第二話 嫁入り道具は染料百色
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「イレーネ、あなたの荷物には石鹸箱が一つも入っていないわよ」
姉のゲルトルートが呆れた顔で言った。
「代わりに染料が十二種類入っています」
「それが問題だと言っているの」
大広間に広げた嫁入り支度の品を、三姉妹でまとめている。イレーネは染料の瓶に丁寧に布を巻き付けながら、しれっと答えた。
「割れると大変ですので、石鹸より先に包まないと」
「優先順位がおかしいわ」
長女のカタリーナが苦笑しながらも、手伝いにきてくれた。
リンデン家の嫁入り支度は、令嬢らしく衣装と装飾品が中心だ。上質な織物、銀の食器、細工の細かい香水瓶——どれも先方への礼儀として必要なものである。
イレーネもそれらを断りはしなかった。だが、それと同量の染料と道具が、もう一つの荷物を占領している。
藍の染料瓶。茜根を刻んで乾燥させたもの。黄蘗の皮。媒染に使うミョウバンの固まり。染め桶に使う小型の鍋。目の細かい布漉し。そして、三冊の色見本帳。
「この色見本帳は置いていきなさい」と父に言われたとき、イレーネは初めて父に反論した。そのやり取りは十分ほど続き、最終的に父が折れた。
「まあ」と母のマルガレーテが笑っていた。「好きなことをやりなさいと言ったのは私なのだから、文句は言えないわね」
荷造りが一段落した夕方、師匠の工房から使いが来た。
「師匠がお呼びです」
工房に向かうと、師匠は作業台の前に立っていた。手に、一冊の帳面を持っている。
「師匠の……」
「渡す前に確認した。全部で百二十四色。この十年で集めたものだ」
師匠の色見本帳だった。
師匠自身の手で染め上げた色が、百二十四枚の布として収められた、生涯をかけた帳面。工房の棚の一番目立つ場所にいつもあったそれを、イレーネはよく「あんな帳面が作れたら」と思いながら眺めていた。
「受け取れません」
「受け取れ」
「でも、これは師匠の——」
「私はもう新しい色を作れる歳ではない」と師匠は言った。「職人の仕事は次の者に続く。お前がこれを持って行けば、どこでも染められる。この世界の色は全部、ここにある」
イレーネは帳面を受け取った。
両手で抱えると、ずっしりとした重さがあった。布の重さというより、時間の重さだ。何年もの試行錯誤が、この一冊に詰まっている。
「ありがとうございます」
声が掠れた。涙が出そうになったが、こらえた。師匠は泣かれるのが嫌いだ。
「行って来い。染めたい色があるうちは、辛くない」
師匠はそれだけ言って、作業台に向き直った。
翌朝、出立の前。母から小さな包みを渡された。
開くと、深い緑の布だった。リンデン家の紋章色——家が代々守ってきた、深い常緑の緑。
「嫁入り色よ。あなたが染めたものではないけれど、あなたがどこから来たかを示す色」
イレーネは布を手に取り、光に透かした。丁寧に染められた、均一な深緑。実家の工房の腕の確かな布だ。
「大事にします」
丁寧に畳んで、荷物の一番奥にしまった。
馬車が動き出す直前、イレーネは荷物の重さを確認した。染料の瓶が割れていないか。色見本帳が傷んでいないか。嫁入り色の布が折れていないか。
全て無事だった。
窓から城の方角を見る。まだ王都の家並みが続いている。ここを離れれば、次に戻るのはいつになるか分からない。
——でも、この帳があればどこでも染められる。
師匠の言葉が、重い荷物と一緒に胸の中にあった。
ただ一つ、気になることがある。
嫁ぎ先の城は、灰色だという。色のない土地で、染料百色はどこへ向かうのだろう。
馬車はゆっくりと、北へ走り出した。
続きもこのあと更新されます。よければ次話もどうぞ。




