第18話 「僕はね、クーリングオフは基本したくない性質なんだよ」
私をおんぶした舘林は、順調な足取りで来た道を戻っていく。
未だに息一つ乱していないあたり、やっぱり鍛えているんだなと実感する。
触れる髪先からは、風呂上がりだからか、いい匂いがした。
それに比べて私は、風呂に入る前だったこともあって、きっと汗臭いだろうな。なんて、思わず虚しいことを考えてしまう。
「はあ……」
私が小さくため息を漏らすと、舘林がおもむろに口を開いた。
「……実を言うと、君に謝礼品を渡し忘れたことに気付いてね。無礼ながらも、あの後に君の部屋を訪ねたんだよ」
「え?」
「だが返答もなく、扉を開けてみたらもぬけの殻で……それで急いで君を探しに来た、というわけさ」
まさかそんな理由で脱走がバレてしまったとは、完全に盲点だった。
「でもさ、探すにしたって、よくこんな場所まで一人で来たよね? こんなとこ、ホラー感満載なのに」
ざわざわと音が鳴り続ける、暗く不気味な森の中。
私ですらビビっていたのだから、ホラー嫌いの舘林なら、一分一秒だって居たくはなかったはずだ。
すると舘林は、顔を青ざめさせて言った。
「それは言うな。何も考えないよう、無心になって、何とか追いかけたんだ……僕だって、君がちゃんと帰ってくるつもりだと分かっていれば、わざわざ無理に探すことはしなかったさ……」
やっぱり、無理をしてくれたらしい。
少しばかりの嬉しさと申し訳なさが複雑に絡み合い、胸が苦しくなる。
その気持ちを隠しつつ、私はこの際だからと、ずっと気になっていた疑問を投げかけた。
「どうしてアンタってさ……ここまで無理したり、こんなにも私のことを気に掛けてくれるんだ? 実際のところ、私と似たような小説を書いてた人なんて、ごまんといただろうに」
意外な質問だったのか、舘林は目を丸くする。
だがすぐに、いつものような得意げな表情に変わって答えた。
「……僕はね、クーリングオフは基本したくない性質なんだよ」
「急に何の例え?」
「故意さえなければ、どんな酷い故障品だろうが、クソ不味いラーメンだろうが、それもまた一期一会だと受け入れるようにしているのさ。まあ、クレームは飽きるまで、しっかり言わせてもらうけどね」
「いや、それ余計に性質悪いだろ」
通常運転の傲慢っぷりに、思わず苦笑してしまう。
私は、彼の話を聞いて、ようやく気付いた。
この舘林という男は、“理不尽を感じない”のではない。
“理不尽だと思わないように”生きられる人間なのだと。
常に前向きな思考を持ち、違うと思ったことには、どんな相手にでもちゃんと反論する。
私とは真逆の存在だ。
憧れ――とまではいかないが、純粋に羨ましいと思う。
――ああ、そっか。
私はこんな、めちゃくちゃ身勝手でどうしようもない男なのに、どうしようもないくらいの興味を持ってしまったのだ。
だからこんな衝動的に動いてしまうほど、対等になりたい、認められたい、離れたくないんだ。
……今ならば、柳原や小日向たちが彼を想う気持ちも、ほんの少しだけ理解できるかもしれない。
本当に、ほんのちょっとだけだけど。
さっきまでの肌寒さが嘘のように暑くなり、私は嫌な汗が流れそうになった。
――と、そのときだった。
ガサ、ガサッ。
森の奥から物音が聞こえてきた。
それは自然のものではない。明らかに足音だった。
さらに、リン、リーンという鈴の音まで聞こえてくる。まるで“その存在”を招くかのような音だ。
「え……何? まさか……」
「それ以上は言うな! わかってる。いや、そんなもの存在しないことはわかってる!」
動揺する私以上に、舘林が震え上がっていた。
立ち止まるなり、口早に“その存在”を否定し続けている。
「ちょっと、冷静になれって! 幽霊なわけないだろ! 熊! 熊の可能性の方が高いって!!」
そう叫びながら私は、引っ越してきた初日、柳原に言われた注意勧告が頭を過ぎる。
そういえば、熊対策をすっかり忘れていたことを、今さらながら後悔した。
私が冷静さを取り戻す一方で、舘林は完全にパニック状態となっていた。
どれだけ声を張り上げても、私の言葉が耳に入らない。
「ああそうだ! 目を瞑るんだ! そうしてじっと耐えていれば、やり過ごせるはずだ!」
「いや熊で“待ち”はアウトだって! 騒がしい音を立てて、それから熊が出てから……もう、とにかくまずは下ろして!!」
このままでは埒が明かない。
私は下ろせとばかりに、自由の利く足を振り回す。
だが、どれだけ暴れても、舘林は決して手を緩めなかった。
「それだけは、絶対にするわけにはいかないだろう! もし、幽霊が出ても、そのときは僕が――」
「……こんなところで、何をしているんですか。二人とも……」
茂みから現れたのは、まさかの柳原だった。
顰められた眉が、彼のわずかな苛立ちを物語っている。
「や、柳原さんこそ……どうして、ここに?」
質問に質問で返したことに、さらに眉を顰めながらも、彼はすぐに答えた。
「帰宅したら、お二人の姿がどこにもなく……外出の可能性も考えましたが、車は車庫に入ったままでしたので。念のためこの辺りを捜索していたんです……そうしたら、まさかこんなところで会うとは……」
「ああ、本当にごめんなさい!」
よく見ると、柳原の肩には猟銃が抱えられていた。
後で聞いた話だが、彼は狩猟免許を持っており、今日の用事というのもハンターの研修会だったそうだ。
「いえ、こんな時間に、こんな場所で何をしようとも自由ではありますが」
「ちょっと待って、完全に誤解してるから」
「せめて、熊よけ対策はきちんとしてください。まったく……あれほど忠告していたのに」
そう言いながら、柳原は腰に携えた“熊よけ鈴”を、わざと揺らした。
どうやら先程聞こえてきた謎の音は、鈴の音だったようだ。
冷静になってみれば、笑ってしまうほどわかりやすい答えだった。
「ほら、聞いただろ? 今のは幽霊でも熊でもなくて、柳原さんだったんだって」
安心させるように、私はなるべく優しく舘林に語りかける。
柳原の登場あたりから、ずっと静かだった彼は、ぽつりと言った。
「す、すまないが……足が、竦んでしまって、動けそうにない……」
「は?」
「は?」
思わず、私と柳原の声が重なった。
結局、動けなくなった舘林を柳原が支え、私は近くに落ちていた枝を杖代わりにして、自力で帰路についた。
まったく。少しは格好いいところを見た気がしたのに、あんな情けない姿を見せられては、何の感情も湧いてこない。
……とはいえ、猿も木から落ちるというし、ああいう可愛げのある一面を見られた方が、私は嬉しい。
なんて言ったら、性格が悪いのかもしれないが。
だが、そう思っていたのも束の間だった。
帰宅早々、私は舘林にこっぴどく怒られ、私と舘林は柳原にこっぴどく怒られた。
「……今日はもう遅いですし、これ以上叱っても意味はありません。温かい紅茶を淹れますから、今日はそれを飲んで、休んでください」
微笑む柳原の顔は、まるで安心しきった保護者のようで、彼がどれほど心配していたのかがよくわかった。
「いや、僕は一足先に部屋へ戻らせてもらうよ。紅茶は、僕の部屋に運んでくれたまえ」
そう言って去ろうとした舘林は、おもむろに足を止めた。
「……足の方は、大丈夫なのかい?」
思いがけない気遣いに、私は肩が震えるほど驚いた。
「大丈夫だって。平気平気」
「階段が登りづらいようなら言ってくれ。今度は、お姫様抱っこで運んであげようじゃないか」
「いらないっての」
強めにそう返すと、彼はそれ以上何も言わず、静かに踵を返した。
「ならばいい……おやすみ、櫻井くん」
そう言い残して、舘林は部屋に戻っていった。
それは、あまりにも意外な言葉だった。
もしかしたら、ここに来て初めて言われた言葉かもしれない。
明日は嵐か?
そんなことを思いつつも、私は素直に苦笑して返した。
「……おやすみ、舘林」




