優しい許嫁の顔も三度まで
アリナ・ルーセントには、幼い頃から決められていた許嫁がいた。
名はエルビス・グランディール。由緒ある伯爵家の嫡男で、容姿も整い、社交界では将来有望な青年として知られていた。
――少なくとも、表向きは。
学生時代。
エルビスは、学内でもひときわ人気の高かった令嬢ティオナと親密になった。
アリナという婚約者がいながら。
「……噂、聞いてるよね。ごめん、アリナ。でも、もう終わったから」
半年間の交際を終えた彼はそう言って戻ってきた。
アリナは泣かなかった。ただ、静かに問いかけた。
「……もう、しないと約束できますか?」
「ああ。君が一番大切だ」
その言葉を、アリナは信じた。
二人目は、もっと残酷だった。
アリナの親友――ミリエ。
発覚したとき、アリナは初めて声を荒げた。
「どうして……? ミリエは、私の……」
「違うんだ。あれは彼女から……」
エルビスは一晩中言い訳を並べ続け、隣では被害者面を浮かべるミリエが涙を流して謝罪していた。
アリナはその時も、最終的にはこう言った。
「……今回で、最後です」
アリナにとって、それが最後の警告のつもりだった。
三人目は、見ず知らずの、街で出会った女性だった。
たった三ヶ月で終わった関係だったが、アリナの心は確実にすり減っていた。
「どうして、あなたは同じことを繰り返すのですか」
「……分からない。君が優しすぎるから、甘えてしまうんだ」
その言葉を聞いたとき、アリナは笑ってしまった。
――ああ、この人は、自分の罪を私の優しさのせいにするのだと。
それでも彼女は、三度目まで、許した。
仏の顔も三度まで。
その言葉の意味を、エルビスは理解していなかった。
四度目の裏切りが発覚したのは、それから半年後。
白い雪が降る、冬のとある日だった。
「……お姉様、ごめんなさい」
震える声で頭を下げたのは、アリナの妹――エマだった。
「エルビス様が……優しくて……断れなくて……」
その瞬間、アリナの中で何かが、静かに音を立てて崩れた。
怒りも、悲しみも、不思議なほど湧かなかった。
ただ、深い疲労だけが胸に残った。
「……そう、お幸せに」
それだけ言って、アリナは席を立った。
エルビスは慌てて追いすがってきた。
「待ってくれ! 違うんだ、今回は本当に……!」
「四度目です」
アリナは振り返らずに言った。
「三度までです。あなたが許されるのは」
「アリナ! 君しかいないんだ! やっと気づいたんだよ!」
「エルビス様っ、お姉様より愛してると言いましたよね!?」
「い、いや、違う。僕にはアリナしかいないんだ!」
頭を下げる金色の頭と、それを必死に罵倒する妹の姿はアリナの目に、とても無様に映った。
必死な声が背後から届く。
けれど、もう胸は痛まなかった。
なんの感情も湧かない。
きっと、アリナにとって相手を許してあげることこそが、真の優しさだと思っていたのかもしれない。
でも、しっかりと心の奥でアリナは理解した。
「……遅すぎます」
その日、婚約は正式に解消された。
噂は、すぐに社交界を駆け巡った。
婚約者がいながら浮気を繰り返し、ついにはその婚約者の妹にまで手を出した哀れな男。
「さすがに、あれは……」
「グランディール家も顔に泥を塗られたわね」
エルビスは釈明に走ったが、誰も耳を貸さなかった。
妹のエマが別れ際に悪気なく言った。
「だって、お姉様、いつも許してたじゃない?」
その一言が、決定打だった。
――優しさは、免罪符ではない。
数ヶ月後。
アリナは社交界の夜会に出席していた。
「アリナ嬢ですね」
穏やかな声で声をかけてきたのは、落ち着いた雰囲気の男性だった。
「噂よりもずっと、穏やかな方だ」
彼は、アリナの事情を知っていた。
それでも同情も詮索もせず、ただ対等に接してくれた。
その距離感が、心地よかった。
遠くで、エルビスの名前が囁かれる。
けれどアリナは、もう振り返らなかった。
差し出された手を、静かに取る。
――もう、優しさを踏みにじる人のために使う顔は、残っていない。
優しい許嫁の顔は、三度まで。
四度目は、ただ前を向くための合図だった。
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