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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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第十一話 執務室の壁に掛かる茜色

毎日5話ずつ、07:30 / 12:30 / 17:30 / 19:30 / 21:30 に更新予定です。

面白かったら評価やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。

「辺境伯様が布を飾るなんて、初めて見ました!」


リゼッテが声を潜めながらも興奮しているのが、廊下に立っているイレーネにも分かった。


「夜遅くに執務室にいらっしゃったそうで。朝に見に行った使用人が驚いていました。壁に何かが掛かっているって」


イレーネは執務室の扉の隙間から見える茜色の布を、もう一度確認した。


確かに、あの布だ。昨夜自分が染め上げた、茜色の布。


夢ではない。誰かが掛けた。それは昨夜遅くにここにいたクラウスだ、ということになる。


「なぜ」という問いが頭の中をぐるぐるした。


頼んでいない。見せてもいない。それなのに、彼は染め上がった布を見つけ、壁に掛けた。


「辺境伯様に確認します」


「え、直接ですか」


「直接でなければ分からないでしょう」


クラウスを探すと、廊下の突き当たりにいた。窓の外を見ている。剣を佩いておらず、外出前の身支度ではないようだ。


「辺境伯様」


振り返る。表情は、いつも通り動かない。


「布の件ですが」


「問題ない」


「……はあ」


それだけだった。


「問題ない」。三文字。気に入ったのか、不要だから適当に処理したのか、他の理由があるのか、その一言では何も分からない。


「気に入りましたか」と聞こうとして、言葉が出なかった。


この人は「気に入った」という言葉を使うのだろうか。使い方を知っているのだろうか。生まれてから色のある暮らしを知らないと聞いた。色への感想を聞かれる機会も、なかったはずだ。


「……ありがとうございます」


「何が」


「飾っていただいたことへの礼です」


クラウスはわずかに眉を動かした。驚いているような、困っているような——どちらとも取れる動きだった。


「礼はいらない」


そう言って、また窓の外を向いた。


廊下を戻りながら、「問題ない」の意味を反芻した。


捨てなかった。飾った。


染料の匂いがする部屋の布を、執務室の壁に掛けた。


「それは……」と思いかけて、首を振った。まだ判断するには材料が少ない。この人がどういう人なのか、どういう動機で動くのか、まだ分からない。


工房に戻ると、リゼッテが待っていた。


「どうでしたか!」


「問題ないと言われました」


「それだけですか」


「それだけです」


リゼッテは少し考えてから「……辺境伯様らしい」と言って笑った。


「でも、壁に飾ったんですよね。それだけで充分じゃないですか」


充分かどうか、は分からない。でも事実は一つだ。


クラウスは布を捨てなかった。壁に掛けた。


夫が染め物の意味を知らなくても。布の価値を知らなくても。——彼は捨てなかった。それが今のイレーネには、すべてのような気がした。


午後、イレーネは城内を少し歩いた。北側の棟に、使われていない部屋がいくつかある。窓が二つある角部屋が、工房として一番使えそうだ。水場からも遠くない。


「正式な工房をいただけますか」


クラウスは庭に面した廊下にいた。書類を持っている。イレーネが声をかけると、ゆっくりと顔を向けた。


「城の北側の空き部屋が使えそうと思いまして。窓と水場が近く、染料の臭いが外に逃げやすい場所です」


クラウスは少しだけ間を置いた。


「好きにしろ」


「ありがとうございます」


礼を言って、北棟へ向かった。


今日だけで「問題ない」と「好きにしろ」を一回ずつ。


この人の言葉は少ないが、どれも断わらない。


何を考えているのかは、まだ分からない。でも、少なくとも——妨げにはならない。


それで今は、十分だった。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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