第一話 藍瓶の香りがする工房で
毎日5話ずつ、07:30 / 12:30 / 17:30 / 19:30 / 21:30 に更新予定です。
面白かったら評価やブックマークで応援してもらえると嬉しいです。
工房に充満するのは、発酵した藍の匂いだ。
酸っぱいような、土のような、それでいて独特の深みを持つその匂いを、世間の人々は「くさい」と言う。イレーネはそうは思わない。藍瓶の匂いは、良い色が生まれる証だ。発酵が足りない藍は色が薄い。この匂いがあってこそ、深い青が生まれる。
「……もう少し」
声に出さずに呟き、染め桶に沈めていた布を静かに引き上げた。
空気に触れた瞬間、布の色が変わる。緑がかった青から、深い藍色へ。この変化を、イレーネは何百回見ても飽きない。生きている色だ、と思う。酸化して発色するたびに、藍は呼吸をしているみたいだった。布が青くなっていく瞬間は、いつだって胸が高鳴る。
布を陽の差し込む窓辺に掲げ、色の均一さを確認する。むらなく、深く、染まっている。光の角度によって紫が滲んで見えるのは、上質な藍の証だ。発酵の管理に三日かけた甲斐があった。
「よし」
今度は声に出して言った。この布の注文主は王都の商家だ。仕上がりを見れば、きっと満足するだろう。それよりも、と思う。この色を次の色見本帳に加えよう。一番深く出た藍の記録として。
次は色定めだ。染め上がった布に魔力を通し、色を永く定着させる。最も集中を要する工程で、一度始めたら途中で止められない。この最後の工程こそが、染色師の真価が問われる仕事だった。
イレーネは深く息を吸い、布に両手を重ねた。
指先から魔力を流し込む感覚は、水が砂に染みていくようだ。布の繊維一本一本に、藍の粒子を押し込んでいく。色が定まるにつれて、布は微かに光を帯びる——他の人間には見えない光だが、染色師には分かる。色が、布の中に根を張っていく。
これで何度洗おうとも、この藍は落ちない。
色定めを終えたとき、わずかに眩暈がした。いつものことだ。魔力を使えば消耗する。仕上げ一枚でこの疲労感では、大量の注文は到底こなせないと師匠に言われている。それでも惜しいとは思わない。それだけの価値がある仕事だった。
「イレーネ様、また無茶をされましたか」
背後から声がした。
振り返ると、工房の主——灰白髪の師匠が腕を組んで立っている。還暦近い年齢でも背筋の伸びた、この道一筋の職人だ。弟子の顔色の変化を見逃さないのは、長年の習慣だろう。
「無茶ではありません。ちゃんと色が入りました」
「顔色が紙みたいですよ」
師匠はそう言い、「少し座りなさい。話がある」と続けた。
話、という言葉の重さが、イレーネには分かってしまった。師匠がこういう口調になるときは、大抵決まっている。
「縁談のことでしょうか」
「……耳が早い」
「顔に書いてあります、師匠」
師匠は小さく苦笑いして、工房の隅の椅子に腰を下ろした。イレーネも向かいに座る。
「お前の腕は本物だ。私が教えた中で一番かもしれない。だからこそ言う。令嬢がいつまでも工房にいる訳にはいかない。そろそろ良い縁談を受けてはどうか、と実はずっと思っていた」
「師匠は工房が嫌いになりましたか」
「好きだからこそだ」
師匠は静かに言った。「お前がここにいる限り、良い縁談を断り続けることになる。だがお前の家の立場もある。いつまでも待ってはもらえん」
イレーネは膝の上で手を重ねた。指先に残った藍の染みを、無意識に親指でなぞる。
「……分かっています」
分かっている。分かっているが、受け入れたくなかった。染色師として、まだやるべきことがある。グラウエンの土地の色にも、まだ触れていない——って、なぜ今グラウエンのことを考えているのだろう。そんな噂を聞いたことがある、という程度の記憶なのに。
イレーネは答えなかった。棚に並んだ色見本帳をぼんやりと眺める。百色以上の色が収められた、分厚い帳面が三冊。一つ一つ、自分の手で染め上げた色だ。茜の朱、黄蘗の黄、藍の深い青。これを作るのに、何年かかったか。
やめられる気がしない。
でも、こうなると分かっていた。伯爵家の三女が染色師組合に弟子入りし、マイスター資格を取ったときから、この日はいつか来ると。
扉を叩く音がした。
「失礼します。リンデン伯爵家よりの使者でございます」
師匠と目が合う。師匠は静かに立ち上がり、工房から出ていった。
使者は書簡を一通、差し出した。
父の紋章が入った封蝋。イレーネは、それを受け取って開封した。
読み進めるうちに、指が止まった。
グラウエン辺境伯クラウス・フォン・グラウエン。北の辺境。山岳地帯の寒冷な地。婚約の儀は来月に執り行われる予定で——
「……灰色の城」
誰かがそう呼んでいたのを、思い出した。
色のない土地だと聞いた。衣服も、調度も、旗すら無彩色の——ここ数年で一度か二度、社交の席でそんな噂を耳にしたことがあった。変わった土地があるものだ、と思って、すぐに忘れた。
それが、嫁ぎ先になる。
イレーネは書簡を持ったまま、しばらく動けなかった。
棚の色見本帳が目に入る。茜、藍、黄蘗、緑青、紫草。自分が丹精して染め上げた、百の色たち。左手の指先には、今日の作業で薄く染みた藍がまだ残っている。こんな指では令嬢として嫁ぐには体裁が悪いと、母にはよく言われた。
この色は、嫁入り先では使えなくなるかもしれない。
色のない城で、染色師は何をすれば良いのだろう。
——なぜ、灰色なのだろう。
その問いに、書簡は何も答えてくれない。
しばらくして、師匠が戻ってきた。
「イレーネ様?」
「大丈夫です」
イレーネは立ち上がり、窓辺の布を取り外した。丁寧に畳み、納品用の包みに収める。手が自然と動く。仕事の手順だけが、今は確かだった。
「師匠」
「なんですか」
「最後にもう一枚、染めてもよいですか。この藍で、まだ残りがあります」
師匠は少し黙って、それから言った。
「……どうぞ」
イレーネは頷き、次の布を手に取った。
嫁ぐことになるとしても、今日の色定めは今日のうちに終わらせたい。それだけが、今の自分にできることだった。
窓から差す光の中、色定めを終えたばかりの藍色の布が、静かに揺れていた。
続きもこのあと更新されます。よければ次話もどうぞ。




