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ブレイン・シード  作者: 小石丸
1. 綺麗な花には毒がある
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保健室の薬剤師

 銭湯の女将さんに渡された地図は実にいい加減だった。銭湯の左隣に大きめの丸で『伊勢神宮』と書き込み、その少し左に『小学校』『高校』と書かれている。あとは道路らしき線でざっと繋いで終わり。それでも何とか今の場所より西側で、『伊勢神宮』の敷地の北側を突っ切っていけば良さそうだということだけは理解できる。

 太基(たいき)はキラキラ光るロジンの欠片を袋に詰めて持っている。神宮までの道は文里(ふみさと)も着いてきていたが、彼はあくまでも伊勢神宮をじっくり参拝したいだけで石鹸になど全く興味が無い。さっさとお遣いを済ませてしまうつもりの太基とは、自然とペースが合わなくなってくる。


「あの、もう少し見たいのであれば、僕先に行きましょうか?」

「あ、一人で行ける? ならよろしく」


 案の定、あっさりと一人で行くことが決まってしまった。

 境内の中はじりじりと太陽が照りつけている。まるで真夏のような日差しだった。外にいた時は樹々が生い茂る中の方が涼しそうに見えたのに、中の方がむしろ暑いのだから不思議な話だ。早く用事を済ませて、川にでも飛び込んでしまいたい。

 太基はもう一度手元の大雑把な地図を眺め、境内を突っ切って歩き始めた。あまりに大雑把で不安になるが、目の前をまたあの白い靄が先導している。神宮の敷地内では、何だかいつもより靄が濃くなっているような気がした。

 そのまま神宮の敷地を抜けて、小さな平屋の校舎に辿り着いた。子供達の元気な声が響いてくる。太基の住んでいた山奥の学校は例のあの日以来閉まったまま、再開の目処は立っていない。勉強は苦手だったが、学校で遊ぶのは大好きだった。


「行かなきゃ」


 独り呟いて歩みを進める。例のあの日から家の中で働き山で鍛えられ日々を過ごしてきた。懐かしさとともに、もうあの世界に戻れないと気付いて一抹の寂しさが込み上げる。

 勝手に校舎に上がりこみ、途中で教師に見つかったが、素直に事情を説明したら保健室に案内してもらえた。

 保健室には何故か大量の薄い木の板が机の周りに積まれていた。ガラスの割れた戸棚はガムテープで補修されていて、戸棚の下にハギレの山を突っ込んだ段ボールが置いてある。ぼんやり入り口で待っていると、程なくして保健医らしい青年が現れた。


「こんにちは、この学校の子の兄弟とかかな? わざわざ僕に話があるって聞いたけど」

「兄弟とかではないです。五十鈴(いすず)川の銭湯のおばちゃんから、お遣いを頼まれてきました」

「五十鈴川の銭湯? ああ、あの人か。僕もあの銭湯にはお世話になりっぱなしだ。本当は今立て込んでるんだけど、あの人の頼みなら聞かないわけにはいかないな。とりあえず座ってよ。診察用の椅子しか空いてないけど」


 そうやって案内すると、青年は診察台の方を見て一瞬動きを止めた。太基もまた診察台を見て「あ」と小さく声を上げた。


「君、あの台の上に何か見える?」

「……僕の目が変じゃないなら、白い靄が見えますね。だいたい大人二人くらいの大きさの」

「そうか、君のほかに誰に聞いても見える人は居なかったんだけどな」

「僕は爺ちゃんに山神様だって言われてました。でも、山を出てからも見えてるし、今お世話になってる人達の中にも見えてる人がいるかも。先生みたいに見えてるのか聞いたことはないですけど」

「五十鈴川の銭湯のおばちゃんのお遣いの話だけじゃなくて、そっちも聴かせてもらえないかな? それと、僕は本当のところ薬剤師資格しか持っていないから先生っていうほどじゃないんだ。㭭幡(やつはた)さん、でいいよ」


 一方、文里は思いがけず自分のペースで見て回れるチャンスに心躍らせ、存分に白く清廉な木造の宮を眺めて回った。こういう一人でじっくり眺めていたい時、紫珠乃(しずの)は何だかんだで上手に放っておいてくれる。それでいて食事時など適当なタイミングで再入場券を手配してくれるなど気配りもしてくれる最高の理解者だ。とはいえ久し振りに全くの独りきり、それはそれで新鮮だった。まずは勾玉池を眺め、それから式年遷宮の資料館をじっくり眺めたい。

 そこまで考えて、文里は自身が正しく日付を把握できていないことに思い至った。紫珠乃には少しは気を付けるよう言われていたが聞き流していた。だけど神社はきちんと暦に従って神事を執り行っているから、こちらが日付を分かっていなければ見学できるものも出来なくなる。暦を確認するならお勤めの神職者、つまり社務所に行かねばならない。そういうわけで文里は真っ先に社務所に向かい、中にいた初老の男に話しかけた。


「ごめんくださーい。今日の日付教えていただけませんか?」

「今日ですか? 五月十日ですね。」

「じゃあ四日後には神御衣祭(かんみそさい)

「お詳しいですねえ。そうです、ありがたいことに今年も何とか和妙(にぎたえ)荒妙(あらたえ)御料(ごりょう)を奉ずることが出来そうですから、宜しければどうぞ参拝にいらしてください」

「行きたいですねぇ。いや本当は大阪にボランティアで向かう途中で、あんまりゆっくりとは出来ないのですが。何とかならないかなあ」

「大阪のような大都市でも、そういうのって必要なんですかねえ。私どもなんて田舎で何もなくて不自由で、都市部だったらこういう時も何かとモノが集まって少しは楽なんではないかと勝手なことを考えてしまうのですがね」

「いや、むしろ都会の方が大変かもしれません。もともとがサービス業中心、観光者も多くて農林水産業の割合って少ないじゃないですか。さらに流通が断たれてしまうと日々の食料調達も大変、人が多ければ汚物の処理も困るし、治安が心配な場所も出てくる、だからといって他で暮らすあても無い、とそういう人が多くいらっしゃるようなんですね。今は田舎の方が暮らしやすいかもしれません。戦時中の疎開民みたいなものですよ」

「ははあ、なるほど。でも、それボランティアで出来ることがあるんですかね」

「はっきり言って僕は役立たずでしょうね。妻は山間部に暮らす知人の伝手を辿って、今のような状況下でも皆で生活していける方法を教わって、出来るところから実践してきたんです。なので、今回は妻がアドバイザーとして呼ばれていて、僕はまあ荷物持ちです」

「素晴らしい奥様をお持ちですねぇ。ふむ、生活の知恵なら此方もお役に立てるかもしれません。しがない権禰宜(ごんねぎ)の一存じゃあ決められないので、上に掛け合わないとダメですが」

「どういうことでしょう?」

「我々には我々の、千三百年もの永きにわたり大神に御饌(みけ)と御料を捧げ続けた知恵がありますから」

「それは! 是非、教えていただけることは教えていただきたい! 出来れば四日くらいじっくりで! ちょっと急いで妻を呼んできます!」


 これを逃せばじっくり伊勢を見て回る機会はいつになるか分からない。しかも、半年に一度しかない厳かな祭りを観られるかもしれない。銭湯に戻った文里は大急ぎで紫珠乃を探しに戻った。


「シズ! ちょっと四日くらい此処に居られないかな⁈」

「は?」

「神宮の権禰宜さんと話してさ、食事とか布とか自給する方法ならアドバイス出来るかもしれないって。でも、『上に掛け合う』って言っていたからさ、出来ればシズからもどんな話が聞きたいかとか、アピール出来た方がいいんだ。例のあの日の後も変わらず神様達に御饌と御料を納めている人達の話が聞けるなら悪くないだろ?」

「大阪の人達が待ってるのに、四日も使っていいかどうかは私じゃなくて伊丹(いたみ)さんに聞くべきだと思うけど」

「あ、そうだね。伊丹さんに聞いてこよう」

「待って。四日って中途半端な数字、何処から出てきたの? 仮に三日じゃあ駄目なのかしら?」

「ええ……四日でいいじゃん」

「いいじゃん、じゃない。何があるのか私にはハッキリ言って?」

「神御衣祭です。五月と十月しか無い儀式」

「はぁ、そんなことだと思った。貴方が伊丹さんを説得出来るならお好きにどうぞ?」

「やった! ありがとう」

「私は協力しないからね! ところで、太基君は? 一緒に帰ったんじゃないの?」

「神宮で先に行くって言って走って行った」

「馬鹿! 神宮でアンタを探してるかもしれないでしょ! 小学校までの地図は?」

「渡しちゃったよ、一枚しかない」

「もーいい、アンタ好きにしてて。(たまき)! ちょっとお出かけするよー」

「えー、いかない。お靴履くのやだ」

「着いたら脱いでもいいから」

「シズ、何処行くの?」

「小学校! もし小学校出てるみたいなら神宮、夕方には帰るから」


 嫌がる環に大急ぎで靴を履かせて、今度は歩くのを嫌がられて抱きかかえ。兎にも角にも大急ぎで紫珠乃は小学校へと駆け出していった。

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