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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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12/30

第十二話 工房になった空き部屋

毎日5話ずつ、07:30 / 12:30 / 17:30 / 19:30 / 21:30 に更新予定です。

面白かったら評価やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。

北棟の角部屋は、長い間使われていなかった。


床に積もった埃を手で拭うと、指が灰色になった。窓は小さくなかったが、何年もの汚れで光が遮られていた。壁の隅に、昔何かを掛けていたらしき鉄の鉤が数本残っている。


「これ、全部拭かないといけませんね」とリゼッテが言った。


「手伝ってくれますか」


「もちろんです。一人では大変ですよ」


桶に水を汲んで、二人で拭き始めた。


まず窓。布で拭くと、光が部屋に入ってきた。午後の日が差し込んで、床の埃が白く浮かぶ。次に床。石の目地に染みついた汚れは手ごわいが、丁寧にこすると薄くなった。


「この部屋、昔は何に使われていたんでしょうね」とリゼッテが言った。


「使われた跡の形を見ると……引っ張り用の台が置かれていたかもしれません。布を張るための」


「え、つまり」


「昔は工房として使われていた可能性があります」


リゼッテは少し驚いた顔をしてから、室内を見回した。「なるほど。この鉤も、そのためですか」


「たぶん」


壁の鉤は布を乾燥させるのに使えそうだ。そう考えて、位置と数を確認した。六本。これだけあれば、染め上がった布を複数同時に干せる。


道具を運び込んだ。


染料の壺を窓際の棚に並べる。媒染用の鍋、染め桶の鍋、水甕、布漉しの網。師匠の工房の配置を思い出しながら、手際よく並べていく。


「これが媒染用で、これが染め桶用で……」と説明しながら作業していると、リゼッテが熱心に見ていた。


「染液を鍋で煮るから、臭いが出るんですよね」


「そうです。窓を開けておけば外に出ます」


「ヘルミーネ様が何か言うかも」


「そのときはそのとき、です」


色見本帳を棚の一番取り出しやすい場所に置いた。作業中に参照することが多い。師匠の帳面と自分の帳面を並べると、棚の半分を占めた。


「二冊もあるんですか」と驚くリゼッテ。


「師匠が旅立ちに持たせてくれたものと、自分でまとめたもの。合わせると二百色近くあります」


「二百色……」


「この土地で染めると、また違う色が出るかもしれない。そうなれば三冊目が必要になります」


リゼッテはそれを聞いて、少し目を輝かせた。


「新しい色、見てみたいです」


「見ていただけます。失敗も含めて」


「失敗も?」


「染色は失敗の方が多いですよ。うまくいくまでが面白いんです」


工房の整備が一段落したころ、廊下に足音がした。


扉が少し開いて、ヘルミーネが中を見た。


「こんな場所で……」と一言、呟いた。


「よろしければ見ていただいても構いません」とイレーネは穏やかに言った。「工房の配置をご確認いただけるなら、むしろありがたいです」


ヘルミーネは部屋を一瞥した。染料の壺、鍋、色見本帳。その全てをゆっくりと見てから、何も言わずに扉を閉めた。


「……」


リゼッテが小声で「どうしましょう」と言ったが、イレーネは「今日はここまでにしましょう」と答えた。


ヘルミーネは禁じなかった。ただ見た。


窓から見える外の景色に、荒れた石組みの庭があった。


「あそこ、何の畑だったんでしょうね」とリゼッテが窓の外を指さした。


「さあ」


「老庭師のヨハンじいさんは知ってるかもしれません。城の裏手によく行っているから。ご存知ですか?」


「まだお会いしていません」


「一度、話を聞いてみてください。あの人、昔のことをよく知ってるみたいなので」


窓の外の荒れた庭が、夕方の光で長い影を作っていた。


石組みの畝が、なんとなく染料畑の形に見えた。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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