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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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第二十七話 ヨハンの師匠の木

「案内してやる」とヨハンが言った。


旧染料園の奥、石組みの畝が終わる場所に、小さな区画があった。他の畑と少し分けられた、独立した一角だ。柵の代わりに石が並べてある。


そこに、一本の木が立っていた。


「……」


イレーネは足を止めた。


木の高さは自分の胸ほど。幹は細い。でも根元から複数の枝が出ていて、全体の形は丸みがある。葉は楕円形で、表面に光沢がある。裏面を確認すると、細かい毛が密生している。実は今はついていない——季節のせいだろうか。


「何の木ですか」とイレーネは聞いた。


「分からん」とヨハンは言った。「三十年、分からんまま守ってきた」


「王都の植物図鑑で見たことはありません」


「北の山にしかない木かもしれない。師匠は山でこれを見つけたと言っとった」


葉を一枚取って、折ってみた。切り口から、ほのかに甘い香りがした。樹液の色は透明だが、わずかに黄みがある。染料になりうる可能性はあるが、今の段階では分からない。


「褫奪令が出る前日に、師匠が植えた」


「前日に?」


「令が出るのを知っていたのか、たまたまなのか——わしには分からん。でも師匠は植えて、わしに言った。『これだけは守ってくれ』と」


ヨハンの声に、何かがこもっていた。


三十年。この老人は、理由も分からないまま一本の木を守り続けた。


「師匠はどこへ行ったんですか」


「染色師組合の命令で、王都へ連れて行かれた。グラウエンの染色師は全員」


「戻りませんでしたか」


「戻らなかった。手紙も来なかった」


長い沈黙だった。


「師匠はわしに言った」とヨハンは続けた。「『いつか必要な者が来る。その者が来たら、この木を見せてやれ』と」


「必要な者が来る」


「あんたが来た」とヨハンは言った。穏やかに、でも確信を持った声で。「わしはそう思っとる」


イレーネは木を見た。


細い幹、楕円の葉、黄みを帯びた樹液。何のための木か、まだ分からない。でも三十年前の染色師が、何かを信じて植えた木だ。


「急がなくていいですよね」


「花は季節を待つ」とヨハンは言った。「この木も、いつか実がなる。その時になれば、何の木か分かるだろう」


「分かりました。覚えておきます」


「……それでいい」


ヨハンは石組みの縁を、手で撫でた。三十年間、その手で守り続けた場所だ。


「祈り色の調合を、他の方法で探してみます」


「そうしてくれ」


「ヨハンさんが守ってくれていたから、この木はここにある」


「わしの仕事はそれだけじゃ。大したことはない」


大したことがある、とイレーネは思った。でも言わなかった。


帰り道、木の葉を一枚持ち帰った。色見本帳の挟み紙として、記録しておくために。


師匠が残したもの。三十年後に、誰かに必要とされると信じて。


その信頼に、応えたいと思った。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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