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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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第二十二話 古い布の裏の文字

一枚ずつ、確認していった。


地下蔵の棚を端から順番に。布を取り出し、広げ、裏を確認する。刺繍があれば、帳面に書き写す。


「これにも」


「これにも文字が」


「こちらは……がんせつ?」


「この字は、ゆうてつ、かと」


色見本帳の余白に、発見した文字を書き付けていった。一枚ずつ記録する。表の色の残り方と、裏面の文字を対応させて書く。


一時間後。


帳面のページ半分が埋まっていた。


霧朝きりあさ」「岩雪がんせつ」「夕鉄ゆうてつ」「山藍やまあい」「苔暮れ(こけぐれ)」「白露しらつゆ」——全て、王都の染色師の体系には存在しない言葉だ。


「きりあさって、何の意味ですか」とリゼッテが言った。「花の名前みたいな」


「霧と朝、だと思います。朝霧の色——」


帳面の文字の横に書いてある布の色を確認した。その布のかつての色は、薄い水色と灰の間。光の角度によって白みが強く出る色だ。


「朝霧の色。そう言われると……なるほどです」


「王都の色名では、この色に相当するものが複数あります。水縹みずはなだとか藤鼠ふじねずみとか。でも霧朝という名前は、この土地でしか使われない言葉だと思います」


「自分たちの土地の景色から名前をつけた、ということですか」


「そうです」


リゼッテは「素敵な名前ですね」と言った。「王都の色名より情緒があります。水縹より霧朝の方が、なんか……その色の景色が見えます」


確かに、とイレーネは思った。


染色の色名は、その土地の人々が何を大切にしているかを映す。王都の色名は貴族文化と宮廷の装飾を反映した名前が多い。グラウエンの色名は、山と霧と朝の光——この北の大地の景色を写した名前だ。


「これは体系です」


独り言のように言った。


「体系?」


「ただの色の名前ではなく、体系として設計された色名です。霧朝、岩雪、夕鉄——どれも、この土地の特定の時間と景色を色に結びつけている。誰かが意図して作った名前体系だと思います」


廊下から足音がした。


地下蔵から出ると、廊下の奥にヘルミーネが立っていた。


イレーネと目が合う。


ヘルミーネは何か言いかけた。口が少し開いた。でも言葉が出てこなかった。そのまま、踵を返して廊下を去っていった。


「……ヘルミーネさん、何か言いたそうでしたね」とリゼッテが言った。


「そうですね」


「知っているんでしょうか。この色名のことを」


知っている可能性はある。三十年以上この城にいる人だ。かつての染色文化を直接見ていた可能性もある。


でも、黙った。


なぜだろう。


「次はヨハンさんに聞いてみます。霧朝という言葉を聞いたことがあるか」


地下蔵に戻り、残りの布の確認を続けた。


夕方になるまで、帳面が埋まっていった。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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