第二十三話 霧朝という色の名前
翌日の朝、旧染料園でヨハンと会った。
「ヨハンさん、昔グラウエンでは色の名前をどう呼んでいたか、知っていますか」
ヨハンは草刈りの手を止めた。少し考えるような間があった。
「……茜は茜と言っとったが」
「それ以外で。たとえば、山の色は」
「山の色、か」
ヨハンは地面を見た。土に刺した草刈り鎌の柄を、両手で持ちながら。
「霧朝……だったかな」
「ヨハンさん」
「知っとるのか、その言葉を」
「地下蔵の布の裏に刺繍してありました」
「……そうか」
ヨハンは立ち上がった。石組みの縁に腰を下ろして、空を見た。
「霧朝というのは……朝の霧が山を覆う時の色だ。薄い水色とも白とも言えない、あの色。グラウエンの朝にしか出ない色だ、と師匠たちは言っていた」
「王都の色の体系にはない色ですね」
「ここの人間は、ここにある景色から名前をつけたんだよ。よそのものは使わなくていい、と言ってな」
帳面を開いて、霧朝の隣に「朝の霧・山を覆う時の色・薄水色と白の間」と書き加えた。
「岩雪は分かりますか」
「岩雪……あれは、冬に岩に積もった雪の色だな。白に灰色が混じった、薄い色。ただ普通の白とは違う。岩の冷たさがある白だ」
「夕鉄は?」
「夕方の鉄の色、だな。空が赤くなる前の、鉄みたいな青みがかった色。うまく説明できんが……見たことはある」
ヨハンは一つひとつ、考えながら答えてくれた。
「苔暮れは?」
「……それは知らんな。名前は聞いたが、どんな色かは」
「白露は?」
「白露……露の白さか。朝露が草についた時の、透き通った白。でも普通の白とは違う。少し青みがあって、光が透ける」
帳面が埋まっていった。
ヨハンの記憶は断片的だが、確かだ。見たことのある景色、感じたことのある色として語っている。色見本の帳面でいくつかの色と照らし合わせると、おおよその対応が見えてきた。
「苔暮れは……」とリゼッテが考えながら言った。「苔の色の、暮れ方、ですか? 夕方の苔の色って、どんな色?」
「夕方になると光が赤みを帯びるから、緑が橙がかって見えます。暗くなる前の、くすんだ緑」
「なるほど。それも素敵な名前」
ヨハンが「覚えていない色名の方が多い」と申し訳なさそうに言った。
「子どものころに耳で聞いていただけだから……師匠たちが何種類の色名を使っていたかも、分からん」
「十分です。ヨハンさんが覚えていてくれた分だけで、大きな手がかりになります」
「そうか」
「あとは……自分で発見するしかないですね」
「何を?」
「失われた色名の体系を」とイレーネは言った。「布の裏の刺繍を全部読み解いて、その色を染め直して、一つずつ確認するしかない」
ヨハンは少し目を細めた。「大変じゃないか」
「時間はかかります。でもやりたいんです」
工房に戻ると、リゼッテが「今日も染色の手伝いをさせてもらえますか」と言った。
「もちろん。では今日は媒染から教えましょう」
「やります!」
リゼッテの顔が明るくなった。
色名の体系を再現する。失われた景色の名前を、もう一度布の上に蘇らせる。
どれだけかかるか分からないが、始めることだけは決めた。
次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。




