第五話 辺境伯クラウス
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「あなたが、新しい辺境伯夫人か」
廊下の奥から声がした。
振り返ると、一人の男が立っていた。
灰銀の髪。深い灰青の瞳。背が高く、体の線が引き締まっている。服は軍人のそれに近い、装飾のない暗灰色の上衣だ。表情は動かない。石のように静かな顔だった。
案内していた使用人頭が小さく頭を下げた。「辺境伯様」
「……」
男は答えなかった。ただイレーネを見ている。
これが夫となる人——グラウエン辺境伯クラウス・フォン・グラウエンだ。
「はじめまして。イレーネ・フォン・リンデンと申します」
イレーネは礼を取った。声は落ち着いていたと思う。少なくとも、手が震えてはいなかった。
「……ああ」
短い返事だった。クラウスは一歩近づいた。
近くで見ると、年齢は二十代の半ばほどか。噂通り寡黙だということは、最初の三秒で分かった。
「染色師だとは聞いていなかった」
声のトーンは穏やかだった。責めている色ではない。ただ、事実として言っている。
「申し訳ございません。実家の方で……伝えなかったようです」
「構わない」
また短い。イレーネは少し間を置いて、決めた。
今だ。聞くなら今しかない。
「辺境伯様。一つお願いがあります」
「言え」
「染めることを、お許しいただけますか」
沈黙が落ちた。
クラウスはイレーネを見た。動かない顔の中で、目だけがわずかに動いた気がした。「染色師だと聞かなかった」と言ったときとは違う何かが、一瞬その瞳に過ったように見えた。
だが次の瞬間には、また石のような表情に戻っていた。
「……城の中のことは任せる」
それだけ言って、クラウスは廊下を歩いていった。
イレーネは少しの間、その背中を見ていた。使用人頭が「ご覧の通り、辺境伯様は無口でいらっしゃいます」と静かに言った。
「任せる、というのは、許可をいただいたということでよろしいでしょうか」
「……おそらくは」
「ありがとうございます」
夕食は大広間で行われた。
クラウスが上座。イレーネがその隣。副官のフリッツという若い男が向かいに座っている。他は使用人が控えるだけで、会食の参加者はその三人だった。
「フリッツと申します。辺境伯の副官として仕えております。ご不便なことがあれば何でもお申し付けください」
フリッツは丁寧に礼を取った。三十前後の、人懐こそうな顔をした男だ。こちらはよく喋る。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
しばらく食事が進んだ。
クラウスは黙々と食べている。会話をしようとする気配がない。フリッツが時折「今年の秋の収穫は良い見込みで」「北の山道が先月補修されました」と当たり障りのない話を差し挟むが、クラウスは短く「ああ」「そうか」と返すだけだ。
イレーネは食べながら、夫の横顔を観察した。
怒っているのではない。冷酷な印象もない。ただ——静かだ。何かを考えているのか、あるいは何も考えていないのか、顔からは読み取れない。
「辺境伯様は、色はお好きですか」
気づいたら口から出ていた。
クラウスが初めて、こちらに顔を向けた。
「……色」
繰り返した言葉には、戸惑いがあった。色という概念を、どう扱えばいいか分からないような顔だ。
「好きか嫌いか、考えたことがない」
「そうですか」
「あなたは好きなのか」
「はい」とイレーネは答えた。「染色師ですから」
「……そうか」
また静かになった。
フリッツが「辺境伯は寡黙ですが、悪い人ではないので、どうかよろしくお願いします」と小声でイレーネに言った。
夕食が終わり、自室に戻る廊下で、イレーネは今日の会話を思い返した。
許可はもらえた。染色はできる。
この人がどんな人なのかは、まだ分からない。好きか嫌いか考えたことがない、という答えは、正直だと思った。
——もし一度でも、鮮やかな色を見たことがあれば。
好きになっただろうか、と思いながら、廊下を歩いた。
割り当てられた部屋は、広かった。
壁も床も天井も、全て石と漆喰の白灰色。調度は整っているが、装飾がない。窓の外には中庭が広がり、石畳が月光を鈍く反射している。色のない部屋に、色のない夜景だ。
イレーネは荷物を開き、色見本帳を取り出した。嫁ぎ先で一番最初に手を伸ばしたのがそれだったことに、自分でも気づいていた。
帳面を枕元に置く。これがここにある限り、百二十四の色がある。
「明日、工房になりそうな部屋を探そう」
声に出して言うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
やるべきことがある。染めたい色がある。ならば、ここでの日々もきっと、どうにかなる。
窓の外の灰色の中庭を見ながら、イレーネはそう決めた。
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