夜明けとともに
翌日の早朝。未だ薄暗い中で太基は目が覚めた。昨日は猪を仕留めた高揚で忘れていた疲労が今朝になって重く体に纏わりついてくるようだった。山歩きにも重い荷物を運ぶのも五年もすれば慣れてきている。それでも「初めて」の経験からくる緊張と高揚感の揺り返しで、今朝に限っては目が覚めても眠くて仕方ない。できれば今日は寝直したい。猪が一頭獲れたから、今日は罠を仕掛けには行かないだろう。母さんの畑の世話や鶏の世話の手伝いで済むなら遅く起きてもいいはずだ。それなら、尚更眠りたい。
もう一度眠ろうとする太基だったが、その耳が遠くから近づいてくる足音を捉えたせいで二度寝することは叶わなかった。複数の人の足音が、やがて家の前までやってきた。暫く動く気配は無かったが、やがて鍵を開ける音がして、そっと誰かが扉を開け閉めする音が聞こえた。
「お帰りなさい」
「お、起きてたのか。ただいま」
「お邪魔します。朝早く、失礼します」
太基の父が帰ってきたのだった。その後ろでファー付きの毛糸の帽子をさっと取った女性が頭を下げた。ネックウォーマーで鼻まで隠しているが、その目元から太基の母より幾分若いことが伺える。
「あ、前に会った人。誰だっけ」
「トーマリさんね」
残念ながら、太基は山の草木やキノコ、生き物の種類はすぐ覚えるのだが、人の顔はどうにも覚えるのが苦手だった。いや、昔は小学校の同級生の顔は全部覚えていたし、今でも思い出せる。学校に行かなくなってから家族以外の顔を覚える必要性が無くなってしまった、というほうが正しい。
「まあ、太基は一年以上会ってないから仕方ないか。父さんやお爺ちゃんが麓に降りて仕事をしている時にお世話になっている人達なんだけどね。ほら、たまに父さんが本を何冊か持って帰ってくるだろう? あれだって太基と麻衣のことを気にかけて、中古で譲ってもらえる教科書なんかを集めてくださってるんだ」
「あー、有難うございます。麻衣は手伝いの合間にああいうのちゃんと読んでるみたいです」
「良かった。こんなご時世だけど、勉強は大事だからね」
「麻衣は、じゃなくてアンタも勉強しなさいよ!」
いつの間にか母親も起きてきていた。妹と違って山の中を歩くばかりで本など読んでいないのを嘘にならない程度に誤魔化したつもりだったが、この一言でささやかな努力は水の泡である。
「わかってるって!」
「分かってない! 壹拾さん、もっと言ってやってよ。山に潜るのも程々にして、将来のために少しは本も読んだほうがいいって。猪獲るだけじゃ生きていけないじゃない」
「いや、そんな。それに猪獲るって凄いですよ?」
「別に凄くない。俺、爺ちゃんに教えられた通りに罠仕掛けていっただけだし! 渡された斧で真正面から殴ったら倒れたけど、爺ちゃんみたいに上手いわけじゃないし!」
「え、太基君が全部やったの?!」
「そうじゃ、もうワシも楽隠居したいわい」
家族が起き出してくるとともに賑やかになり、いつの間にか母親がお茶を淹れて全員を客間に招く。壹拾と名乗った客人は麓の街から来たという。いつもは連れて来ないが、夫と子供がいるらしい。
「今回も集められるだけのものは持ってきました。いつも誰かのお古で申し訳ないですけど」
彼女は抱えてきた大きな包みを開くと本や鉛筆、靴、タオル、古着やハギレを取り出した。太基の母が主に取り仕切り、使うものだけ引き取る。あとは大人どうしの話し合いで彼女にこちらから渡せるものを渡すのがいつもの流れだ。ここ数年で彼女も太基達、玖村家の状況は良く把握してくれていて、殆どの物は引き取られていくことになる。
「じゃあウチからは……あ、猪獲れたばっかりだから、それでいいですかね」
「え、それ太基君は良いんですか」
太基の父の発言に壹拾さんは盛大に遠慮し、玖村家の全員が固まった。提案した本人だけはお構い無しに尚も喋る。
「いや、昨日獲ったばかりなら、麓に持ち帰るころには丁度いい塩梅になってますよ。猪ならまたきっと獲れます。親父もまだ山歩けるし、運良く捕まえただけの息子とは訳が違う。それより、貴女のほうは次いつになるか分からないでしょう。今回は是非持って行って下さいよ。貴女のおかげで勉強なんてさっぱりダメな馬鹿息子はおいといて、娘は良く勉強できてます。こんな状況でも先の楽しみがあるってものです」
「なんで俺に何も訊かずに勝手に決めるんだよ!」
「うるさい! 子どもが大人の話の邪魔するな!」
「ずっと子どもじゃないし!」
「いや、あのホントそこまで気遣いしなくても……」
「ええ加減にせえ」
低く唸るような、凄みのある声に押し問答は終わりとなる。全員が静まり返った。コケコッコー、と朝どきを告げる雄鶏の声だけがいやに良く聞こえる。普段は無口な好々爺、怒らせれば誰よりも怖い。長年共に過ごした家族は骨身に沁みているのだが、突然の変わりようにもう一方の当事者はまるで置いてきぼりとなってしまう。
「さっきから聞いてりゃ、勝手ばかり言いよって。お前、そりゃ麻衣の方が太基より本読むのが得意だろうがな、だからって麻衣の方が偉いってことじゃねえ。山ん中歩き回るのはナマクラじゃあ、できねぇよ......俺が若かった頃は、百姓は朝から晩まで真面目に働いているのに俺は山ん中で遊んでるって、皆して俺のおっ母や、結婚してからは婆様にイヤミ言ってたな。時代が変わっても、どいつもこいつも似たようなもんだな。誰が何と言おうと、太基も麻衣も立派に大人になっていっとるよ」
そう語る目は遠く、彼が若くして辛酸を舐めてきた時代を見ているようだった。しんと静まりかえった客間に庭先から二度目の刻を告げる雄鶏の声がした。
「太基、湧き水の所に広い道路があるだろう。それをな、ずっと川沿いにもう一個の湧き水の方に向かって歩いて、同じ道を一日中辿れば少し大きい町の後に出る。そこから壹拾さんの居る麓までは、一週間くらい歩き通しになる。まあ、道路の後を辿るだけだ。お前なら歩けるだろう」
「歩くだけなら、いくらでも俺歩くよ」
「おう、壹拾さんも歩くんだから弱音吐くんじゃねぇぞ」
今度は、祖父は壹拾さんの方に向き直り、がば、と頭を下げた。突然のことに全員が呆気にとられる中、祖父は一片の迷いも感じさせない口調で言い切った。
「壹拾さん、太基の奴を町まで連れてってやって下さい。未だ拙いところはありますけど、儂が教えられることは教えとります。だけど、コイツはあの時周りで何が起きたか、今どうなっているか知らない。今まで山の中しか見せとらんのです」
再び客間に沈黙が降りた。三度目の雄鶏の声と下手くそな羽ばたきの音が聞こえてきた。
「顔を上げて下さい。私たちの方こそ、玖村さんが居なければ今ごろどうなっているか分かりません。太基くんさえ良ければ、異論はありません」
「ちょっと、お義父さん、壹拾さんはそう言うけど流石にご迷惑よ。太基だって、大きくはなったけど大人じゃないのよ」
「ダメだ、壹拾さんさえ良ければ此処から出て行かせる。このまま猪獲るだけじゃダメだって、お前もさっき言ったばかりだろうが」
「そうですけど、でも......」
「母ちゃん、俺行くよ。麻衣、俺が居なくて家の用事増えたら本読むばっかじゃいられないけど、いい?」
「うん、いいよ。お兄ちゃんこそ、色々ありがとう」
決断してしまえば、太基の行動は早かった。荷造りは元々は父か祖父が持って行く予定の物を殆どそのまま貰い受けるだけだった。食糧の準備は母がしてくれていたから、太基のすることといえば靴や下着を用意する程度だ。母は祖父がいきなり決めてしまったことに愚痴を溢していたが、初めての長旅に心を囚われている太基は碌に聞かなかった。長く歩いてきた壹拾さんが休んでいくと言うので出立は翌日の予定だ。ドキドキして眠れそうになかったが、早朝に起こされて疲れていたからか、床につけば早く寝入ってしまった。
出発は翌朝、陽も昇らないくらいの時間だった。起きてきたのは太基と壹拾さんの他に母と祖父だけだった。他の寝ている家族を起こさないよう、静かに別れを告げる。玄関から一歩出ると冬の冷たい空気が顔を撫でていった。
「じゃあ、行こうか。太基くん」
「はい、よろしくお願いします」
いつもの湧き水の場所まではすぐに着く。水汲みは太基の仕事だったから迷うようなことはない。暫く歩くと後ろで玄関を開ける音がした。
「太基!」
母の声に足を止めた。こちらに走ってくる。
「どうしたの、母さん」
「今まで言わなかったんだけど、おばあちゃん、生きてるかもしれない」
「は?」
「アンタが雪崩に巻き込まれた後、おじいちゃんとお父さんが『何で見てなかったんだ』って怒って喧嘩になっちゃって。それで『私が探しに行けばいいんだろう』って言って出ていったきり戻って来ないから、おじいちゃんもお父さんも死んだんじゃないかって思っているみたい。だけどね、おばあちゃんもあの時はまだ元気に山菜採ってたし、湧き水の向こうの町にもお友達が居て仲良くやってたのよ。もしかしたら、そういうお友達を頼って生活してるかもしれない」
「え、でも生きてるなら普通は戻ってくるんじゃないの?」
「......ちょっと、お母さんもどうかと思うくらいの喧嘩だったのよ。後でおじいちゃんもお父さんに言い過ぎだって怒ってたくらい。お友達を頼って生きていけるなら、もうそっちに居着いてても文句言えないわ。おじいちゃんもお父さんも変な所で頑固なせいで、町に降りても消息聞いてないんじゃないかしら。とにかく、アンタだったら聞いて回りやすいと思うし、おばあちゃんも話しやすいと思うから。悪いけど、お願いね」
母と別れて、まだ暗い道を降りて行く。いつも使っている湧き水まではあっという間に辿り着く。そこから右に曲がって暫く歩くと、古びたバス停の側にもう一つの湧き水がある。そこから先へは太基は行ったことが無い。
「おばあちゃん、見つかるといいね」
壹拾さんの言葉に、頷いて黙々と歩く。灯りも何も無い道が目の前にずっと広がっていた。




