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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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第十話 茜色を染める

毎日5話ずつ、07:30 / 12:30 / 17:30 / 19:30 / 21:30 に更新予定です。

面白かったら評価やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。

城の東棟に、使われていない空き部屋があった。


窓が二つ。南向きで日当たりが良く、床は石だ。染料が落ちても拭ける。水場からも近い。


ヘルミーネに「使わせていただけますか」と頼んだとき、一秒の間があってから「辺境伯様のご意向を確認してから」と返ってきた。翌日、「構わない」との答えが来た。クラウスの言葉は短かった。


それで十分だった。


荷物から染料を取り出し、工房の準備を始めた。


茜根を鉄鍋に入れ、水を張って火にかける。お湯が沸くにつれて、赤みを帯びた色が染み出してくる。煮出しの時間は長くてはいけない。短すぎても色が薄い。経験で判断する。


「わあ……色が出てきた」


リゼッテが隣で鍋を覗き込んだ。


「これが茜の染液です。もう少し待ちます」


「何分くらいですか」


「色で判断します。もう少し赤みが出るまで」


「色で判断、か……」


リゼッテは呟いて、真剣な顔で鍋を見た。染める前の白い布を手で揉み、「これが赤くなるんですよね」と確かめるように言った。


媒染の準備をする。ミョウバンを水に溶かし、布を浸す。こうすることで布が染料を受け入れやすくなる。媒染の時間を待つ間、染液の温度を確かめた。


「やってみますか」とイレーネはリゼッテに聞いた。


「え、わたしがですか?」


「布を染液に浸して、そっと動かすだけです」


リゼッテは緊張した顔で布を掴み、染液の中へ入れた。ゆっくりと動かすと、白い布が徐々に赤みを帯びていく。


「あ……色が入ってる」


「まだ薄いです。引き上げて、空気にさらします」


布を引き上げると、酸化して色が濃くなる。また浸す。また引き上げる。この繰り返しだ。


一時間後。


灰色の城の空き部屋に、茜色の布があった。


まだ湿っている。色が全体に均一で、むらがない。北の山の水が茜とどう反応するか不安だったが、思ったより素直な色が出た。王都の工房で染めた茜と比べると、少しだけ落ち着いた赤みだ。この土地の水の性質のせいだろう。


「きれいだ」とリゼッテが言った。


「ありがとうございます」


次は色定めだ。


イレーネは布に両手を重ねた。


魔力を通していく。繊維の一本一本に、茜の粒子を閉じ込めていく。この城に来てから初めての色定めだ。集中が要る。


終わったとき、少し頭が重かった。旅の疲れがまだ残っているのかもしれない。


「奥方様、大丈夫ですか」


「大丈夫です。少し休んだら回復します」


布を窓に掛けた。灰色の石壁と石の窓枠の中で、茜色が光を受けて輝く。


たった一枚の布が、部屋の色を変えた。


「明日、辺境伯様にお見せしようか」と思いながら、その夜イレーネは早く眠った。


翌朝。


目が覚めてまず、布の様子を確かめに行った。乾いているはずだ。


ところが、布がない。


窓に掛けておいた茜色の布が、なくなっていた。


「……?」


床に落ちたかと思って見回したが、ない。部屋の中のどこにも、ない。


廊下に出て、城内を見回した。


執務室の扉が少し開いていた。


イレーネは近づき、扉の隙間から中を見た。


クラウスはいなかった。執務机と椅子があり、書類が積まれている。そして——


壁に、茜色の布が掛かっていた。


誰も頼んでいない。クラウスに見せる前に。それなのに、執務室の壁に、昨日染め上げた布が、静かに掛かっている。


「……これは、どういう意味ですか、辺境伯様」


廊下に立ったまま、イレーネは茜色の布を見つめた。


返事は、誰からも来なかった。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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