ホワイトデーの恋人達
3月に入ったことに絶望しながら書いていたところ遅刻しました。
バレンタインデーよりは強敵じゃないので気が緩んだのでしょう。
暖かな春の雨は、昨晩から降りつづけていた。これを風流なものだと喜んでいる場合などではなく、それはまさしく豪雨だった。春雨には違いないが、言葉のもつ軟らかいイメージとは無縁である。そのため、雨がアスファルトを叩くコーラスをしばらく聞いていた桜井文則は本日何度目かのため息をついた。
「よくもまぁ、雨に縁があるもんだなぁ」
本日はホワイトデー。先月のバレンタインも凍えるような氷雨が振る中での出来事だった。あれよあれよという間に一月がたったが、劇的に何かが変わるようなことはなく、彼の眠気は彼の瞼を半強制的に下げさせていたが、それでも彼に意識の変化があったことは間違いなく、この日ばかりは若干の緊張に身体を強張らせたりもしていたのである。あの運命の日から数えて早一か月。初めて迎えるカップルとしてのイベントであった。この手のことは疎い彼ではあったが、とにかく特別な、大切な一日にしようという意識でいたのである。であるため、彼は慣れない放課後デートを設定――とはいっても、潤沢に時間があるわけでもないので喫茶店に寄るというだけの話だが――したのだが、店のチョイスを失敗したことを彼は店に一歩踏み入れるなり気が付いてしまったのだ。
――何故なら、その店は外観が普通な割に、中が異様なのだ。小物で店内を装飾するのはいたって普通だが、何で装飾しているかといえば、全部が全部、ロボットである。有名ロボットアニメのロボットたちが出迎えてくれたのである。その店の名前を『ジュピトリス』といい、少し知識があれば事前にわかっただろうものだ。
「……面白い、お店を知っているんですね?」
「これを面白いと表現してくれて嬉しいですよ」
控えめな恋人の――柳井氷雨の言葉に、彼は力なく笑って頷いた。彼はこの店の事をクラスの男子から教えてもらったのだ。良く彼女と行くんだと彼は言っていた。彼は馬鹿なんだろうと、桜井は確信した。ついでに彼女も気に入っていると言っていたことを思い出し、なら彼女はアホだろうと納得した。
そして、冒頭に戻る。席についたはいいが、どうにも両名とも言葉が少なかった。なので、彼はため息をついてから、そんな風に嘆いたのである。
「素敵じゃないですか」
「素敵、ですかねえ」
暖かな雨は、確かにこれまでのような身を打つ冷たさの雨ではない。延長線上にどこか夏を感じるような湿気と温度の不快感こそあるものの、春のそれは余程爽やかなもので、雨に降られるなら一番いいかもしれないが、素敵かと言われると彼は素直に頷けない。
不思議そうな顔を彼が浮かべていると、彼女はクスクスと笑う。
「そうすれば、二人でくっついて歩けるでしょう? 先ほどまでみたいに」
「……先輩はロマンチストですねぇ」
「桜井君が疎すぎるんですよ」
ぴん、と額を突っつかれて、彼は何も言えなくなる。付き合い始めてから、いや、付き合い始めたからこそ妙に距離が近づいたような気がしてならなかったからだ。女性免疫が皆無であった彼には聊か厳しいものがある。
「……それより、何を頼みましょうか」
「こういうところは、ケーキセットでいいんじゃないですか」
「そうですか。……うわ、お茶の種類がいっぱいある」
「いいお店、みたいですね」
「……ははぁ、なるほど」
そうか、あの自分より小柄な彼はそういうところを見て言っていたのか。馬鹿だなどと断じたのは間違い……いや、それでもデートスポットに積極的に活用するのは妙すぎる。やっぱり何か感覚がおかしいのだ。……などと、彼は先ほどの自分を正当化する。
「お菓子の種類も多いなぁ……」
「学校の近くに、大した場所があったんですね」
「そうですね、驚きました」
「自力で見つけたわけじゃあ、ないですよね?」
「ええ、人から聞きました。クラスメイトに」
「お茶好きかアニメ好きかのどっちかなんでしょうね」
「……前者かなぁ、あいつは」
謎の多いあの小柄な男子のことを考えながら、彼はメニューに目を通す。お茶なんて名前を見てもわからないので、目の前の先輩と同じものにするとして、お菓子なら写真つきなので自分が何を食べたいかぐらいはわかる。どうせならある程度食い手があったほうがいい。軽くてふわふわして霞でも食べたような気になる貧弱なものは御免こうむる。……などと甚だ俗っぽい考えで写真を眺め、一番しっかりしていそうなパンケーキを選んだ。クリームだシロップだで飾られているのでカロリー量にも期待がもてる。
「絵本部男子の秘密。次の記事のネタにでもしますかね……絵本部の旬は過ぎてますが。そういえば売上と作品のクオリティばっかり取り上げて肝心の部員には詳しく話を聞いてなかったような。そうだ、全部活動で評価の高い生徒一人をピックアップして掘り下げていく……んー、悪くないアイデアな気がしますね」
「運動部の大会出場時でもないのにあんまり特定の個人についての記事は……」
やんわりと却下されてしまったので、彼はそうですかと気のない返事をした。生徒会の広報という立場ではあんまりゴシップめいた記事は書けないものらしいと彼は納得する。
「そういえば、先輩は何を頼むんです?」
「そうですね。お茶は……アッサムに、お菓子は、パンケーキにしようかと」
「なら、僕も同じものにしておきます」
お菓子のチョイスがダブったが、構うことはあるまいと彼は注文しようと呼び出しボタンに手を伸ばしかけたところを氷雨が止めた。
「おんなじお菓子にするのは面白くないですよ?」
「ははぁ、どうすれば面白くなるのでしょう」
「違うのを頼んで、一口ずつ交換するんです」
「ああ、女の子はそういうの好きそうですよね。先輩もそういうのがお好みですか」
「いえ、そうではなくて」
「そうではなくて?」
「あーん、ってし合えるじゃないですか」
「……先輩は想像力豊かですね」
「桜井君が、貧困なんです」
彼は顔が赤くなるのを隠すように、窓の外を見やる。相変わらずの雨模様だが、今なら少し濡れてもいいんじゃないかと思えてきていた。そんな彼の様子を、彼女はクスクスと笑いながら見ていた。彼は彼女の掌の上である。
「……わかりましたよ。それならこのモンブランにしておきます」
「そうですか。ふふ、なら、どちらも楽しみですね」
「……そういうことに、しておきましょう」
店員を呼び注文を伝え、店員が離れたのを確認してから、彼女はふてくされたようにしている彼にちょっかいをかけ続ける。猫を構うような構図で、彼が時折嫌そうに頭や手を振るのも飼い猫らしい素振りであった。男らしい行動がいまいち取れない自分はどうなのかという気持ちが彼にないでもなかったが、どうしたって彼女に勝てそうな気配はないので、何かチャンスが訪れるまで待つ、そういうことらしかった。
「桜井君は、髪がさらさらしてますよね」
「細いんで、癖はひどいし、よく抜けるんですよ。将来ハゲますね、僕は」
「随分悲観的ですね」
「自分の将来像のハードルを下げていると言ってください」
「あんまり変わってないです」
「それに、綺麗な髪といえば先輩じゃないですか」
自分の髪を触ろうとしきりに伸びてくる手を払い、彼は反撃のつもりでそんなお世辞を口にする。事実彼女の黒髪は絹のように滑らかで、艶やかな烏羽色をしているので、結局本心からの讃辞になってしまうので彼はいまいち面白くなかった。
「桜井君の好みに合って、嬉しい限りです」
「……先輩は、男殺しですねえ」
「桜井君が、ちょっと弱すぎるんです」
「さようですか」
ああ弱いさ、と彼は開き直るのを堪えた。そんな風に居直っても好転するわけがないからである。彼は口数を絞って、程なく運ばれてきた紅茶をそっと啜る。
「……流石にペットボトルとは違いますねえ」
「比較対象が低すぎませんか?」
「いや、それがですね」
彼の心からの感想だったのだが、呆れたような目で見られてしまった。これはいけないと彼はは何となく墓穴になりそうな予感をしながら言葉を続ける。
「ティーバッグのそれとは、区別がつかないんですよ」
「桜井君は貧乏舌ですねえ」
「将来模範的なプロレタリアになって、ブルジョアを放逐するのが夢なんです」
「過激ですね」
そうとも過激だとも。彼はそんな返事を紅茶と共に飲み下した。実際、家でたまにいれるティーバッグの紅茶とどのあたりが違うのかいまいちわからないが、向かいで同じものを飲んでいる彼女が楽しそうなので、まぁ美味しいのだろうと思うことにした。今度あの小柄な彼に紅茶について教わったほうがいいかもしれない、そんなことも脳裏に浮かび、遅れて運ばれてきたお菓子に目をやる。実に甘そうな見た目をしていた。
「先輩のは華やかですね」
「桜井君のは、かわいらしいですね」
厚い生地のパンケーキに、クリームとフルーツが乗っかり、その上にシロップとキャラメルソースが躍っている。甘味の牙城といえた。食いではありそうだが、あれを頼んだら自分の場合確実に持て余すなぁ、と写真と実物の印象の違いに彼は恐怖する。
そうしてから自分に運ばれてきたそれに目を落とせば、マロンクリームが実にお行儀良くタルト生地の上に乗っかている。紅茶との相性もよろしそうに思えた。彼は彼女の行動に若干の感謝を覚えた。
「さぁ桜井君。ひとくちあげましょう」
「本当にやるんですかそれ」
フォークに刺さったパンケーキの欠片を、まさかこうして見ることになろうとは。風景写真の光景を実際に見に行ったような感覚だと、彼は半ば現実逃避じみた感想を抱いた。自分がこんな光景を第三者として見ていたらどう思うだろうか。このバカップルめなどと毒づくぐらいのことはしたかもしれないが――それはつまりそんな風に今周囲から見られているというわけで――呑気している場合ではなさそうだと、彼は否応なく現実に引き戻される。しかし、どうしたものか……そんな風に葛藤していると、いつまでも食いつかない彼に痺れを切らしたのか、彼女は若干顔を赤らめる。
「そんな風に緊張されると、私まで変な気分になってしまいます」
「まさかこれで緊張しないとか思っていたんですか」
「いいから食べてください」
「いやフォークは危な」
むぐ。彼の言葉は口内に飛び込んできたパンケーキ及びフォークで塞がれる。舌と口を傷つけなかったのは恐らく幸運によるものだろう。なんてことをするんだ、と彼女を睨み付ける彼だが、口の中にものが入っている状態で睨んでも迫力なぞ出るわけもない。大人しく紅茶で流し込む。
「今のはどうなんですか先輩」
「コントロールには自信があります」
「嘘を言いなさい」
「そんなことより」
「ああ流されてしまった」
「お返しをください」
「やっぱりそうなるんですね」
そうなってしまったので、仕方なく彼は自分のモンブランを切り分ける。タルト生地の一部が砕けて早速全体像としては無残を遂げたが、どうせこんなものは綺麗に食えるわけがないのだと彼は早々に開き直り、欠片をフォーク……に刺すと砕けるので、スプーンを使って掬い上げる。この際に欠片は横転したのでより無残となる。
「桜井君は不器用ですねえ」
「放っておいてください。はい、口をあけて」
「言い方がありますよね?」
「自分の時はやらなかったじゃないですか!」
「だって恥ずかしいじゃないですか」
「今それをやらせようとしているんですよ」
「いいじゃないですか」
「よくないです。いいから口をあけてください恥ずかしい」
「やってください」
「……あ、あーん」
「あーん」
根負けして恥ずかしいことを言わされることに歯噛みしながら、彼は彼女の口内にモンブランの欠片を放り込む。彼が脳内に描いたイメージとしては機関車に石炭を放り込むようなイメージであり、少しのロマンスも無かったが、彼女は満足していたようだった。
「どっちも美味しいですね」
「……何よりです」
彼は自分の赤面は最早隠しきれそうにないな、とあきらめ、それでも表向きは平然を保つようにしきりに紅茶を口に運んだ。カップと手で顔が隠れるのでちょうどいいし、食べるのに夢中だということにしておこう。……という彼の考えは、向かいの彼女に丸わかりであったし、彼も何となくそうなのではないかと思っていたが、今更どうにもならないと諦めている。彼女はそんな様子の彼を眺めるのが面白いらしく、上機嫌そうな表情を隠そうともしない。しばらくそんな調子で二人とも黙っていたので、しばらくの沈黙が二人に訪れる。音がするといえば、食器の音とか、そういったものだ。
「……先輩は」
その沈黙を破ったのは、意外なことに彼の方である。小ぶりなモンブランを早々に食べ終えた彼は、ようやく赤さの抜けた顔を外に向けて話しかける。彼女もそれに何か切り出されると感じ取ったのか、食べるのを中断した。
「僕のどこが好きになったって言うんです。面白味のない男ですよ、僕は」
「……それは本気で言っているんですか」
彼としては真面目に話したつもりだったらしいのだが、返ってきた返事は呆れ声である。彼女は眼鏡をかけなおす仕草をしながら「いいですか」と前置きして話す。
「桜井君は、何より、可愛いじゃないですか」
「可愛い」
「あと、さわり心地もいいですね」
「さわり心地」
「面白味がないどころか、一々可愛く反応してくれて、とても嬉しいです。大好きです」
「……先輩に勝てないということは、わかりました」
「よくできました」
がっくりと項垂れる彼に、彼女はどこか得意げになって、その頭を撫でてやる。小さく呻くのが何とも愉快で面白い――本当に、楽しい恋人だと、彼女は笑うのだった。
▼
『ジュピトリス』から出た後も、雨は相変わらず降りつづけていた。一つの傘に二人で入って、言いあいながら歩く。濡れる濡れると悪態をつきながらも、彼は彼女を濡らさないように努めた。それがまた彼女の琴線に触れたらしく、結局くっつくような体勢になり、それが他人に目撃されるのが嫌で彼が小さく抵抗する。
「も、もうダメだ」
「何がですか?」
「この一月で、僕の印象がいじられキャラに変化してしまっているじゃないですか」
「最初からそうだと思いますけど。現部長が元部長を弄るのが強烈すぎて影に埋もれがちではありましたが……。心覚えはありませんか」
「……知りたくなかった、そんな現実」
ショックを受けた様子の彼の背中を、彼女はどんと強く叩く。いきなりのことで咽る彼を横目に、彼女は「そうだ」と何事か思い出したように言う。
「さっき私は大好きと言ったのに、桜井君には言ってもらっていませんね」
「外で言わせる気なんですか」
「屋内にいる内に言わなかった桜井君が悪いんです」
「ずるくないですかそれ」
「はい、私はずるい女です」
「開き直らんでください」
だが足を止めて、はやくはやくと急かされてはどうすることもできない。だが、このままひたすら彼女に先手をとられ続けていいものか。もう散々恥ずかしい目にはあってきたし、雨の中とはいえ決して人は皆無じゃないというのも今更なことだ。少しは先輩を慌てさせてやろうと、彼は決心する。
「……大好きです、氷雨」
耳元で、彼はそんな風に囁いた。囁くために顔を近づけ、そして名前を呼び捨てにしたので、それはもう慌てるだろうと彼は企んでいたのだが、返ってきたのは思いもよらぬものであった。唇に、何か柔らかいものが触れたのである。
「残念ながら、私の方がもっと好きなんですよ、文則君」
――それが唇であったということを理解するのに、彼はしばらくの時間を要した。結局、彼は彼女に勝つことも慌てさせることもできず、ただ二人でくっついて、一つの傘の中で歩くしかなかったのである。
「……ずるいですね、先輩は」
「はい、とっても」
――もう、このままでいいや、と彼は完全に諦めた。