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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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第七話 侍女長ヘルミーネの歓迎

毎日5話ずつ、07:30 / 12:30 / 17:30 / 19:30 / 21:30 に更新予定です。

面白かったら評価やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。

「奥方様、少しよろしいでしょうか」


朝食が終わって間もなく、ヘルミーネが部屋を訪ねてきた。


「この城の慣習についてお伝えしたいことがあります」


部屋の椅子に向かい合って座った。ヘルミーネの姿勢は真っ直ぐで、手は膝の上に揃えられている。


「この城では、染め物はおこなっておりません」


「はい、存じております」


「生活用品は全て生成りか灰色でございます。調度も、衣服も、備品も——それがこの城三十年のやり方です」


三十年。


イレーネはその言葉の重さを、一瞬かみしめた。


三十年というのは、今の自分の年齢より長い。この城の使用人の多くが、色のない暮らしの中でしか働いたことがないということだ。


「承知しました」


「それから」とヘルミーネは続けた。「使用人への指示は、まず私を通していただければと存じます。城の運営には慣例がございますので」


「もちろんです」


「以上です」


ヘルミーネが立ち上がろうとしたので、イレーネは静かに言った。


「一点だけ。辺境伯様から、城内のことは任せると仰っていただきました。染めることの許可もいただいております」


ヘルミーネが、ほんの少し動きを止めた。


「……辺境伯様は、大らかな方でいらっしゃいますので」


「ありがとうございます。ですのでご安心いただければ」


「私が申し上げたいのは」とヘルミーネは言葉を選ぶように言った。「染め物は、この城では必要とされておりません。使用人たちもそのことを弁えております」


「そうですか」


「余計な混乱が生じなければ、と思っております」


混乱、という言葉。


この人は何かを守ろうとしている、とイレーネは感じた。城を。城のやり方を。三十年間続けてきた何かを。


意地悪ではない。怖いのだ。


変わることが。あるいは、変えることで何かが起きることが。


「分かりました。ご心配をかけないよう努めます」


ヘルミーネは頷き、部屋を出ていった。


扉が閉まると、イレーネは椅子に深く座り直した。


やりづらい、とは思う。でも正直なところ、ヘルミーネの言いたいことは分かる。新しく来た者が、長年の慣習を変えようとすることへの警戒心だ。それは自然なことだ。


ただ、染めることを止めるつもりはない。


許可はもらった。方法を考えればいい。


廊下に出たとき、若い女性とほぼぶつかりそうになった。


「あっ、申し訳ございません!」


丸い目をした、二十歳前後の娘だ。生成り色の仕着せを着ているが、ヘルミーネと違って背中が丸い。少し慌て者の気配がある。


「大丈夫ですよ」


「あの……奥方様ですよね」


「はい」


「わたし、侍女としてご奉仕することになりました。リゼッテと申します。よろしくお願いします!」


ぺこ、と大きく頭を下げた。勢いがあって、少しかわいらしかった。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


「さっき、ヘルミーネ様と話しておられましたよね」とリゼッテは声を低めた。「怖かったですか、ヘルミーネ様。わたし、いつも怖いんですけど」


「少し緊張しました」


「ですよね!」


廊下の壁を背に並んで立った。リゼッテの話し方はまっすぐで、隠し事をしなさそうだった。


「ヘルミーネ様は悪い人ではないんです。ただ……この城のことが、とても大事なんだと思います。ずっといらっしゃるから。もう三十年以上らしいです」


「三十年以上」


「辺境伯様がお生まれになる前から、ここにいると聞きました」


三十年以上。クラウスが生まれる前から、この城にいる。


ヘルミーネにとって、この城の三十年間のあり方こそが「本物」なのだ。色のない城が、彼女の守ってきたものだ。


「クラウス様のことは……辺境伯様のことは、どんな方ですか」


「無口で、怖そうで……でも不思議と怖くないんです。笑ったお顔を、誰も見たことがないらしいですけど」


「笑ったことがないのですか」


「見た人がいない、という話で……そんなことはないと思うんですけど。どうなんでしょうね」


リゼッテは少し首を傾けた。


「奥方様がいらっしゃったから、もしかしたら笑うようになるかもしれませんよ」


「さあ、どうでしょう」


イレーネは答えながら、廊下の奥を見た。


夫の笑顔よりも今は、地下蔵の扉が気になっていた。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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