バレンタインの恋人達
2月が訪れたことに恐怖しながら書き上げました。
いやあバレンタインは強敵でしたね。
朝から降りつづけた氷の粒のような氷雨は、放課後になっても止むことはなかった。如月の冷たい雨は、理不尽な程で、雪に変わらないことを感心してしまいそうになるほどだ。こんなに遠慮なくこの街を冷却し続けて、夜になったらまるごと氷漬けになってしまわないだろうか――。
――そんな感傷的なことを、彼――桜井文則というが――は部室の窓から外を眺めながら考えていた。旧校舎の生徒会室は古いながらも冷暖房は完備されていて、ぼんやりと外を眺め、そのまま寝てしまいかねない程には居心地の良い場所となっている。目の前のノートパソコンから目を背け、そのまま物思いに耽るのにも適している環境だと言えた。彼は瞼が重くなってくるのを感じながら、雨が霙にへと変化する様を観察しようとでもしているかのように、半目がちになって、ただぼうっとして、何事か考え事をしていた。
「――筆が、止まっていますよ」
そんな彼を咎めたのは、ほっそりとした穏やかな声だった。彼は億劫そうにしながら姿勢を正す。それというのも、その声の持ち主――楚々とした印象の女生徒で――その名を柳井氷雨というが――が彼にとって目上の人物だからである。彼女は波打つ黒髪の持ち主で、理知的な顔には知性のシンボルたる細いフレームのメガネが乗っている。豊かな身体を包装するように、厚手のカーディガンとブランケットで身を包んでいるが――それが却って彼女の包容力や穏やかさといったものを増幅させているようだった。そんな彼女に睨まれては、目下である彼に抗うすべはない。
「アイアイ、マム。再開しますよ」
精々が、不真面目な返事をするぐらいであり、彼は観念したようにノートパソコンの画面に視線をやった。原稿用紙の半分ほどが空白で、彼はその埋まらない空白に辟易したように息を吐いた――何も彼が作文の宿題で詰まっているなどという微笑ましい理由などではなく――それはこの彼の所属する部活動の活動内容に因むものであった。
彼の属する校内環境部は生徒会の外局であり、広報である。主な活動は広報作りで、やっていることは他校における新聞部である。生徒会印の校内新聞を作るのが彼らの仕事であり、紙面を少しでも彩り豊かにするために、漫画研究会及び文芸部とは協力関係にあった。すなわち、漫画と小説の連載である。人はそれを、黒歴史の保存と呼ぶのだが――彼ら自身の書く記事やらコラムは埋もれてそこまで目立たないので変な文章を書かない限り安心という、何やら腹黒い意図が透けて見える程だ。今回彼が困っているのは、コラムを書く担当の週なのに書くことがないということで、先ほどから手が止まっている。マムにもう一度どやされる前に書いているフリだけでも再開しなければ――。
そんな風な、不真面目なことを彼が考えていると、小さな雷鳴が再びとどろいた。
「何か不埒なことを考えてはいませんか」
「滅相もないです」
どうあっても逃避はできなさそうだと観念した彼は、伸びをしつつ大儀そうに立ち上がった。不審の目を振り払って、彼は部屋の隅にある電気ポッドの前まで歩いていく。一歩ごとに意識が溶けてしまいそうになる立ちくらみの感覚を押し殺して、そう広くもないはずの旧生徒会室の隅に辿りつく頃には大きな欠伸を一つし、眠い眼を擦りながらポッドに水を入れて、スイッチを押す。この間にわけもなく両者が無言であったのが、猶更彼を眠たくさせた。意識はすでにコラムから離れている。しかし現実ははいそうですかと彼を仕事から解放したりはしてくれない。なので、コーヒーで無理矢理己を奮起させようと結論するのは、彼のおなじみの行動の一つであった。
「……先輩は、何か飲みますか」
「それなら、カフェオレをお願いします」
湯が沸くのを待つ間、彼はどうにか目の前の少女が自分のコラムの監督のことなど忘れてはくれないものかと期待して、適当な雑談を投げかけていく。
「今日は元部長と現部長はどうしたんですか」
「恋する乙女は止められない、だそうです」
とってつけたような話題を、彼女はそっけなく返した。彼もそうですか、と返事をすることしかできずに、何とはなしに肩を落とす。話題の選択が失敗だったのだ。この校内環境部で、現部長が部室にも現れず行方知れずともなれば、元部長を追いかけているに決まっているというのが共通見解になってからもうしばらくたつ。現部長は非常に行動的な人物で、外見での淑やかさをすべて捨てるように猪突することで知られており、ついたあだ名が残念美人であった。引退した元部長とは入学当初からの仲で、せんぱい、せんぱいと呼んでは彼の後をついていくのがお馴染みの光景であったが、彼が引退してからというものの彼女のアプローチは過激さを増すばかりで、部員一同は止めることもできず嘆息が積み重なるばかりであった。
そう、彼の選んだ話題は、明日の天気よりも取るに足らない、わかりきったものだったのである。これではいけないと、彼はこめかみを揉みながら言葉を探す。
「それなら、サージェントとバイカーは」
咄嗟に出てきたのは、やはりこの場にいない人物のことであった。軍曹、そしてバイク乗り。どちらもそれぞれの趣味に因んだ名前である。勿論、彼がつけた勝手なものだ。彼女は小さくため息をつき、読んでいた文庫本を閉じて、眉間にしわを寄せながらポッドを前にぼんやりしている彼を睨みつけた。
「人に勝手なあだ名をつけるのはやめなさい。桜井君。大体、それならあなたはプライベートですか」
「アイ、マム」
「さっきも言おうと思いましたが、私は先輩であって上官じゃありません」
「似たようなものじゃないですか」
乾いた笑いをしながら、彼は沸いた湯をマグに注いでいく。マグの中にはインスタントコーヒーと、顆粒のカフェオレがそれぞれ入っており、立ち上る香りはまごうことなき安物である。どうせ部費で買える嗜好品はこの程度が関の山で、さほどグルメではない二人には別段不満などはなかった。舌が肥えることは罪深いと彼は毎回自慢げに話すが、目の前の少女は私が貧乏舌仲間だと言いたいのですかと睨み付けるため、彼はその口癖をぐっとこらえて、テーブルに二つのマグを置く。
「ああ、ありがとうございます。……ええと、それで、あの二人ですけど、用事があるとかで帰りましたよ。それに、あの二人には仕事はありませんからね」
「ええそうですね。僕以外の原稿は出そろってあとは印刷するだけですからね」
しまった自分の首を絞めた、と彼は苦虫を潰す思いでコーヒーを飲みこむ。苦い液体が口の中に広がり、眠気を脳髄の隅へと追いやっていく。彼はカフェインが補充されたことに少しの安心感を得ながら小さく息をつき、白い原稿用紙を睨みつける。
「とにかく、頑張ってください」
「アイアイ、マム」
「ですから」
「軽口ぐらい許してくださいよ」
彼は力なく笑いながら、しばらく原稿用紙を睨み付けたままでいたが――程なくして、緩慢ながらも手が動き出した。難産にはなるだろうが、きっと完成はするだろう。その様子を見て柳井は小さくため息をついて、手元の文庫本を再び開き――それからしばらくは、沈黙が旧生徒会室を支配した。
*
彼が大きな息をつきながら原稿を完成させたころには、降りつづける氷のような雨は、実際に氷混じりのものになってきていた。分厚い雨雲に隠れていた太陽は顔を出すことのないまま沈み、辺りは非常に暗い。
「お疲れさまでした」
柳井が文庫本を閉じて、微笑みを湛えて彼を労うと、彼はもう一つ大きくため息をつきながら机に突っ伏した。あれから黙々と彼は取り組んでいたが、それはアイデアが急に降って湧いたというわけではなく、魂を削るような思いで無理矢理に捻りだしたわけで、彼は外見以上に疲れていた。そのため、返事もぐったりとしたものになる。
「本当に最後まで監視していきましたねぇ……そんなに信用ありませんかね?」
「桜井君は、今日が何の日か覚えてないんですか?」
「……何かの祝日でした?」
柳井の呆れたような声に彼は顔だけ上げて、定まらぬ視線を泳がせ、カレンダーを見つける。日付には2月の14日とある。製菓業界のお祭りの日であり、自分には無縁の行事であるというのが彼の認識であった。
「鈍い人ですね」
くすり、と柳井が笑みを浮かべて彼に包装された長方形の包みを手渡す。彼はそれをぼんやりしたまま受け取ろうとして――伸ばした手は空振りした。彼女が直前でその手を避けたからである。猫じゃらしじゃないんだから、と彼は首だけでなくようやく上体を起こして、何やら悪戯っぽく笑っている彼女に目を向ける。
「義理チョコってやつですか」
「さぁ、どうでしょうか」
「はぁ、であれば、それはなんでしょう?」
「ふふ、なんだと思いますか?」
「はぁ……?」
要領を得ない話に、彼はがりがりと頭を掻いた。目の前の、よく見知った人物が急に知らない誰かに変わってしまったようですらある。何が起こっているのかよく理解できないまま、とりあえず彼は眠気を追い払おうと伸びをして、ようやく半目がちだった目をはっきりと見開いた。鮮明に彼女の顔を改めてみれば、なるほど綺麗な人だと、変な風に合点がいってしまったが――それはこの距離のせいか、と彼は無難なところに落ち着いた。
「あなたの行動次第で、この贈り物の意味合いは変化する、ということです」
「何かの心理ゲームになってきましたね」
「面白い趣向でしょう?」
「……ええ、まぁ」
彼は曖昧に頷いたが、眠気を追いやってみても状況が掴めずにいた。どう振舞えばいいのかわからず、曖昧な振る舞いをせざるを得ない。こんな態度をとり続けていれば彼女の機嫌を損ねてしまいかねない恐れがあることは明白で、それは彼としても避けたいところであった。だが、どうすればいいのかがわからない。彼は慎重に言葉を選びながら話すことにし、時間を稼ぎながら対処法を考えるつもりでいた。
「ゲームということなら、それは景品ということですね」
「そうなるかもしれませんね」
「で、僕の振る舞いでソレはもつ意味合いを変えるんですよね」
「ええ、その通りです」
彼女の微笑みは崩れず、彼は少しずつ考えをまとめていく。恐らく、これまでの彼女の口ぶりから、あれはチョコーレートであることは間違いないのだ。それで、義理なのかそうでないのかは自分の振る舞いによって変化する――そこまでは間違いがないはずだ。では、どう変化していくのか。それが焦点になる――そう至った彼は、さらに質問を重ねる。あまり冗長に質問で時間を稼いでいくのは得策ではないと判断した彼には多少の焦りがあった。どうあれ、今後の学生生活をのんびり続けていくにあたって、目の前の先輩の機嫌を損ねることは大なり小なり面倒になると確信していたからだ。
「では、ソレがもつ最大の意味合いってなんでしょう」
「わかっているのではないですか?」
「自惚れていると笑われたくないと思って」
「笑いませんよ。ええ。……そうです、最大は、本命、です」
「……ははぁ、それは」
彼が何となく頭の中で除外していた答えは、しかして彼女自身の口から出てきてしまった。それも、微笑みはそのままに、すっかり頬を紅潮させ、少しうつむき加減になって、という乙女らしい状態で、である――となると、彼は覚悟を決めるしかないが、どうしたものだろうと冷や汗をかく。ここまできたら、彼女に恥をかかせるわけにはいかない。しかし、要するに、彼女が求めてきているということは、これを受け入れるつもりならばこっちから口説けと、そういうことであり、勿論女性経験なんてものがない彼には極めて難しいものであった。
「僕は察しの悪い人間です。機を見るに敏であることが求められる記者にはまるで向いてない性分ですが――。ここは、居心地の良い場所だと、思っていました」
覚悟を決め、まずは迂遠な導入から。彼女は火照った頬を隠すように俯きながら神妙に、続く彼の言葉を待つ。彼女自身、自分がひどく意地悪で、そして七面倒なことを要求しているという自覚はあった。それでも、素直にチョコレートと共に思いの丈を吐き出すことができずに、そうなったのだ。彼としては、そんな彼女の心をできるだけ傷つけないようにしなければならない。言葉を操って――自分から彼女を求めるように、しなければならなかった。実際彼は混乱しながらも舞い上がっていたし、思わぬ好機に浮き足立つ心持であったが、今は冷静に、言葉を探っていく。
「だから、居心地の良い場所のままであってほしくて――現部長の溜息も、弱気になった表情も部員としてはあまり、見たくないわけで――元部長にプレッシャーを与えることができるなら――僕としては」
段々と、核心に迫っていく。彼は自分が言葉を捜し、話していく最中で、段々と自分が今まで意識していなかったことを、ようやく理解してきていた。自分がよく目で追っていた人物は誰だったか――誰と同じ空間にいれば、嬉しかったのか――そんなことを、ようやく自覚しはじめていた、ここまで追い込まれなければ、認識すらしなかったのかと――
「――一番無縁そうな僕が、氷雨さんの隣にいれば、あの人も観念してくれるのかなって思います。――それだけが理由じゃあなくて、ずっと見ていて――これから、今日みたいに、ずっと近くにいてくれないかな、って思います――好きです、氷雨さん」
緊張から、焦りから――考えている言葉は口に出るまでに混乱した、ものの――彼は、はっきりと言い切った。言っている最中から赤かった頬は、言い切ることには耳まで真っ赤になってしまっている。声も、震え気味だった――が、それを受け取る彼女もそんな調子で、小さく涙まで浮かべながら、そっと頷いた。
「ごめんなさい、意地悪をしすぎ、ましたね。私の方から言い出せばよかったのに。勇気が出なくて。……うん、こんな私でよければ、一緒にいさせてください。好きです――文則君。これ、受け取ってくれますね?」
改めて、おずおずと差し出されたソレを、彼は緊張した面持ちで受け取った。まだ開封してもいないそれは、不思議と甘い芳香を放っているように彼は感じた。
「外、まだ雨が止みません、ね」
「……一緒の傘で、帰りますか」
「……いい、ですね」
顔を合わせて、二人は小さく笑う。単純なことを、ひどく遠回りしていたものだとおかしくなったのだ。――最初から、二人ともこうしているのが望みだったのだから。
「私のチョコは、甘いですよ」
「――そうかも、しれませんね」
それはきっと――今まで経験してきた何よりも、甘いものになるだろう。




