第十六話 水と土の違い
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沢は城の裏手、旧染料園よりさらに奥にあった。
崖の下を流れる細い流れで、山から湧き出した水が岩の間を伝ってくる。水は透き通っていたが、岩の色が少し赤みがかっていた。
「鉄分が多い」とイレーネは呟いた。
ヨハンが桶を沢に沈めて引き上げた。「これでいいか」
「はい。ありがとうございます」
城の井戸水と、この沢の水、それから城の山の北側に湧き出している場所の水——三種類を採取した。それぞれを小瓶に分けて工房に持ち帰る。
工房で並べて光に透かすと、色が微妙に違う。井戸水は澄んで無色に近い。沢の水は薄い黄みがある。湧き水は少し白みがかっている。
「見た目だけで違いが分かりますか」とリゼッテが顔を覗かせた。
「だいたいは。鉄分が多ければ黄みが出ます。石灰質が高ければ白っぽくなります」
鉄を含む小石を水に溶かして反応を見た。沢の水が一番濃く変色した。
「鉄分が多い水は、藍の発酵に影響します。アルカリ性が崩れやすい。だから発酵が安定しなかったんです」
「難しいですね」
「慣れると感覚で分かるようになります。でも最初は実験するしかない」
沢の水を使って、先日失敗した藍の工程を再現した。同じ手順で、同じ藍草で、違う水だけで。
発酵の速度が全く違った。
「ほら、気泡の出方が違います」
「本当だ」とリゼッテが覗き込む。「なんか……生きてる感じがします」
「そうです。藍の発酵は生き物と同じです。水と温度と時間が合わさって、初めてうまく動く」
「奥様は、どうしてそういうことを全部知っているんですか」
「五年間、師匠の工房で学んだから」
「五年……」
「染色は一年で覚えられるものではないです。三年で基礎、五年でようやく自分の判断ができるようになる」
ヨハンが工房の戸口に立っていた。
「沢の水か。……そう言われてみると、昔の師匠は毎朝あそこへ桶を持って行っとったな」
「やはり沢の水を使っていたんですね」
「気にしたことがなかったが……そういうことか」ヨハンは少し目を細めた。「あの師匠は、理由を説明せずに動く人でな。見習いだったわしには分からんことだらけだった」
「でも今、分かりました」
「そうだな」
ヨハンはそれだけ言って去った。
色見本帳の余白に、今日の観察をまとめた。沢の水の成分、発酵の違い、予測される媒染への影響。文字と小さな図で記録していく。
「奥様、それは何の計算ですか」とリゼッテが覗いた。
「媒染の比率です。鉄分の多い水に合わせて、灰汁の量を調整する計算です」
「複雑ですか」
「少し複雑ですが、教えましょうか」
「是非!」
リゼッテが椅子を引いて隣に座った。
窓から差す午後の光の中、二人で帳面を覗いた。
「まず沢の水の鉄分量を基準にして……」とイレーネが説明を始めた。
この計算が合えば、次の試験は違う結果になる。そんな予感がした。
外で風が鳴る音がした。山が近いせいか、グラウエンの風はいつも少し冷たい。だが工房の中は、鍋の余熱と二人分の体温で、ほんのり温かかった。
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