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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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17/30

第十七話 媒染の調整

毎日5話ずつ、07:30 / 12:30 / 17:30 / 19:30 / 21:30 に更新予定です。

面白かったら評価やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。

試験布が、四枚並んだ。


同じ藍草、同じ沢の水、同じ工程——違うのは媒染の配合だけだ。一番目はミョウバン多め。二番目はミョウバンと灰汁の半々。三番目は灰汁のみ。四番目は木酢液を加えた特殊な配合。


光に透かして、一枚ずつ見る。


「……違います」


「本当に? 同じ染め液を使ったのに?」とリゼッテが四枚を並べて見比べた。


「媒染によって、布の内部の染料の吸着の仕方が変わります。だから色が変わる」


一番目は青みが強い。四番目は少し緑がかっている。一番良い仕上がりは——二番目だ。深みがある。でもまだ浅い。


「方向は分かりました。次はこの配合を軸に、沢の水の量を変えて試します」


記録を帳面に書き込んでいると、廊下に足音がした。


工房の窓の外を、人が通った。


リゼッテが手を止めた。「……奥様、また来ましたよ」


「誰が?」


「辺境伯様です」


窓から見ると、クラウスが廊下の外を歩いている。馬の世話に行く時の方向と、明らかに違う。馬小屋は城の西側だが、今歩いているのは北棟の工房に面した東廊下だ。


二度目、三度目だった。


最初は偶然かと思った。だが三度目になると、偶然とは言いにくい。


「……なぜ、こちらに来るんでしょう」


「分かりません」とリゼッテが小声で言った。「でも昨日も来てましたよね。一昨日も気がしますが……」


クラウスが窓の前を通りすぎようとした。


イレーネは衝動的に、試験布の二番目を手に取り、窓越しに掲げた。


クラウスが、足を止めた。


窓ガラスを通して、灰青の瞳がこちらを見た。試験布を——見た。


その目が、一瞬だけ、何かに触れるような動きをした。


次の瞬間には、また前を向いて歩いていた。立ち止まったのは、ほんの三秒ほどだ。


それでもイレーネは、手に持った布を下ろせなくなった。


「……」


「奥様」


リゼッテの声で我に返った。


「どうかしましたか」


「何でもありません」


帳面に視線を戻した。媒染の比率の計算が書いてある。数字が並んでいる。


頭に入ってこなかった。


なぜ、こんなに気になるのだろう。夫が廊下を通っただけだ。足を止めただけだ。それだけのことが、なぜ。


「仕事に戻ります」


「……はい」


ペンを持ち直す。計算を続ける。数字を追う。


四枚の試験布の記録を書き終えて、「二番目の配合を基準にする」という結論を記入した。


工程は順調に進んでいる。


ただ、クラウスが廊下を通るたびに、集中が途切れるのが困った。


「明日もこの配合で試します。リゼッテさん、また手伝っていただけますか」


「もちろんです。……あと、辺境伯様のことは気にしないでいいですよ」


「気にしていません」


「そうですか」


リゼッテは微妙な顔をして、でも何も言わなかった。


窓の外の廊下は、もうひとけがなかった。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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