第三話 北の街道を行く馬車
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王都を発って三日目。
窓の外の景色が、少しずつ変わっていった。
最初の日は、南部の農地が続いた。温暖な土地に育つ染料植物——茜の赤い葉、黄蘗の黄色い皮、藍の深い青。それらが畑の端に植えられているのを見るたびに、イレーネは「あれは藍だ、あそこのは茜だ」と心の中で声に出した。
二日目は、交易路に入った。道の両脇に商人の荷車が並び、色とりどりの染め布が風に揺れている。赤い旗を掲げた行商人、青い荷包みを積んだ馬車、黄色い傘の屋台。世界は色で満ちていた。
そして三日目。
「……」
イレーネは窓から目を離せなかった。
人々の服が、いつのまにか生成りと灰色だけになっていた。
街道沿いの家々も、石造りの壁が多くなり、木の飾りがなくなっている。市場の露店を覗いても、並んでいるのは食料と農具ばかりで、染め布を売る店が一軒も見当たらない。
「この辺りでは色のある布が売れないのでしょうか」
独り言のように呟いた。隣には誰もいない。護衛の騎士は馬で走っており、御者は前を向いている。
イレーネは膝の上に色見本帳を広げた。
茜の朱色。藍の深青。黄蘗の黄。紫草の紫。一色ずつ指でなぞりながら、「この色はまだある」と確かめる。帳面の中の色は変わらない。どんな土地に行っても、この色たちはここにある。
師匠の言葉を思い出した。
——お前がこれを持って行けば、どこでも染められる。
「染める許可を、もらえるだろうか」
誰に問うでもなく、言葉が出た。
夫となる人——グラウエン辺境伯クラウスのことを、イレーネはほとんど何も知らない。戦場での評判は悪くないと聞いた。寡黙な人だという話も耳にした。だが「灰色の城」の主が、嫁の染色を許してくれるかどうかは、分からない。
「少なくとも、聞いてみよう」
そう決めた。断られたら考えればいい。染色師として、しなければならないことがある。
馬車が山道に差し掛かった。
視界が開けて、北の山並みが見えてくる。石灰岩の白い岩肌、針葉樹の深い緑——山だけは色があった。自然は、どんな土地でも色を持っている。
だが山裾の集落に目を向けると、やはり人々の衣服に色がない。子供でさえ、生成りの麻を着ていた。
色のない暮らしを、この土地の人々は当たり前にしている。
イレーネには、その当たり前が、少し怖かった。
——色を失うことに、人は慣れてしまうのだ。
昨夜泊まった宿場の食堂でも、そう感じた。
木のテーブル、陶器の皿、麦のスープ——どれも実用的で、色のない道具だ。隣の卓に若い夫婦が座っていた。女の子に結い上げた深茶の麻布を見て、イレーネは思わず「あれは——」と息をのんだ。染料ではなく、自然な汚れで茶色く変色した布だった。
食堂の女将が「北の方へ行かれますか」と声をかけてきた。
「はい、グラウエンまで」
「はあ、そりゃあ遠い。ここから先は色のある布をお召しでいると、なんとなく目立ちますよ。悪い意味では……まあ、そういうもんで」
女将は苦笑して、それ以上は言わなかった。
色のある服が「目立つ」。普通のことが普通でなくなる境界が、宿場にはすでにあった。
馬車が急な坂道を登り始めた。揺れが大きくなり、イレーネは色見本帳を荷物に戻した。窓の外を見続けると、頭が揺れて疲れる。長旅の三日目は、体が少し重い。
山の空気が冷たくなってきた。
王都の工房とは別の空気だ。澄んでいるが、薄い。喉が少し痛む気がするのは、気のせいだろうか。
坂を登り切ると、御者が「奥方様、見えてまいりました」と声をかけた。
イレーネは窓から身を乗り出した。
山の稜線を背景に、石造りの城が立っている。
灰色の城壁。灰色の塔。旗竿はあるが、旗が上がっていない。城を囲む木々も、秋に向かっているのか、葉の色が褪せ始めていた。
「あれが……グラウエンの城」
本当に、一色もない。
頭で分かっていたが、実際に目で見ると、胸に重いものが落ちた。
城が近づいてくる。馬車が城門へ向かって、石畳の道を走り出す。
イレーネは荷物の中の色見本帳に、そっと手を置いた。
続きもこのあと更新されます。よければ次話もどうぞ。




