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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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第二十一話 夫の「きれいだな」

翌朝の朝食は、いつも通り静かだった。


クラウスが上座。イレーネが隣。フリッツが向かいに座る。使用人が食器を並べ、スープが運ばれる。クラウスは食事が始まると、ほとんど喋らない。それがいつものことだと分かってきた。


執務室の壁には、今も藍色の布が掛かっているはずだ。昨日染め上げた布の隣に、茜色の布も並んでいる。二枚、灰色の壁に色が生まれた。


「昨日はありがとうございました」


スープを口にしたあと、イレーネは言った。


「何が?」


クラウスは顔を上げずに答えた。


「藍の布を見ていただいて」


「……ああ」


一拍置いて、「きれいだ、と言ったか」と言った。


「はい」


「言った気がする」


言った気がする。


確信ではない、という言い方だった。「きれいだな」という言葉を、特別なものとして言ったわけではない、ということかもしれない。


「そう言っていただいて嬉しかったです」


「そうか」


クラウスはまたスープに戻った。


フリッツが控えめに「昨日の布は素晴らしかったですね。私も廊下で拝見しました。あの深さは……」と助け舟を出してくれたが、クラウスは「ああ」と一言返しただけだった。


食事が終わって、イレーネは執務室の前を通った。


扉が少し開いている。中に人はいないが、壁には茜色と藍色の布が並んで掛かっている。


二枚。


一枚目は気まぐれかと思った。でも二枚目も、クラウスが自ら壁に掛けた。聞いてもいないのに。


「何が?」と言われた。


「言った気がする」と言われた。


でも、布は壁にある。


分からない人だ、とイレーネは思った。言葉が意味をなさないように見えて、行動はある。行動の理由が言葉では説明されない。


工房に向かいながら、不思議な気持ちが残った。


怒りでも不満でもない。むしろ——もっと分かりたい、という感じだった。


この人が何を考えているのか。「きれいだな」という言葉が、どこから来たのか。


午後になって、地下蔵が気になった。


古い布をもう一度、一枚ずつ確認したい。最初に見た時は全体の量に圧倒されて、個別に細かく見る余裕がなかった。染色師の目で、一枚ずつ確認すれば、何か分かることがあるかもしれない。


リゼッテとランタンを持って下りた。


棚の布を一枚ずつ取り出して、広げる。表の色の残り方、染め方の特徴、布の質。一枚確認して、また畳んで棚に戻す。その繰り返し。


「……これは」


一枚の布を広げて、裏返した瞬間、手が止まった。


裏面に、刺繍があった。


細い針仕事で、文字が縫い込まれている。色は褪せているが、糸の跡が残っている。


「何か書いてありますか」とリゼッテが近づいた。


「文字だと思います。でも……この言葉、見たことがない」


ランタンを近づけて、一文字ずつ読む。


「きりあさ……?」


「霧朝、でしょうか」


「分かりません。でも——これは、色の名前かもしれない」

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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