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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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第五話 辺境伯クラウス

毎日5話ずつ、07:30 / 12:30 / 17:30 / 19:30 / 21:30 に更新予定です。

面白かったら評価やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。

「あなたが、新しい辺境伯夫人か」


廊下の奥から声がした。


振り返ると、一人の男が立っていた。


灰銀の髪。深い灰青の瞳。背が高く、体の線が引き締まっている。服は軍人のそれに近い、装飾のない暗灰色の上衣だ。表情は動かない。石のように静かな顔だった。


案内していた使用人頭が小さく頭を下げた。「辺境伯様」


「……」


男は答えなかった。ただイレーネを見ている。


これが夫となる人——グラウエン辺境伯クラウス・フォン・グラウエンだ。


「はじめまして。イレーネ・フォン・リンデンと申します」


イレーネは礼を取った。声は落ち着いていたと思う。少なくとも、手が震えてはいなかった。


「……ああ」


短い返事だった。クラウスは一歩近づいた。


近くで見ると、年齢は二十代の半ばほどか。噂通り寡黙だということは、最初の三秒で分かった。


「染色師だとは聞いていなかった」


声のトーンは穏やかだった。責めている色ではない。ただ、事実として言っている。


「申し訳ございません。実家の方で……伝えなかったようです」


「構わない」


また短い。イレーネは少し間を置いて、決めた。


今だ。聞くなら今しかない。


「辺境伯様。一つお願いがあります」


「言え」


「染めることを、お許しいただけますか」


沈黙が落ちた。


クラウスはイレーネを見た。動かない顔の中で、目だけがわずかに動いた気がした。「染色師だと聞かなかった」と言ったときとは違う何かが、一瞬その瞳に過ったように見えた。


だが次の瞬間には、また石のような表情に戻っていた。


「……城の中のことは任せる」


それだけ言って、クラウスは廊下を歩いていった。


イレーネは少しの間、その背中を見ていた。使用人頭が「ご覧の通り、辺境伯様は無口でいらっしゃいます」と静かに言った。


「任せる、というのは、許可をいただいたということでよろしいでしょうか」


「……おそらくは」


「ありがとうございます」


夕食は大広間で行われた。


クラウスが上座。イレーネがその隣。副官のフリッツという若い男が向かいに座っている。他は使用人が控えるだけで、会食の参加者はその三人だった。


「フリッツと申します。辺境伯の副官として仕えております。ご不便なことがあれば何でもお申し付けください」


フリッツは丁寧に礼を取った。三十前後の、人懐こそうな顔をした男だ。こちらはよく喋る。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


しばらく食事が進んだ。


クラウスは黙々と食べている。会話をしようとする気配がない。フリッツが時折「今年の秋の収穫は良い見込みで」「北の山道が先月補修されました」と当たり障りのない話を差し挟むが、クラウスは短く「ああ」「そうか」と返すだけだ。


イレーネは食べながら、夫の横顔を観察した。


怒っているのではない。冷酷な印象もない。ただ——静かだ。何かを考えているのか、あるいは何も考えていないのか、顔からは読み取れない。


「辺境伯様は、色はお好きですか」


気づいたら口から出ていた。


クラウスが初めて、こちらに顔を向けた。


「……色」


繰り返した言葉には、戸惑いがあった。色という概念を、どう扱えばいいか分からないような顔だ。


「好きか嫌いか、考えたことがない」


「そうですか」


「あなたは好きなのか」


「はい」とイレーネは答えた。「染色師ですから」


「……そうか」


また静かになった。


フリッツが「辺境伯は寡黙ですが、悪い人ではないので、どうかよろしくお願いします」と小声でイレーネに言った。


夕食が終わり、自室に戻る廊下で、イレーネは今日の会話を思い返した。


許可はもらえた。染色はできる。


この人がどんな人なのかは、まだ分からない。好きか嫌いか考えたことがない、という答えは、正直だと思った。


——もし一度でも、鮮やかな色を見たことがあれば。


好きになっただろうか、と思いながら、廊下を歩いた。


割り当てられた部屋は、広かった。


壁も床も天井も、全て石と漆喰の白灰色。調度は整っているが、装飾がない。窓の外には中庭が広がり、石畳が月光を鈍く反射している。色のない部屋に、色のない夜景だ。


イレーネは荷物を開き、色見本帳を取り出した。嫁ぎ先で一番最初に手を伸ばしたのがそれだったことに、自分でも気づいていた。


帳面を枕元に置く。これがここにある限り、百二十四の色がある。


「明日、工房になりそうな部屋を探そう」


声に出して言うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。


やるべきことがある。染めたい色がある。ならば、ここでの日々もきっと、どうにかなる。


窓の外の灰色の中庭を見ながら、イレーネはそう決めた。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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