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ブレイン・シード  作者: 小石丸
1. 綺麗な花には毒がある
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対岸の町

 西に向かう道は終わりを告げ、眼前には海が広がる。正面にはぼんやりと陸地が見えていて、伊丹(いたみ)さんはあの陸地に渡るだけだと説明した。


「案外近いんですね」

「アホ、見えるからって油断すな。昼間で、ちゃんと向こう岸やら間の小島が見える、穏やかな海だからヨットでもどうにかなるんや。そこ見てみい」


 伊丹さんが指差す先には、大きな塔のような物が倒れて海中に沈んでいる。元は白亜の塔だったはずのそれは海の海藻や魚の棲家になって殆ど元の色が分からなくなっていた。


「え、でか。なんですか、あれ」

「灯台だったんやで」

「灯台?」

「……もしかしてそこからか。あのなあ、船で安全に渡るんは、実際は案外難しいんや。夜はもちろん、昼も陸から離れたら目印なんか無いからな。だから灯台で海を照らして目印にするんやが、今は使い物にならん。さ、夜にならんよう早よ行くで」


 縄を解かれたヨットは大人達が長い棒で海底を突いて何とか離岸した。灯台の他にも沈んだ船やコンクリートの残骸が実は山ほど沈んでいた。船底を傷つけないよう、瓦礫で水深が浅くなった場所を棒で突ついて避けていく。

 棒で突くと海に沈んだ瓦礫を棲家にする生き物が飛び出してくるのが見えた。きっと倒れた灯台の中は竜宮城のごとく海の生き物の楽園になっているのだろう。


(たまき)も棒持ちたいー!」

「はいはい、パパと一緒にしてて」

「うん。あ、おじちゃんは棒持ってないの、なんで?」

「ん? さっき広げた帆にそろそろ風が当たり始めるからな、こいつで船の向き変えるんやで」

「いーなー! やりたいやりたい」

「コラァ! ぶつかってくんな! 変なとこ曲がったら二度と帰れんのやぞ!!」

「環君、僕と棒で漕ぎながら一緒に見よ」

太基(たいき)君、おおきにな」


 太基もヨットの操作に興味があったから丁度いい。思ったよりきつくて汗だくになるが風が吹きつけて心地良い。

 後ろでは文里(ふみさと)が向こうに神島が見えると話していた。彼の島の神社に納められた貴重な銅鏡には葡萄と様々な獣達があしらわれている。世界樹という意味の名を持つギリシャの豊穣の神、ディオニュソス信仰の楽園がモチーフだそうだ……そんな話を紫珠乃(しずの)が適当に相槌を打ちながら聞いている。


「え、暑っ」

「ママ、喉乾いたね」

「そうね、ちょっと待って......ごめんくださーい! あの、どこかでお水って分けて貰えないですかー!?」


 向こう岸に辿り着いた頃には正午を少し過ぎていた。まだ五月の始めというのに夏のような日射しと所々ひび割れているとはいえコンクリートの照り返しのせいで暑くてたまらない。暑さを凌げる木陰に移動しようとしたところで紫珠乃が水の入った一升瓶を二つほど抱えてきた。


「お水美味しい!」

「シズ、ありがとう! 生き返るな」


 太基と伊丹さんも水を分けてもらった。水筒に移して、後は一息に飲んでしまう。これでまた暫く歩けるだろうか。それでも、次の水のことを考えながらになるだろう。どうしたものか。


「パパ、ママ、あっち行く」

「あ、勝手に歩いて行かないで!」

「良いじゃんシズ、あっちなら人はいると思うよ。おかげ横丁の方だし」

「フミ君は伊勢神宮に行きたいだけでしょ。伊丹さん、どっちに行けば良いですか?」

「伊勢神宮、通り道やで」

「やった、行こうシズ」

「えー、遊びに来たんじゃないから程々にしてよ?」


 何となく皆が『まずは伊勢神宮』と目標を決めたので太基もそれに従おうとして、目を瞠った。

 また、あの白い(もや)だ。しかも、一、二、三個の塊に見える。今までこんなことは無かったはずだ。うち一塊は皆の先を行こうとする環を更に先導しているように見えた。

 招かれている。何となくそう感じた。ふと、環の後を追う紫珠乃を見やった。彼女もまた環より先、白い靄の一塊がいる場所を見ていた。

 昼下がりには大雨になった。蒸し暑く澱んでいた空気がのろのろ昇って、もう限界だと言わんばかりにその蒸気を雨として一気に地上に叩きつけた。結局貰ってきてしまった一升瓶の蓋を開けて、雨水を集めながら歩いた。雨が上がる頃には日没が近くなっていた。そろそろどこで野営するか考えなければならない。


「文里さん、どこか泊まれそうなところありますかね」

「え、もうすぐ月讀宮(つきよみのみや)だよ。日が暮れる前に着いて参拝したほうが良いよ。太基君、このご時世になかなか気軽にこんな距離移動して来れないんだからさ。泊まる場所はまた野営でも何でも良いだろう」

「紫珠乃さんと伊丹さんは雨風凌げる場所探してますけど。雨に濡れたし」

「ええ、通り過ぎたら嫌だなあ。あ、銭湯開いてる」


  銭湯、という声に伊丹と紫珠乃の歩みが止まった。


「え、銭湯開いてるの? 行きたい! でも現金無いわ」

「まず聞いてみたらええやん。このご時世にそもそも金持っとる奴がどんだけおるっちゅうねん」

「それもそうか。環! ちょっとこっち行こう」

「足痛い、やだ」

「つま先? いっぱい歩いたからかな? 抱っこするから、とりあえず行こう」


 風呂代はありがたいことに無料だった。


「お金? 要らないよ。街なら知らないけど、此処じゃあ現金貰っても使えないからね。ただ、何も無しってわけにはいかないかねぇ。空いてる部屋に泊まって良いから、夜明け前のお湯の汲み出しと風呂釜の掃除しておくれ」


 例年にない暑さと共に、毎日夕方には雨が叩きつけるように降る。そんな気候に一番うんざりしているのは町の住人達だった。皆が雨水を集めるようになり、いくらでも生えてくる雑草を燃やし、何とか湯浴み程度はできるよう湯を沸かす。それぞれ勝手に自分の分だけ沸かすと効率が悪いから、銭湯の設備でまとめて沸かす。着替える場所もあるし、建物自体が川に近いおかげでそのまま排水できる。雨水に人の垢が多少混じった程度の水だから、水質汚染も今のところ問題にはなっていないらしい。


「伊丹さん、太基君、どう?」

「ええなあ、風呂なんて久しぶりや」

「ママ、今日お風呂入れるの?」

「うーん、午前中はお参りに行けなくなるな」

「フミ君? 午後にずぶ濡れになって体冷えてるの。環も抱っこされてたけど結局ずぶ濡れ、大人よりきついのわかるよね? 今までの晴れ続きとは違うの。野営なんて絶対風邪引く。環の看病できるの?」

「出来ません」

「じゃあ決まり。おばちゃん、よろしくお願いします」


 紫珠乃は環を連れてさっさと女湯に消えていった。太基達も男湯に向かう。久々の風呂は実に気分が良かった。石鹸がないので湯で体を流し、入口に置かれたヘチマの垢すりで体を擦って身を清めてから湯に浸かる。湯に浸かると今までの移動と野営の疲れも全て溶けて流れていくようだった。


「昔は灰も洗濯なんかに使ったらしいけど、今じゃ只のゴミだね」


 翌朝は日の出前に起きて湯を汲み出した。まだ温い湯をバケツに汲み出して、湯をぼろ布に浸して浴室も裏方で動かす道具類も全てゴシゴシと掃除した。今は湯を沸かすのに燃やした草木の灰を掻き出しながら、取り留めの無い話ばかりしている。


「文里さんって時々変なことに詳しいですね?」

「だいたい歴史か民俗学の本の受け売りだよ。灰ってアルカリだから、油汚れが落ちるんだって」

「ああ、そういえばウチの母親も同じこと言ってました。灰と油で石鹸作るのに何回か失敗した後は、灰を漬け込んだ上澄みでいいや、って……あ、ロジンだ」

「ロジン?」

「松脂が溶けた後に残るキラキラしたやつです。松脂ってよく燃えるから、冬場は松の枝も採りに行かされてて。こうして出てくるキラキラのロジンは松の樹脂ですね。これもウチの母親、石鹸作りの材料にしようとしてたことがあったかな。こういうの環君にあげたら喜ぶかなあ」

「それ、本人が集めるからいいんじゃないか。環にやらせてみよう」

「じゃあ紫珠乃さんに連れてきていいか聞いてみます」


 紫珠乃は銭湯の女将さん、伊丹さんと共に脱衣所の掃除中だった。環はその横で水遊びに興じている。


「環君、灰の中にキラキラあったよー」

「見る!」

「「「キラキラ?」」」

「きれーだね、ちょーだい」

「灰の中に落ちてるよ。松脂が溶けてでてくるから。僕のお母さんはこれで石鹸作ろうとしてたこともあったよ」

「ちょっと待って。その話、詳しく聞かせておくれ」


 浴場に石鹸が無かったのは、欲しくても手に入らなくなったからだった。幼い頃から石鹸が無いのが当たり前で育ってしまった太基は気づかなかったが、石鹸作りには、実は相当な需要があった。


「何で気がつかなかったんだろうねぇ。昔、知り合いの薬剤師に何とかならないか聞いた時にさ、油と苛性ソーダが無いと駄目だって言われたんだ。天ぷら廃油すら手に入らなくなったあとはすっかり諦めてたんだよ」

「釜に落ちてたの、大した量じゃ無いですよ?」

「とりあえず、少しずつで良いんだよ。それに、固まらなくてもウチは何とかなる。まずは手に入る材料で出来るか出来ないかが肝心なのさ。ちょっと私は今夜の支度もあるから、お遣い頼まれてくれないかい」

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