第二十四話 リゼッテの色への目覚め
「奥様、これをここに入れるんですか?」
リゼッテが恐る恐る媒染液の入った桶を覗き込んだ。
「そうです。まず布をよく絞って、それから静かに入れてください」
「絞るのはいいんですけど……この液の色が怖くて」
「ミョウバン水なので、手についても大丈夫ですよ」
「そうですか」
リゼッテは意を決したように布を握り、桶の中に入れた。
「こうですか」
「もう少し全体が浸かるように……そうです。では布を動かして、液が全体に回るようにしてください」
ゆっくりと、リゼッテが布を動かし始めた。
「なんか……布が吸い込んでいく感じがします」
「媒染が効いています。この処理をすることで、後から入れる染料が布にしっかり定着します。媒染なしで染めると、洗うたびに色が落ちていきます」
「色定めをしても落ちますか」
「色定めは染色師が魔力で行う最終工程です。でも媒染の準備なしでは、魔力を入れる土台がない。媒染は土台作り、色定めは定着の仕上げ」
「なるほど……」
リゼッテは真剣な顔で布を動かしていた。
「布を引き上げて、水気を絞ってください」
「はい——あっ!」
リゼッテの手が染液に入りすぎた。
「手が……青くなった!」
「藍液に少し触れましたね」とイレーネは言った。
「落ちますか!?」
「しばらく残りますが、洗えば薄くなります。石鹸でよく洗えば」
「奥様の手もいつも少し染まってますよね」
「職人の手ですから」
リゼッテは少し青くなった手のひらを見て、「奥様みたい……」と呟いた。それから表情が変わった。「かっこいいです! 職人の手!」
おかしくて、笑ってしまった。
「笑った」
「何ですか」
「奥様が笑いました! 工房で! 初めて見た気がします!」
そうだろうか、と思った。確かに、この城に来てから笑う機会はあまりなかった。でも今は、自然に笑えた。
「染料で手が染まることを『かっこいい』と言う人は初めてです」
「本当にかっこいいと思います。これ、色が入っているんですよね。布に入るみたいに」
「そうです。洗っても少し残るのは、皮膚の表面に染料の粒子が入り込むからです」
「職人って、体ごと仕事をしているんですね」
媒染が終わった布を染液に移した。今日は刈安で試している。旧染料園で見つけた野生の刈安を少量使った。
布が黄色に染まっていく。
リゼッテが「わあ」と声をあげた。
「きれいな黄色。でも……王都で見る黄色とは少し違う気がします」
「同じ刈安でも、この土地のものは少し色味が違います。日当たりか、土の成分か」
「奥様にはその違いが分かるんですね」
「見慣れれば分かりようになります。最初は分からなかった」
二人で布を確認しながら、廊下から笑い声が漏れていたらしい。
後で通りがかりに気づいたのだが——工房の外、廊下を歩いていたヘルミーネが、少し立ち止まった気配があった。
すぐに去っていったが。
「ヘルミーネさんが来ましたか」とリゼッテに聞くと、「気がします。でも入ってこなかった」と答えた。
工房の窓から、旧染料園の方向が見える。夕方の光に石組みが影を作っている。
誰かが笑う声は、ここからでも届くだろうか。
三十年間、聞こえなかった声が。
次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。




