夜来、風雨の声
まだ太基が幼かった頃。
「じいじ、何か白いの居る」
「見るな、指差すな。攫われるぞ」
何度か、こんなやり取りがあった。
「太基に憑いとるのが山神様か、モノノケか。ワシには分からん。が、どちらにしろただの人間が関わってええモノじゃないな」
太基が既に眠っている夜半に、客である壹拾さんは太基の祖父の話に静かに耳を傾けている。
「神様なら直視するのは不敬じゃな。モノノケなら、イタズラ程度で済ませてくれるならいいがなあ。どちらも、少し間違えれば本人か、下手すりゃ家ごと祟られるわな」
「祟り、ですか」
「若いモンは信じないかも知らんがな。その昔は……神様を祀る祭礼も色々あったが、忘れられてしまったそうだ。そういう殆ど忘れられた神様の言い伝えがここら辺りはちょっとだけ残っとるなあ。だからこそ、太基の奴には何か見えとるのかもしれん。それが良いことなのかはワシには分からん。神様だかモノノケだかに見える人間がどうすればいいのか、どうにも分からん」
「だから山から出すんですか?」
「そうするしか思いつかんなあ。ワシはどうでもええが、息子も嫁も、麻衣もおるからなあ。ずうっと気にはなっててな。なに、見えんワシらだけになったからって山への感謝は欠かさねえし、悪いことする気はねえ。ただなあ、太基の奴が山から降りて何も見なくなるなら、その方がええのよ」
「ずっと町に出しとくんですか?」
「少しの間で充分、神様に好かれるのはだいたい無垢な子供だ。少し町で世間様に揉まれたら変わるだろう」
そんな話があった。だからすぐには帰れないことになっているのだが、そんな事は今の太基は知る由も無かった。
『姿を見せたらどうだ。どうせそこらに居るんだろう』
『分かってた? もう数年、あっという間だねぇ』
『随分待たせた。あの時死にかけの人間はいくらでもいたが、条件に合う人間はまだほんの子供だった』
『それも主の思し召しってやつだろう?』
太基は成長してからも時折白い靄のような何者かを見ていたし、相手にしないように心がけるようにもなっていた。もっとも、白い靄を見かけたときに一瞬とはいえ確認してしまう癖は抜けなかった。そんな時、大抵は無自覚に仕事の手を止めてしまうせいで、一緒に山歩きをする祖父には何かが見えていることは筒抜けだった。
山の中で度々遭遇するようなモノなら町に降りて離れてしまった方がいい。本人に居着いて離れないのなら、せめて少しの間でも家族から引き離したほうが他の者は安全に違いない。
しかし、見えない側の人間である祖父は、目に見えない何かは一柱だけだろうと決めつけてしまっていた。まさか麓の町と自分たち家族を繋ぐ客人が同じような何かをひきつれているとは夢にも思わず、太基を使いにやってしまったわけである。
『君とメイ以外、今のところ近くに居ないみたい。それにメイのアバターはまだ子どもでね、紫珠乃が動ける範囲しか探索出来てない。北は太基君の自宅まで、東西にも距離としては似たようなものだよ』
『南は?』
『ほんの数km先は太平洋だね』
太基は壹拾さんに先導されながら山を降りていった。緩やかな下り道の向こうには少し大きめの集落があるらしい。小学校に通っていた頃は二つ目の湧き水の場所に向かう前に道を曲がって小さな村の小学校に通っていた。学校が無くなってからは二つ目の湧き水より向こうに行くことは無かったから、そこから先は完全に知らない場所になる。
「速いね。そんな量の荷物をずっと背負って歩いてるのに」
「別に、まだ平気です」
「あはは、お爺ちゃんによっぽど鍛えられてるね。でも程々にね。ずっと下りが続くから膝にきちゃうよ。太基くんの年で無理したら将来大変だから。こっち側は初めて?」
「初めて。いつもは家より上の方の獣道ばっかり歩いてるかな」
「ああ、じゃあコンクリの道路はちょっと体への負担の掛かり方が違うから気をつけてね。ずっと岩の上を歩いてるみたいな感じだから」
そうは言っても、舗装はひび割れたところが多く、苔も生えているし落ち葉も降り積もっていたから獣道とそう変わらない感触だった。古くて所々錆びたガードレールの向こう、崖の下で川が流れている。反対側は壁になっていて草木が生い茂っている。良く見れば金属網のフェンスがあるのだが、そんなものはとっくに植物に覆われてしまっている。
「本当にこれ、ずっと続いているんですか?」
「続いてるわよ。ああ、北側はバリケードが張られてるんだっけ?」
「そうらしいんですよ。父さんからの又聞きですけど。北のある場所を境に向こうには行けなくなってて、危ないから近所の人がバリケード作ったらしいです。爺ちゃんは日本一古い道祖神様の仕業じゃないかって言ってましたけど」
「もしかしたらそうかもね。ちなみにバリケードはもうすぐ到着する市街地の北端にもあるわ」
前に向こう側に行って戻ってきた人の話を彼女も聞いたことがあった。バリケードの向こうのあるラインから向こうの風景が、注意してみると鏡みたいになっており、その向こうには人の姿が無いらしい。向こうに歩いて行くことは出来るが、そこは無人であり、進めば進むほど元来た場所へ戻っていく。戻ってきた人は後ろ向きに歩いたらいつの間にか普通に人が居る場所に戻っていたという。その人は集落に戻っただけ運が良かった。山深い場所の集落であるから、向こう側の山中で後ずさりすれば、そのままこちら側の山中に出てきてしまう。そうなれば遭難してしまうから危険極まりない。
「その人は真冬の諏訪湖に御神渡りを見て、それからワカサギ釣りに行きたかったらしいのよね。キャンパーさんで山も好きな人だったけど、アレは山に慣れた人でも危ないって話してたわ」
「あー、ワカサギ美味いですよね。で、『おみわたり』ってなんですか?」
「冬の湖で一面氷が張った後に、氷が山の尾根みたいに盛り上がって、それが延々と続くことがあるのね。諏訪湖の場合は湖を挟んで男女の神様をお祀りしているから、御神渡りは男の神様が女の神様のところに渡って行った跡だと言われてる」
「不思議な話ですね」
「もともと不思議な話の多い場所らしいわ。私が知ってるのは御神渡りと新年早々、蛙をお供えする変わった行事があることくらいだけど」
「それ珍しいんですか?」
「普通は四つ足の動物なんか供えないと思う」
話しながら一日中歩いて、日が落ちてきたので壹拾さんの持ってきたカンテラに火を灯した。今夜はもう少し先にある市街地で宿を取るという。この集落に足を踏み入れたときには既に辺りは暗くなっていた。公園の広場に向かうと何人かが焚火を囲んでいた。
「ありゃあ、紫珠乃ちゃんお疲れ様。その子は誰?」
「玖村さんとこの子供さんです」
「玖村太基です、こんばんは」
「こんばんは。よう来たね、アンタの父ちゃんと爺ちゃんにはお世話になってるよ」
「んだ、あの二人がおらんかったら生活出来んところやった。あの二人はうちらの恩人じゃ」
「え、そうなんですか」
「息子君も凄いんですよ。猪も獲れる勇敢な子ですよ」
「将来有望だねえ」
「いや、俺は爺ちゃんみたいに出来ないし」
「ええなあ、ご馳走やなあ」
結局、猪肉があると分かった時点で全員の注目を浴びてしまい、いつの間にか濁酒が出され、近隣の家からも人が出てきて焼肉パーティーとなってしまった。壹拾さんはにべも無く断っていたが、結局は太基が少しだけなら分けることにした。一人に薄い肉が一切れあるかどうかというくらいだったが、皆が喜んでいたから悪い気はしなかった。太基は少し大きめの切れ端を貰った。もう少し熟成させても良さそうだったが、今まで食べたどんな肉より美味しかった。
遠くから雨の音がしている。じきに一雨きそうだったが、雨足が近づいてくることは無かった。ずっと同じ場所で降っているような違和感を感じた時、太基の視界にまた白い靄が見えた。今度はソレが太基の方を向かずに雨音をずっと聞いているように思えた。いつも通り目を逸らして僅かな灯りを頼りに食糧を出そうとしたところで壹拾さんがこちらを見ていることに気がついた。
「気になる?」
「え!? いや、その何でもな……」
「いいのよ、お祖父様から見えてるって話は聞いてるから。この辺りは殆ど忘れ去られたような神様の話が残っているとかいう話なんかとごちゃ混ぜにね」
「祖父ちゃんが?」
「そういうのを黙ったまま預けようって考えは無いんでしょ。普段町でお会いしてても思ってたけど、誠実なお祖父様よね。そうそう、私が貴方のお母様と元同僚で仲よかったってのもあって良く話してたんだけどさ、時々聞いてたこの地域の良く分かんない神様の話とかも夫と一緒に色々聞かせてもらっててね。そういう流れがあったから、私が相手なら『うちの孫は何か見えてる』みたいな話をしても大丈夫だって考えてくれたのかも」
話をしながら、鞄から出した食糧を壹拾さんが差し出したのを受け取った。竹の皮に包まれた握り飯だ。ありがたく頂きながら壹拾さんの次の話を待つ。正直なところ、太基の知らない町での話を聞かされたところで、どう反応するのが良いのか分からなかった。
「不思議な話、別に貴方のお祖父ちゃんから聞く話だけでもないってのもあるわね。他にも聞かされることがあったりするとさ、まあ『そういうこともあるかな』とは思っちゃうのよね」
「何かあったんですか?」
「これはこの集落のお年寄りから聞かされた話よ。この近くに阿智神社っていうとても古い神社があるのですって。元々は別にそんな変な話は無かったのだけど。今はあの周辺だけ雨や霧、時には雷、雪に阻まれて、とても人が入れる状況じゃないらしいの。あの遠くから響く雨音がそう。あんまり深入りしないほうがいいのかもしれないわね」
それきり、あまり話は続かずに食事を終わらせて眠りについた。雨音は夜が明けても遠くに響くばかりで一向に動かなかった。なるほど、あちらにはあちらで人ならざる何者かがきっといるに違いないのだった。




