに意見書を提出し、全衆議院議員の辞任と、今後四年間の立候補自粛を提案しました。帝国議会衆議院の敗戦責任を明らかにするためです。しかし、これも実現しませんでした。
占領軍による公職追放が実施されると、大政翼賛会の元幹部らが政界を去りました。尾崎にとってはこれもまた屈辱でした。
わが願い 叶いはすれど外つ国の 力によるぞ 憾みなりける
―*―
昭和二十一年四月十日、敗戦後はじめての衆議院議員総選挙が行われました。前年の選挙法改正により、この選挙は日本初の男女普通選挙となりました。選挙の結果、自由党、社会党、共産党、進歩党などの新政党が生まれ、議員の顔ぶれも新しくなりました。しかし、その顔ぶれもGHQの公職追放によって大幅に変えられてしまい、国民の民意はないがしろにされました。
この選挙に、尾崎行雄は立候補しないつもりでした。第八十九議会で全議員の辞職と四年間の立候補自粛を提案していたからです。その手前、自分が立候補するわけにはいかないと考えたのです。また、尾崎の身体は老い衰えています。耳が遠いため議論ができないし、目も見えにくくなっています。
(そろそろ潮時である)
尾崎本人はそう思うのですが、三重県の選挙区の支援者たちが許してくれませんでした。支援団体の咢堂会は、すでに尾崎行雄を立候補させていたのです。強固な支援団体があったればこそ尾崎は後顧の憂いなく政治活動に集中することができました。支援団体は実に有り難いものです。しかし、辞めたい時には辞めさせてくれないのです。投票の結果、尾崎はトップ当選しました。結局、尾崎は後援者に説得され、議員を続けることになりました。
第九十議会の開会に先立ち、議院成立のための集会が開かれました。昭和二十一年五月十六日、尾崎が登壇しました。戦時中には言論活動を封じられていた尾崎にとって、ほぼ十年ぶりの議場発言です。
「初期議会以来、ここに列席しておりますけれども、立憲政体の運用はほとんど跡形のないまでに壊してしまいました。その極点が政府指名の候補者に全国大多数の選挙人が投票を致すという翼賛選挙でありまして、しかして遂に無条件降服というところまで漕ぎ着けたのであります。誰が考えてもこれほど悲惨なことはございませぬが、ここに陥った原因の重大なるものは、立憲政治の根本に背いて全国人民が間違った働きをしたということに帰着するのであります。敗戦後、軍部官僚のみがとがめられております。彼らはむろん悪い。非常に悪い。しかしながらここに列席した我々の同僚代議士は、ほとんど全会一致で軍部政権のあと押しを致したのであります。然らば軍部官僚が悪いだけよりか、代議士はなお悪かったと言わなければならぬ。しかし、その代議士は全国人民が選んだのでありまするから、全国人民もまた亡国の手伝いを致したという事実は、弁解の余地がない。ここにおいて上下挙って懺悔致して、これまでの間違ったる働きをば漸次直さなければなりませぬ」
安政五年生まれの尾崎行雄の個人史はそのまま日本憲政史です。なぜ日本が今日の悲境に陥ったのか、それを尾崎は憲政史からひもときます。そして、長年の悪習慣が議院運営にこびりついているから、敗戦のこの機会を利用して、悪弊のすべてを根本から変えるべきだと主張しました。具体的には、議長選挙の方法の改善、議会における発言権を議員に限定すること、全院委員会の活用などです。
尾崎の意見は、意見としては立派なものでしたが、開会を四日後にひかえ、今さら根本的に議院運営を変える時間的余裕はありませんでした。結局、尾崎のいう悪習慣はそのまま戦後の議会に引き継がれてしまいました。
第九十議会の最重要案件は憲法改正です。衆議院には帝国憲法改正案委員会と帝国憲法改正案委員小委員会が設置され、新憲法案が審議されました。委員会では二十一日間、小委員会では十三日間の議論が行われ、八月二十一日までに新憲法案が固まりました。
昭和二十一年八月二十四日、本会議において尾崎は質疑を通告し、登壇しました。
「まことに良い憲法の修正になりましたについては、私は満腔の賛成を表するのでございます。この細目については、無論、文章の上において、あるいは字句の上において、改善すべき点は幾らもございましょうが、左樣な細義を論ずべき今日ではない故に、私は一切意見を述べずして、全部賛意を表します」
改善すべき点がいくらもあると言いながら、新憲法案に賛成すると尾崎は言います。
「良い憲法さえつくれば国が良くなるなどという軽率な考えをもって、これに御賛成になりますると、非常な間違いである。憲法で国が救われるならば、世界に滅亡する国はありませぬ。良い憲法をつくることはまことに容易なことである。しかし、これを行うことは非常に難しい」
尾崎は新憲法条文の細事にこだわらず、憲法を運用する根本思想について述べ始めます。尾崎の考えでは、大日本帝国憲法は決して悪い憲法ではありません。しかし、帝国憲法は封建思想によって運用されてしまったのです。藩閥政府は、憲法が認めている人権や自由を法律によって奪い、帝国議会もその先棒を担いでしまいました。この生々しい日本憲政史の現実をその目で見てきた尾崎は、どれほど立派な憲法を戴こうとも、その運用が悪ければ意味がないと断言します。
「元来、民主主義となる以上は、国家の政治の主体が議会になければならぬ。行政府はその補助機関とも言うべき位置に立つのであります。今度の憲法によって総理大臣は国会の指名によってその人を定めることになる。即ち総理大臣の選定までも立法府に移るのであります。従来は行政府が国の政治の主体であった。立法府はその補助機関、極めて柔弱微力なる補助機関のごとく扱われて、また全国人民も大体それに満足しておったようでありまするが、今日この憲法が制定せらるる以上は、それではいけませぬ。立法府が国家政治の主体であって、行政府はその補助機関とならなければならぬ。これを実行するに当たっては先ず議場から改造しなければならぬ。この議場の造り方は何でありますか。大臣席及び政府委員席のごときは一般高い所に設けておる。これは議員を全く軽視した、補助機関として造った構造である。かくのごとき不都合なる議場において、本当の議事が運べるはずはないのであります。故に第一に、真に民主主義を行なおうというお考えがあるならば、第一にこの議場の改造をせねばならぬ。大臣席あるいは政府委員席などは直ちに廃止して、そこは議員席としなければならぬはずのものである、議場では、議員以外には何人も発言権を与うべきはずのものではないのでありまするが、わが国において議員の発言権は極度に制限せられておる。これに反して大臣及び政府委員のごとき補助機関たるべきものは、何時でも発言することを許されておる。かくのごとく主客転倒、己れの位置すらも知らない議会の構造において、真の民主主義を行おうなどということは、非常な心得違いでありまする」
憲法を改正するなら議場も改造せよと尾崎は言うのです。次いで、尾崎は往事を回顧して日本の議会政治や政党政治の問題を列挙し、国民の心根に染み着いている官尊民卑の弊習を正すべきことを述べ、日本の政党が徒党にしか過ぎぬという事実を訴えました。占領下という古今未曾有の国難に際し、議会のあるべき姿、憲政の拠って立つべき思想を大いに弁じました。
ですが、ただそれだけのことでした。どんな名論卓説も議決を動かすことはできません。議会は数の力でしか動かないのです。道理で議会は動かないのです。議員は党議拘束に支配されており、正理正論に一票を投ずる自由がありません。旧態依然たる議会です。
新憲法は昭和二十一年十一月三日に発布され、翌年五月三日より施行されました。新憲法の下、帝国議会は国会と名を改め、五月二十日に第一回国会が始まりました。この記念すべき初の国会に尾崎行雄は「平和会議に関する決議案」を提出しました。平和会議とは、日本と連合国との講和会議のことです。その内容はいかにも尾崎らしい革新的内容です。以下、全文を掲げます。
平和会議は、従来、常に兵力の強弱と戦争の勝敗を根拠として進行したが、かくてはとうてい第三の世界戦争を免れ得ざるべし。しかして破壊殺傷器具方法は、今後際限なく進歩すべきが故、文化国の人類はほとんど全滅するであろう。よって本院は、この災禍を予防せんがため、今回の平和会議においては、従来の慣例を根本的に革新し、強弱勝敗を基礎とせず、人類相当の理性を基礎として、終始せしめんことを切望し、ここに之を決議す。
イ、台湾、琉球、朝鮮、満洲等は、しばらく之を国際連合の管理下に置き、他日、民情安定するを待ち、人民投票によって、その独立または所属を決定すること
ロ、賠償は、公正に彼我の損害を計算し、その差額を弁償すること
ハ、戦勝国もし理数を無視して賠償を要求せば、我は道理と計数をもって之に反対し、その取り立てに協力せざること
実に堂々たる決議案です。敗戦国の議会が戦勝国に注文を付けようというのです。尾崎行雄という政治家の真骨頂は、こうした高々とした理想の表明にあったと言ってよいでしょう。
所要の賛同者を得た尾崎の決議案は、当然、衆議院の議題になるはずでした。ところが衆議院は尾崎の決議案を上程しませんでした。尾崎は衆議院議長の松岡駒吉を訪ね、抗議します。
「なぜにかかる取り扱いをするのか」
「総司令部の意をさぐった結果、上程を見合わせることを忠告されたからです」
「はあ?」
尾崎は、よく聞こえないという仕種をしました。松岡議長はやむをえず尾崎の耳元で大声を出します。
「総司令部からの忠告です」
「忠告ならば、これに従うか否かは当方の自由であるべきだ。さらに総司令部の意向を確かめられたい」
理屈としては尾崎の言うとおりです。忠告ならば拒否もあり得ます。松岡議長は正直でした。尾崎の耳元で怒鳴ります。
「上程してはならぬ、との命令である」
占領軍は、国会に上程される総ての法案や条約案や決議案を事前に検閲していました。尾崎の平和会議決議案は、占領政策に対する日本国議会の介入であり、これを占領軍は一蹴したのです。
(尾崎は反駁してくるに違いない)
そう思って松岡議長は身構えました。占領軍の命令に「憲政の神」が噛み付かないはずがない。が、意外にも尾崎は沈黙し、「そうですか」と言って引き下がりました。あきらめたのです。占領下の日本人を支配した敗北感は、尾崎行雄をも弱気にしていました。
身体矮小にして病弱でしかも非力な尾崎行雄は、しかしながら、決して弱い男ではありません。なによりも「尚武の気性」を大切にし、どんな横暴や暴力からも目を逸らさずに生きてきました。若い頃、自由党の壮士内藤魯一と睨み合ったこともあります。藩閥にも軍部にも屈従することなく、言論で闘ってきました。しかし、その尾崎も占領軍に対しては噛み付こうとしませんでした。かなわぬまでも占領軍総司令部に乗り込み、イヤミのひとつも言ってやろうとは考えなかったのです。
尾崎の演説記録や著作には占領軍に対する批判や非難がほとんどなく、むしろ連合国を理想化しすぎる甘さすらあります。絶対的な敗北感と連合国への幻想、このふたつこそ戦後日本の出発点だったといえましょう。
―*―
九十才を迎えて雅号を卆翁と改めた尾崎行雄は、それでもなお政治活動を続けました。尾崎行雄の謦咳に接したいという声は全国各地から届いており、事情の許す限り尾崎は遊説に出かけていきます。旅行中、しばしば高熱を発して寝込んだりしました。若い頃からそうです。そうなると分かっているのですが、それでも行くのです。そんな尾崎を支えたのは服部文子でした。
その夏、北関東の町々への遊説を尾崎は引受けました。遊説地の人々は大いに喜びました。
「憲政の神様が来てくれる」
ともかく粗相の無いよう最大限のおもてなしをしたい、万全の準備を整えようと地元の関係者は張り切りました。旅館やタクシーの手配、会場や控え室の準備、宣伝、入場整理、警備の問題、仕事は山ほどあります。
「尾崎先生のお食事には何がよいか?」
これが問題になりました。尾崎先生のお好きな食べ物はいったい何なのか。遊説地の関係者は相互に連絡を取り合い、情報集めに躍起となりました。そのうち、どこからどう伝わったのか、「尾崎先生は鰻が好きだ」という情報が流れました。
「鰻の旨い店ならわが町にもあるぞ」
遊説地の人々は安心しました。結果、尾崎行雄一行は連日連夜の鰻責めに遭う羽目となりました。ですが、もともと健啖家の尾崎は鰻も好物です。喜んで食べ続けました。あまりに鰻が続くので服部文子はさすがに気になりました。
「先生、あまり同じものばかり食べておいでですと栄養が偏ります」
「服部さん、まあ、大丈夫だよ。それにせっかくの好意を無にはできんよ」
元気に話す尾崎の様子を観察した文子は、ひとまず心配を引っ込めました。遊説旅行は順調です。衰えたとはいえ、いったん演壇に立ってしまえば、半世紀以上の長きにわたって磨き上げてきた尾崎の演説術は冴えました。尾崎は演説を術とも技巧とも考えていません。
「演説は先ず精神を本として考えていかなければならない」
晩年の尾崎の演説論です。巧妙な言い回しとか、気の効いた比喩とか、派手な身振りとか、そういった技巧は必要ないと尾崎は説きます。
「演説をする人に注意したいことは、どうしても精神を確かにしなければならない。それには自分の考えが正しいという信念と、正しいことのためには危険を冒しても進むという心を持たなければならない。そういう信念があれば、それが言葉に表われ、自然に人を動かす力が生ずるのである」
戦後になって良くなったことのひとつは、巡査の監視がなくなったことです。戦前戦中の演説会では、巡査が必ず監視しており、少しでも政府批判をすれば「弁士、注意」ときたものです。そして、注意が重なると「演説中止」となりました。それが今はないのです。
この日の遊説地は桐生です。会場は満員です。演壇に立った尾崎は万雷の拍手に迎えられました。
「今日の日本は、まさに滅亡状態に陥って、外国の軍隊の支配の下に住んでおるという世の中でありまする。建国以来、未曾有のこの状態を招き寄せてしまった原因は、ひとつやふたつではありません。極東軍事裁判の判決が下されまして、何もかも軍人が悪かった、軍部が悪かったということになっております。もちろん悪い。非常に悪い。軍部官僚の責任は明らかでありますけれども、しかしながら、大政翼賛会というものができまして、衆議院は全会一致で軍部の後押しをしておりましたのも、また動かしがたい事実である。しからば軍部官僚よりも、むしろ代議士の方が、なおいっそう悪かったと言わなければならぬ。そして、その代議士は全国人民が選んだものでありまするから、全国人民もまた亡国の手伝いを致したことになるのであって、この事実には弁解の余地がない。この非常の場合において上下をあげて懺悔して、これまでの間違いをことごとく直さなければならぬ。
顧みますれば、私という人間は、初議会以来、終始、衆議院の議席を持ちながら、憲政の樹立にも失敗し、真の政党をつくることにも失敗し、国民の政治教育にも失敗し、軍閥の政治横領を抑えることにも失敗したのである。ヒトラーなぞと組んで米英と戦えば必敗亡国の外なきことを予言もし、警告いたしたにもかかわらず、遂に過般の戦争を阻止することができなかった。今ここにこうして立っておる私は、敗残の政治浪人に過ぎない。憲政のために半世紀以上を政界に生きてきた私にとって、最大の痛恨事は、国家の危難に際し、かのルーズベルト大統領やチャーチル首相のごとき大政治家を、わが国の政党が産み出せなかったことである。ルーズベルトもチャーチルも政党政治家であることを考えますると、ひるがえって日本の政党は何をやっておったかと言わねばならぬ。日本の政党政治家はどこにおって、何をしておったのか。今次の敗戦は軍部の敗北であることは確かであるが、それ以上に、わが憲政の敗北であったと言わねばならぬのである。英米の政治指導者を向こうに回して一歩も引かず、国内にあっては英雄豪傑どもを、つまり東條英機や山本五十六や石原完爾や松岡洋右などの者たちを顎先で酷使しうるような大政治家を、日本の政党はひとりとして産み出さなかったということは、この私が何よりも情けなく、申し訳なく、懺悔いたさねばならぬことである。政党がそのような体たらくであったからこそ、そのゆえに政治の実権は軍部官僚と革新官僚に握られてしまった。いったい何が悪かったのかという問題を振り返り、大いに反省せなければならない。
そもそも私ども日本人に憲法と議会を与えて下さったのは畏れ多くも明治大帝であります。明治の御代、専制をほしいままにしておったところの藩閥政治家は、憲法制定にも議会開設にも反対しておった。その嫌がる藩閥政治家の尻を押し、ともかく憲法を発布させ、議会を開設させたのは明治大帝だったのであります。明治二十三年に帝国議会が召集されますと、総選挙によって多数議席を獲得しておった民党各派は、予算協賛権を武器にして藩閥政府と渡り合ったのである。
『民権張らずんば、国権伸びず』
こう主張して私も政府批判の先頭に立ちました。そして第一議会では、国家予算を一割削減させて、民力の涵養に貢献することに成功したのであります。この事態に驚いたのは藩閥政府です。衆議院を解散して第二回総選挙に臨んだ。悪名高き選挙干渉が行われたのは、この第二回総選挙においてである。その黒幕は内務大臣であった。本来ならば選挙違反を取り締まるべきところの内務省が地方官吏や巡査に命じ、選挙買収を実施せしめたという、わが国の憲政史上最大の汚点を残したのがこの第二回総選挙である。札束を懐に入れた巡査が選挙人の家々を回り、金をつかませ、飲食を振る舞い、選挙人を囲い込んで買収をしたのである。それでもなお選挙結果においては、政府系の吏党は勝つことができず、民党勢力が勝ちました。しかるに残念至極なことは、このとき以来、選挙買収という悪弊が国民の間にこびりついてしまったことである。
明治が終わるまで、藩閥政府と民党勢力との対立関係は続きましたが、どうしても藩閥の方が強かった。私どもは、どうにかして立憲政治の本色を発揮しようと致しましたけれども、いかにも残念なことには力が足らず、徳望もなかった。全国人民もまた我々に全幅の贊成をするだけの智能を持たなかった。新聞の言論も演説会の言論も各種の条例によって掣肘せられ、やがて上下挙って藩閥官僚の圧服を受け、遂に段々堕落して、もう立憲政治の形は存するけれども、精神はほとんど滅亡した状態になっていった。
大正時代に入りますると、憲政擁護運動が湧き起こった。政党の力が増してきて、政党と藩閥の勢力が均衡してきたのであります。やがて元老がほぼ死に絶えると、待ちに待った二大政党による政党政治の時代がやって来ました。私は時を得たと喜び、ここで働かずしてどこで働くかと、大いに働いた。政党政治の理想を実現する好機だと思っておった。
しかるに、その結果としてできあがったところの政党政治に私は失望した。選挙買収は横行する。政党政治家は財閥や官僚と癒着する。政党は経済失政を繰り返しておきながら、その結果たる貧困問題と真剣に取り組まないばかりか増税を繰り返す。国益を棄損するばかりの国際協調外交は続く。政策や綱領ではなく、金銭や地位のやりとりで離合集散する政党政治家の実態に、私は我慢ができなくなって政党を飛び出し、以後は無所属議員になり、ときに小政党に属しました。かつて西郷隆盛は、できあがった明治政府に失望して薩摩に帰ったといいまするが、私も同じような気持ちだったのである。
当時は政友会と民政党の二大政党が政権交代を繰り返しておりましたが、この両大政党は、だいたい財閥から塩を貢がれて、つまり選挙運動費をもらっておった。実を言うと日本の衆議院議員の大多数は財閥の手先であって、一般人民の味方ではなかったのだと言わねばならない。その道理は簡単にして明瞭である。一般人民は選挙費用を出さない。財閥は出す。ゆえに、いかなる場合においても議員らは、選挙費用その他の費用を出すところの財閥の利益は図るけれども、出さないところの一般人民の利益は図らぬということは、むろん良くないけれども、そこにはそれだけの理由があったのである。もし財閥が出すだけの金を一般人民が出すならば、議員らといえども必ず一般人民の肩を持って財閥の敵となったであろうが、そうはならなかった。ゆえに両大政党とも、いかなる場合においても、始終、財閥のために働いておった。行政、立法すべての働きが、だいたい日本では財閥の利益を図って全国人民を苦しめるという働きになっておった。あの当時の状況は、財閥と一般人民との対立であって、財閥の利益は多くは一般人民の不利益となり、一般人民の利益は、だいたい財閥の不利益となる。したがって全国は増税派すなわち財閥派と、減税派すなわち一般人民派とのふたつに分かれておった。しかるに悲しいことには、一般人民は未だおのれの利害の計算がわからんがために、多くの場合においては財閥の運動費を受けてその手先となっておるところの候補者に多くの投票を入れ、おのれを苦しめるべき結果を招いて平然としておった。これが、日本の経済状態、その他、あらゆる不幸不利を積み重ね来たったる最大原因となったのである。
ここにおいて全国人民は、国家および自分たちの利害を打算して、不利益になる候補者には投票を入れないように、利益になる候補者に投票を入れるように働くべきはずのものであった。しかるに、それがわからなかった。
また、二大政党制の当時にあっては、他の小政党に投票するのは無効だと考える選挙人が多かったのである。しかし、これは間違いである。かの軍縮も普通選挙もはじめは少数意見に過ぎなかったし、両大政党は大反対であった。にもかかわらず、軍縮と普選とふたつながら実現したことを考えれば、少数かならずしも無力ではないのであります。そこで私は、両大政党つまり両大増税党に投票を入れずして、その他の減税派つまり小政党に投票せよと訴えましたが、なかなかに理解が行き届かなかった。いわゆる事大思想、大きい者に屈服するというような卑しき思想が蔓延しておった。わが国の選挙民は、長いものには巻かれろという事大主義を棄てて、正しい者に投票するという正しい選挙をせなければならなかったのである。たとえ小政党でも、減税を主張する者に投票することになれば、必ず両大政党をして増税方針を転換せしむることができたはずのものであった。減税が行われれば、景気回復の曙光が見えたはずだった。しかるに、なかなかそうならなかった。
そこで私は、日本の政治風土を根本からつくり直そうと志したのである。選挙民に対する政治教育を政治活動の中心にした。啓蒙書を発行し、また全国各地を演説して巡った。遠く樺太まで訪ねたこともある。そのほか普選手拭なるものを製造販売したこともありまするが、その手拭いには私の考えた都々逸を書き込んだのである。ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。
投票売るのは身を売るよりも 後のたたりが恐ろしい
貧すりゃ鈍するならいはあるが 清い一票売るものか
貧富貴賤の差別はあるが 議員選挙にゃ一票づつ
皆様、お笑いになりますが、真面目にこういうことを訴えねばならなかったのです。私はできるだけのことはしたと思いますが、効果はなかなかに上がりませんでした。
政党は、財閥と結び、官僚と癒着し、国民から離れていった。昭和七年に五・一五事件という首相暗殺事件がありました。私の古い友人の犬養毅君が暗殺されたのであります。あの時、新聞は犯人に同情的な記事を書きました。そのため全国から犯人の減刑を嘆願する手紙がたくさん届けられました。被害者たる犬養君よりも、むしろ殺害者たる犯人への同情が強かった。これは犬養君が悪かったのじゃありません。政党の積年の悪弊がこの首相暗殺事件を招き、そして、また国民はその犯人にむしろ同情したのです。犬養君が存命だったならば、満洲国のために国際連盟から脱退することはなかったでありましょう。だからこそ一部の勢力からすれば犬養君が邪魔になった。誰もやりたがらぬ首相を犬養君は引き受け、そして責任だけを引き受けて死んだのだと私は思っておる。政党政治家が首相になったのは犬養君が最後でした。
それからの政党は凋落するばかり、そして、昭和十五年、わが憲政史上なんとも悲しむべき出来事が起きた。大政翼賛会であります。いわゆる国家総動員体制である。これを近衛文麿公爵が提案するや、政党は自ら解体して、この翼賛会に吸収されていったのである。軍部ではない、近衛公がやったことである。情けなくも政党は自ら進んで解体した。大政翼賛会というものは共産主義の権力集中主義を模倣したものであって、わが国の立憲主義とは相容れぬものであった。だから私はこれを『議会の死』と呼んで批判したけれども、時勢の止むことはなかった。なにも支那事変だからといって政党を解体する必要はない。日清戦争でも日露戦争でも、政党は国家の危急に際しては、小異を捨てて大同につき、政府に協賛しておったものである。なにも政党が解党する必要はなかった。あの悪夢は、まさに議会の自殺、憲政の自滅、政党の自壊であった。
そして、大東亜戦争になった。緒戦の大勝利は皆さんの記憶にもあることと思う。しかし、考えてみれば英米という二大海軍国、そしてソ支という二大陸軍国を相手にして戦ったのである。いかに帝国陸海軍が精鋭とはいえ、相手が大きすぎた。
桶狭間の奇勝におごり本能寺の奇禍を招ける人な忘れそ
詰手なき将棋さしつつ勝ち抜くとうそぶく人のめでたからずや
これは、あの頃に考えた戯れ句です。開戦に至った経緯についてはいろいろな事情があった。経済封鎖によって日本は追い詰められておったのは事実である。しかし、そんな事態に陥る前に、わが国の政党や議会が為すところもなく時代の渦に巻き込まれ、まったくの機能不全に陥っておったことが残念で悔やまれてならぬ。確かに軍部官僚は悪い。しかし、敵に対して勇敢に戦ったのもまた軍である。議会は何をしておったか、政党は、議員は、何をしておったか。軍人政治家に迎合し、翼賛体制下に安穏としておっただけである。その無責任と怠惰、これはこれで追求されるべきである。
そうして敗戦となった。なんとも遺憾なことながら、明治大帝の御偉業はことごとく水泡に帰してしまったのであります。日本は鎖国時代の日本に戻ってしまった。まさに千古未曾有の国辱であると言わなければならない。
この非常の場合において、この禍を転じて福となすにはどうすればよいか。戦後、私は帝国議会で演説し、過去五十年間の悪しき習慣をことごとく一掃し、憲政のやり直しを為せと訴えましたが、なかなか直らないものです。新憲法が発布され、帝国議会は国会となりましたが、根本的な政治思想や政治慣行が変わらぬと、結局、同じ事の繰り返しになってしまうのである。
そこで、この憲法なのでありますが、良い憲法さえつくれば国が良くなる、などという軽率な考えは、非常な間違いである。憲法で国が救われるなら、世界に滅亡する国はありません。わが日本帝国にしても滅亡する必要はなかったはずである。
帝国憲法は良い憲法でありました。けれども議会や政府がその運用を誤ったがために、遂に日本帝国を滅亡させるまでになった。その根本原因は何であったかといえば、それは二千年来、養い来たったる官尊民卑の弊習である。政治家も官僚も国民も、封建的な官尊民卑の考えを脱却できなかった。だからこそ立憲政体が整えられてはおっても、その運用は封建的になってしまった。明治の頃には実に元気な藩閥政治家がおったもので、私はこんなことを言われたことがある。
『俺たちは馬上剣を揮って天下をとったのだ。筆や算盤で天下が取れるならとってみろ』
このような藩閥政治家が明治政府を運営しておった。法律をつくる、制度をつくる、官庁をつくる、官僚を雇う、これは簡単にできるのであって、本当にむつかしいのは立憲主義的な発想で政府や議会や官庁を運用することであった。申すまでもなく立憲政治とは、多数弱者の力を以って少数強者の横暴を制御するために工夫せられた政治法である。決して少数強者の横暴を助成するための機関ではない。故に一般選挙人は、どちらかといえばある程度まで、時の権力者に対抗する精神を有し、かつこれを投票行動に現わさなければならないはずである。しかるに、わが国民は最近七百年間、武断政治の下に生存したため、常に時の権力者に服従する習慣性を生じた。北条でも、足利でも、豊臣でも、徳川でも誰でも構わない。政権さえ掌握すれば全国挙ってこれに服従した。そして、今では連合国に従っておる。長いものには巻かれよ、というわけである。この思想習慣は、立憲政体とは両立し得べからざるものである。立憲政体の下においては、ただに強者に屈服する必要がないのみならず、投票の入れ方によっては、却って強者を屈服せしめることが出来る。これが憲政の妙所巧用であるのに、わが国民の多数は、未だこれを悟るだけの知識を持たなかった。そのうえ徳義心の不足で、金銭で投票を売る者が多いから、選挙は常に権力者の勝利に帰し、議会は却って政府の横暴を助ける機関となってしまった。
失敗の原因が智徳の欠乏、即ち文化の不足にある以上は、順当な救正法は、国民の智徳を開発するよりほかにない。しかし、それは国家百年の業であって、目前の間には合わないから、ほかに応急手段を求めなければならぬ。なんといっても立憲政治の根本は選挙であるから、選挙に対する買収と干渉を厳禁し、因って以って正しく民意を総選挙に発露させることが必要である。そう考えて私は選挙民の啓発に力を尽くした。率直にいえば、政党が腐敗するのは国民全体が腐敗しているからで、廉潔なる国民は必ず腐敗せる政党を排斥する。腐敗せる政党を容認して、大切な政権を掌握せしむる気遣いはない。国民腐敗の程度までは、官吏も、商人も、教育家も、軍人も、政党も、会社も、銀行も、みな一様に腐敗するに相違ない。
故に根本的に政党の腐敗を矯正せんと欲せば、先ず以って挙国人民の知徳を増進して、国民の腐敗を矯正しなければならぬ。しかし、これは一朝一夕にその目的を達することは出来ない。応急手段としては、政党が深く悔悟反省するまでは、政党をして政権に接近せしめざると同時に、大いに選挙費用を減少すべき方法を施すことが必要である。選挙費用さえ少なければ、政党首領は、財閥と結託する必要がない。およそ政党腐敗の金銭的事実を検討すれば、十中八九までは選挙費用の多大なるに帰着する。
立憲国の柱石とも称すべきこの大切な選挙人に対して、わが国では何等の訓育も施してこなかった。いっさい無頓着で、まったくの野育ちのままに放任しておった。小学校教科書にすら、選挙のことはほんの申し訳だけしか書いてない。それもそのはず、藩閥政府は元来、議会政治を好まなかったのである。この藩閥政府に使役せられていた官僚どもは、使用主の鼻息を窺って働いていた。故に政治知識の発達を妨害すべき施設は種々に工夫したが、憲政を満足に発達せしむるために最も必要な選挙人の訓育に至っては、何一つ施すところがなかったのである。
私が大政党を飛び出し、政治教育に志したのは、まさにこの理由からである。以後はこうして全国各地を遊説しておりますが、なかなか容易に世の中が変わるわけもありません。しかし、本日、こうしてお集まりの皆さん、なかでも選挙権をお持ちの皆さんには選挙の意味をよくお考えになり、買収されたりせぬように、その信念をお持ちいただきたいのです。
さて、神武天皇以来未曾有の屈辱的状態に陥ってしまっておるわが日本は、新憲法とともに出直さなければなりません。私は衆議院において過去の弊習を直すべく、いくつかの提案を致した。たとえば、国会議事堂の議場の構造を造り変えろと提案した。ご存じの方もおられると思いまするが、今の議場では大臣や政府委員の席が高いところに設けてあって、低いところにある議員席を見下げておる。これは主客転倒の構造と言わねばならない。新憲法によれば、議会が決定したことを政府が実行するのであるから、議員席の方が上に置かれてしかるべきである。民主主義という以上は、その主義思想に基づいた議場の設計が施されねばならないはずのものである。しかし、この点は何ら変わっておらない。
また、議場内では基本的に議員以外には発言権を与えるべきではない。ところが議場内ではむしろ議員の発言は様々に制限せられておって、むしろ大臣や政府委員の発言が自由に許されておる。これも主客転倒の最たるものと言わねばならぬ。
法案や予算案の作成にしても、本来ならば立法府において作成し、編成し、行政府の力などは借りることなく、つくりあげねばならぬ。ところが現実は逆である。行政府のご厄介にならねば立法府は法案も予算案もつくれない。内閣がつくってくれたものをありがたく受け取って、これに賛成しておる。こんな奴隷根性の立法府では民主主義は行えないのである。
かくいう私はかつて政党内にあったとき、大臣として行政府に乗り込んだことがありました。しかし、何もかも思い通りには行かない。大臣と秘書官の周りは敵だらけです。敵というのは官僚です。次官、局長、部長あらゆる官僚は政党政治家の大臣には面従腹背でありました。こんなことでは議会政治はできぬ。できぬどころか、近づくことさえできない。そこでやむなく政務官や参与官の制度を設けたのでありましたが、それでも敵の包囲網を破ることはできませんでした。
それから政党そのものも立憲的とは言えぬのであります。わが国の政党の歴史については、この私は誰よりも詳しく見てきたという自負がある。その私の経験から言うならば、日本人の封建的思想感情がある限り、本当の政党というものはできない。徒党はできます。封建的徒党です。しかし、立憲政治には政党がなければならない。ところがこれが容易ではない。私はすぐ近くで見ておったのでわかりますが、大隈重信侯爵を戴いてつくった改進党も、板垣退助伯爵を戴いた自由党も、伊藤博文公爵を戴いた政友会の組織にしても、駄目でありました。徒党でした。私はずいぶん奔走して骨折ったものですが、この三党派とも、伊藤がやっても、大隈がやっても、板垣がやっても、どうしても政党にはならなかった。みな徒党になってしまった。それも無理はございません。数百年の間に養い来たった封建的思想感情が一朝一夕にして、あるいは半世紀やそこらで、変わると思い込み、立派な政党がつくれると思いこんだ私が、若気の至り、無知であったのです。できません。どう働いてもできぬ。できなかった。すぐ封建的徒党になってしまう。ひとりの親分がいて、たくさんの子分がいる徒党です。それゆえ、党でこう決める、党議でこうと決めれば、善悪正邪を問はず、党員はそれに服従してしまう。だから議会は多数派の天下になって、正理正論が通らない。それは政党が徒党だからであります。どんなに正しい人でも、党議に拘束せられ、心ならずも党議に服従してしまうのです。党議拘束をするような政党は徒党です。
政党は、綱領と政策に基づいて結党され、賛同する政治家が集うべきはずのものであります。選挙資金や利権で結びついた徒党であってはならないはずのものであります。そのことは重々わかっておる。わかっていながら、どうしようもない。大隈、板垣、伊藤といった元老さえ本当の意味での政党をつくれなかった。かく申す私も力足らず、徳望なく、このような無所属議員になりさがっておる。新しい憲法ができましたが、政党の方はあいかわらずの徒党のままである。
私は新憲法について文法や字句に関する細かなことを論ずるつもりはないのであります。新憲法の条文については、細かな注文を付けようと思えば付けられる。しかし、私が・・・」
事件はこの瞬間に起こりました。突然、尾崎は猛烈な腹痛に襲われ、便意を感ずる間もなく大便を噴出させてしまったのです。
(しまった)
と思いましたが、どうしようもありません。連日の鰻がたたったのです。肛門周辺が熱い。さすがの尾崎も背を丸め、一瞬たじろぎました。が、演説は佳境に入っています。
聴衆は数秒の沈黙に聞き耳を立て、尾崎の次の言葉を待ちました。
(どうなさったのかしら)
舞台そでに身を置いて見守っていた服部文子は、尾崎の異常にすぐ気づきました。ですが、具体的に何が起きたのかはわかりません。演壇に飛び出していきたい気持ちもありましたが、講演の邪魔になってはいけない。文子が逡巡するうち、尾崎は声をあげます。
「私が申し上げたいことは、憲政の根本についてであります」
尾崎は声を励まします。幸い、出るべきものが出てしまい、腹痛は治まりました。大腿部の裏側に生温かいものが下がっていくのがわかります。その悪臭に閉口しましたが、幼い頃に経験した懐かしいような感覚でもあります。
「そもそも憲法とは何であるか。そのことを話したいのであります」
声が弱々しい。尾崎は迷います。このまま続けるか、中止するか。その迷いを聴衆は感じたようです。
「どうした!憲法の神様!」
「憲法がどうした!」
会場からヤジが飛びます。
(話さねばならぬ)
すでに尾崎の身辺には悪臭に満ちていましたが、壇下の聴衆には届いていないようです。尾崎は下半身の惨状を心頭から滅却せんとし、背筋を立て直し、熱烈に話し始めます。
「憲法とは、いや、そもそも法律とは何か。それは慣習を成文化したものであります。したがって法律の本質は慣習である。憲法も例外ではない。国家の歴史と伝統に裏付けられた政治慣習を成文化したものが憲法である。つまり日本国の二千年の歴史と伝統に根ざした慣習こそが憲法の本質であり、その一部分を成文化したものが憲法なのである。だから、私は新憲法の文法や字句に関していろいろ注文したいこともあったが、それについては敢えて議会でも追求しなかった。本質はそこではない、そう思ったからです。本質は、日本の伝統的政治慣習であり、憲法を執行する思想感情にこそある。
さて、とはいえ、慣習といっても目には見えず、耳には聞こえず、目に読むこともできません。どうしても人は憲法の条文に引きずられやすい。でも違う。ここをぜひお話し致したい。
たとえば、かの大英帝国である。大英帝国は成文憲法を持っておらない。つまり不成文憲法の国である。かの国にあっては、憲法とは、制定法や一般法や慣習法、議会決議や裁判所の判例や国際条約、さらには政治慣行の中に自ずと存在しておるものと解されておる。つまり歴史と伝統によって蓄積された各種の法律や判例、慣習の中に見出される憲法的習律によって国家が運用されておる。簡単に言ってしまえば政治慣習の中に憲法が存在しておる。だから成文化された憲法が大英帝国にはない。それでもいっこうに困らない。なぜなら憲法の本質たる歴史と伝統に基づいた政治的慣習が確立しておるからである。政治家も官僚も国民も、そのことを知っておる。だから成文憲法がなくともジタバタしておりませぬ。これこそ民主主義発祥の国であります。憲法の本質は憲法の条文ではなく、歴史と伝統に基づいた政治的慣習の総体である。これをぜひお解りいただきたい。
ではなぜ、英国以外の欧州諸国には成文憲法があるのか。それは革命があったからである。革命によって政治制度が根本的に変わった場合、成文化した憲法が必要となる。王政から共和制へ、あるいは王政から共産主義へ、こうした根本的な政治変革があった場合にこそ憲法は成文化される必要を生じる。わが国の王政維新は根本的な変革だった。幕藩体制が終わり、武士の世が終わり、近代国家に生まれ変わった。だからこそ明治憲法は必要とされた。
いま、日本は戦争に敗れ、連合国の占領下にある。とはいえ、日本の政治形態は根本から変えられてしまったのか。いや、変わってはおりませぬ。革命など起こっておりません。憲法もある、議会もある、政府もある、天皇陛下もいらっしゃる。この尾崎とて、戦前と変わらず衆議院議員を勤めておる。日本は続いておるのである。だから私は、新憲法の条文にこだわるよりも、わが国の伝統にむしろ意識を置いて、いわゆる憲法的習律によって新憲法を正しく解釈し、運用せなければならぬと考えるのである。
私がこんな話をする理由、それは条文ばかりに心を奪われると、国を誤るおそれがあるからである。憲法は大いなる心をもって解さねばならない。であるにもかかわらず、憲法の条文にこだわり、特定の条文だけを絶対化して考えると国家を誤ることにさえなる。その最たる悪例は軍部による統帥権独立の主張でありました。戦前、軍部は統帥権の独立ということを盛んに主張した。その根拠は帝国憲法第十一条にあった。
第十一条 天皇は陸海軍を統帥す
この条文を根拠にして軍部は統帥権の独立を盛んに言いつのり、ついに統帥に対する政府の介入を封じ、秘密主義を徹底させた。本来、こんなことはおかしいはずのものである。少なくとも明治の日本にはなかった。日清戦争のときも日露戦争のときも、政府、陸海軍、帝国議会、皆で力をあわせたものである。それが昭和になると分裂してしまった。統帥権の独立などというものが政府と統帥部とを分裂させてしまった。こんな分裂状態で大戦争をやった国は例がない。
では、なぜに軍部が統帥権のことをやかましく言い出したのか。それは軍縮条約に対する反発である。軍人たちの気持ちはわからないではない。戦さに負けたわけでもないのに軍艦の数を減らされ、予算を削られ、人員を整理される。軍艦は対米七割が必要だと主張しておったのに、全権団は勝手に六割で妥協してしまう。軍部が怒る理由もわからないではない。だが、しかし、それでも統帥権独立はおかしい。帝国憲法第十一条のみを絶対視して、その他の条文との均衡を無視し、歴史と伝統に基づく慣習を無視し、明治の前例さえ無視して、統帥権独立を主張したのは間違いだった。正しい憲法解釈ではない。軍部の人々は憲法というものが解っておらなかったと言わねばならぬ。
憲法の本質は歴史と伝統に根ざした慣習であり、その一部を成文化したものが憲法であるに過ぎない。この知識さえあれば、軍部も第十一条をかざして暴走したりはしなかったでありましょう。憲法の条文ではなく、その条文を正しく理解し、解釈する大いなる常識こそが憲法の本質なのです。
こんな話をしても、抽象的すぎておわかりいただき難いであろうと思う。そこで、わかりやすい例えを引くならば、畏れ多いことながら、それは大御心である。大御心といえば、皆さん、ご承知と思います。それは今上陛下おひとりの御心という意味ではありません。神武天皇以来、歴代の天皇が良きこととなされてきた道徳の総体であります。その総体は広大無辺にして深遠無窮、その総てを文章にすることなどできはしない。ですが、確かに在る。今上陛下は歴代天皇の御事績と御遺訓を常に御考究になり、その大御心を感得しようと常に勉めていらっしゃる。そして、時に、その一端を和歌にして私どもにお示し下さる。それが御製です。
お分かりいただけるでしょう。大御心と御製の関係こそ、憲法の本質たる伝統的政治慣習と成文憲法との関係なのです。御製は大御心の断片である。憲法条文も同様に、伝統的な政治慣行の一端に過ぎない。このことをぜひご記憶ねがいたい。そうすれば軍部が犯したような過ち、ひとつの条文を絶対化するという間違いは二度と起こらない。起こしてはならない。
わが国は今、千古未曾有の国辱の下にあります。国内には外国軍の駐留を許しておるし、さし当たりアメリカの援助なくして日本の立ち直りはできないというのは事実であろうと思います。しかし、平和国家として立ち直った上で、恩に報いる覚悟さえあれば、乞食根性になったり、自尊心を失ったりして、あたかも喪家の狗のごとき卑屈な醜態を曝す必要はないはずのものである。どうか皆さん、抱負を持ってください。平和国家を建設して立憲政治を確立する、そういう抱負を持てば胸を張って生きていけます。
明治の維新は王政維新と言った。今度の維新は民政維新である。王政維新に比べれば何倍も重大なる民政の維新である。この維新を行う以上は、大いなる抱負を持って欲しいのであります。文化未開の王政維新の際ですら、幕府を倒すと、すぐ列藩から無名の青少年が現れて、内閣の実権を握って参議となり、立派に維新の大業を成就しました。明治の初めに現在の日本をつくることに貢献した人々は、智識経験に欠けておったところの若い青年でありました。西郷、大久保などは年をとっておりましたけれども、それにしても四十代、五十代の者はいない。たいてい二十代か三十代の若者でした。彼等の知識や見識なんぞというものは、皆さんに比べて劣りますとも決して優っておったはずがない。それですら王政維新という事変に遭遇して起ち、起てばこの日本をどうにかこうにか経営することができた。それができたのは見識が高かったのではない。知識が多かったのではない。抱負があったからである。国家を以て自ら任じておったからである。皆さんは彼等に比べれば、知識も経験も富んでおります。けれども、いかんせん、官尊民卑の弊風に縛られておって、抱負を失っておる。国家を背負って起つだけの抱負がないから、つまらぬことで喧嘩をしたりしておる。
かつて民党の勢力は、明治の乱暴な時代に、藩閥を負かしたのであります。国民は決して我々の後押しをしなかった。それでも武力を以て頼みとする藩閥を負かし得たのである。これは力があったためではない。抱負があったからです。何としても憲政を樹立せんとする抱負です。
明治の元勳と言われた人々に比べても、我々の方がよほど有利な位置に立っておるのである。しかし、皆さんには抱負がない。それだけの自信がない。維新の連中は盲ら滅法でも、自ら任じておったものだから、兎に角なんとかやってしまった。今日の皆さんは、知識や何かは充分にある。故に皆さんに国家を背負って起つという抱負さえあれば、今日の日本の窮境を切り抜けることは何でもないことと思う。その抱負をぜひお持ちいただきたいのであります」
演説は終わりました。割れんばかりの拍手の中、緞帳が閉じました。尾崎は舞台そでの方を向き、服部文子の姿を認めると、手招きします。排泄物はすっかり冷えて、尾崎の下肢にベタリと張り付いています。服部が小走りに駆け寄ると、尾崎は顔色も変えずに言いました。
「服部さん、実は・・・」
(まあ、たいへん)
尾崎が言い終わらぬうちに、臭いでそれと気づいた文子は、すぐさま尾崎の前に跪くとズボンを脱がし始めました。驚いたのは周囲の男どもです。この種の事態に対して男は頼りないものです。ただ呆然としています。そんな男どもに服部はテキパキと指図しました。
「あなた、タライかバケツを探して下さい。できるだけ大きなものを。水を張って持ってきて下さい」
「あなたは布地とチリ紙をかき集めて下さい」
「お湯を沸かせますか。できればお湯が欲しいのですけれど」
「あなたたち、雑巾をたくさん用意してすぐに掃除して下さい。お早く」
「先生の旅行鞄にお着替えが入っていますから探し出して持ってきて下さい」
普段は温和しい文子がピシピシと命じます。
「服部さん、鰻を食べ過ぎました」
尾崎の言葉に文子はいちいち応答せず、休みなく手を動かしました。尾崎は幼児のように、されるがままになっています。
―*―
世界連邦建設の構想を尾崎行雄は機会ある毎に論じました。しかしながら国際情勢は尾崎の理想を空文化してしまいます。朝鮮動乱です。共産主義勢力の日本侵略が絵空事ではなくなったのです。新憲法の戦争放棄条項を賞讃していた尾崎は、世界情勢の変化を理由に日本の再軍備を主張し始めました。
「世界はまだ当分の間お互いに国家というものを無くそうとする考えがないようである。そして、国家のためにますます軍備を拡大していこうというのであるから、日本はいつまでも、自分だけ軍備なしにはやっていけない。軍備がなければ必ず侵略せられるに違いない。外敵は虎視眈々として日本を狙っておる。かような情勢から言って、日本の再軍備はやむを得ざるものとなる」
平和主義者、というのが戦前戦後を通じての一貫した尾崎評ですが、尾崎自身はこの世評に異論を持っていました。
「私は、平和主義者ということで通っておるけれども、それはただの平和主義者ではなく、国家のため、世界のため善いことであるというならば、戦争もまたやむを得ずとする平和主義者なのである」
尾崎は教条的な平和主義者ではありませんでした。常に世界情勢と彼我国力の比較検討から和戦の判断をしてきました。明治十七年に特派員として上海に派遣された若き日の尾崎は、清国の軍隊をその目で見ました。
「まるで三国志だ」
衣服も武器もまちまちで、統制など全くない。目立つのは武器よりも数々の旗や幟である。将軍は支那風の輿に乗っており、その後ろには将軍の愛人の乗る輿が続きます。清国軍の弱体を見抜いた尾崎は、帰国すると支那征伐論を唱えました。当時、欧州の列国でさえ清国を「眠れる獅子」と恐れていましたから、尾崎の対清強硬論は陸軍軍人からさえ白眼視されました。しかし、日清戦争によって尾崎の目の確かさが証明されたのです。
日露戦争については尾崎は反戦論を唱えました。日露の国力を比較して勝ち目がないと判断したからです。その後、満洲事変、支那事変、大東亜戦争には一貫して反対の立場を堅持しました。
「欧州の危機は東洋の安機」
尾崎は平和主義者と言うより、むしろ戦略家でした。欧州が戦乱になり、東洋が安定を保てば、日本は第一次大戦時のような経済繁栄を享受できる。欧州の戦乱に巻き込まれるな、と尾崎は主張し続けました。しかし、その慧眼も、米英蘭支ソによる連合国包囲環の前には無力でした。
昭和二十七年一月、遊説先で肺炎にかかった尾崎は重態に陥ります。回復はしたものの、その後は寝たり起きたりの生活となりました。翌年の選挙で尾崎は初めて落選しました。長い政治生命が終わったのです。
(この子はとても育つまい)
その母親を何度も嘆かせた虚弱児は九十六才まで生きました。長寿の秘訣を人に聞かれると、尾崎は「無理は禁物」と答えました。
「丈夫な者が短命に終わり、病弱の私が今なお生きているのは不思議なようだが、これは少しも不思議ではない。つまり丈夫な者は大抵いろいろな無理をする」
とはいえ尾崎はずいぶん無理をしました。長い生涯のなかで数十日にわたる遊説旅行を何度も何度も繰り返しました。その都度、旅の後半に高熱を出して旅宿に臥しました。熱が出れば、尾崎は無駄な抵抗をせず、素直に寝込んみます。これが良かったようです。
「人生の本舞台は常に将来にあり」
尾崎のモットーです。こうした未来志向も長寿の要諦だったでしょう。尾崎を未来志向にしたのは後藤象二郎だったようです。新聞論説記者から政治家に転身した三十才手前の尾崎は、土佐出身の後藤象二郎に接する機会を得ました。後藤は維新回天の立役者のひとりです。二条城大広間の評定で第十五代将軍慶喜に大政奉還を直言した男です。自慢話のひとつもあって良いようなものでしたが、後藤は昔話を全くしませんでした。宴席などで尾崎の方から昔話をせがんでも、苦い顔をするばかりで応じてくれません。尾崎は、何事か感得するところがあり、以後、常に未来のことを考えるようになったのです。
「恩讐をすてる」
という心掛けも長寿のコツだったかも知れません。もともと若い頃の尾崎は恩讐にこだわる性格で、どんなに小さな出来事も忘れまいとし、激しい好悪の情を持続させ、恩讐録と名付けた日記を十年以上も書き続けていました。ところが明治二十一年、外遊の途上、船上で暴風に遭い、旅行鞄もろとも恩讐録を海没させてしまいました。文章家の尾崎にとって十年以上も書き続けた日記は一種の財産でしたから、その喪失は尾崎を大いに嘆かせました。数日のあいだ悶々とするうち尾崎は何事か啓示を受け、心機を一転させます。恩讐を棄てたのです。個人的な感情にこだわらぬようになったことで心理的負担を減らし、何事も受け容れる度量を身につけたのです。
そんな尾崎も最晩年の二年ほどは寝たきりになりました。服部文子が献身的に介護しました。その姿は封建時代の麗しい主従関係のようでした。
昏睡状態が続いていた昭和二十九年十月六日午後九時、下顎呼吸が始まりました。死期が近い。服部は主治医と家族に電話で知らせ、枕頭に戻りました。静かな下顎呼吸が数分続きました。やがて尾崎は大きくひと呼吸すると、冗談でも言い出しそうな笑顔を見せました。
(何をおっしゃるのか)
文子は身を乗り出して言葉を待ちましたが、尾崎は何も語らず、そのまま眠るように逝きました。