第十話 茜色を染める
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城の東棟に、使われていない空き部屋があった。
窓が二つ。南向きで日当たりが良く、床は石だ。染料が落ちても拭ける。水場からも近い。
ヘルミーネに「使わせていただけますか」と頼んだとき、一秒の間があってから「辺境伯様のご意向を確認してから」と返ってきた。翌日、「構わない」との答えが来た。クラウスの言葉は短かった。
それで十分だった。
荷物から染料を取り出し、工房の準備を始めた。
茜根を鉄鍋に入れ、水を張って火にかける。お湯が沸くにつれて、赤みを帯びた色が染み出してくる。煮出しの時間は長くてはいけない。短すぎても色が薄い。経験で判断する。
「わあ……色が出てきた」
リゼッテが隣で鍋を覗き込んだ。
「これが茜の染液です。もう少し待ちます」
「何分くらいですか」
「色で判断します。もう少し赤みが出るまで」
「色で判断、か……」
リゼッテは呟いて、真剣な顔で鍋を見た。染める前の白い布を手で揉み、「これが赤くなるんですよね」と確かめるように言った。
媒染の準備をする。ミョウバンを水に溶かし、布を浸す。こうすることで布が染料を受け入れやすくなる。媒染の時間を待つ間、染液の温度を確かめた。
「やってみますか」とイレーネはリゼッテに聞いた。
「え、わたしがですか?」
「布を染液に浸して、そっと動かすだけです」
リゼッテは緊張した顔で布を掴み、染液の中へ入れた。ゆっくりと動かすと、白い布が徐々に赤みを帯びていく。
「あ……色が入ってる」
「まだ薄いです。引き上げて、空気にさらします」
布を引き上げると、酸化して色が濃くなる。また浸す。また引き上げる。この繰り返しだ。
一時間後。
灰色の城の空き部屋に、茜色の布があった。
まだ湿っている。色が全体に均一で、むらがない。北の山の水が茜とどう反応するか不安だったが、思ったより素直な色が出た。王都の工房で染めた茜と比べると、少しだけ落ち着いた赤みだ。この土地の水の性質のせいだろう。
「きれいだ」とリゼッテが言った。
「ありがとうございます」
次は色定めだ。
イレーネは布に両手を重ねた。
魔力を通していく。繊維の一本一本に、茜の粒子を閉じ込めていく。この城に来てから初めての色定めだ。集中が要る。
終わったとき、少し頭が重かった。旅の疲れがまだ残っているのかもしれない。
「奥方様、大丈夫ですか」
「大丈夫です。少し休んだら回復します」
布を窓に掛けた。灰色の石壁と石の窓枠の中で、茜色が光を受けて輝く。
たった一枚の布が、部屋の色を変えた。
「明日、辺境伯様にお見せしようか」と思いながら、その夜イレーネは早く眠った。
翌朝。
目が覚めてまず、布の様子を確かめに行った。乾いているはずだ。
ところが、布がない。
窓に掛けておいた茜色の布が、なくなっていた。
「……?」
床に落ちたかと思って見回したが、ない。部屋の中のどこにも、ない。
廊下に出て、城内を見回した。
執務室の扉が少し開いていた。
イレーネは近づき、扉の隙間から中を見た。
クラウスはいなかった。執務机と椅子があり、書類が積まれている。そして——
壁に、茜色の布が掛かっていた。
誰も頼んでいない。クラウスに見せる前に。それなのに、執務室の壁に、昨日染め上げた布が、静かに掛かっている。
「……これは、どういう意味ですか、辺境伯様」
廊下に立ったまま、イレーネは茜色の布を見つめた。
返事は、誰からも来なかった。
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