雨宿りが終わったら
「はぁー、不味い。また蛹の塩茹でしかないなんてねぇ」
不味い、少ない、などという母の愚痴を聞かされながら、不二果は黙々と朝食を食べていた。蛹の塩茹でしかない、という言葉は少なくとも不二果の母には当てはまらない。母には少ない中から冷やご飯で玄米とはいえ米を出しているし、一個しか無い卵も、堆肥と交換で貰ってきた山葺の塩茹でも母親のものだ。不二果は母が気持ち悪いと手を付けない蚕の蛹だけを黙々と食べている。仕事先の知人からのご厚意で譲り受けたのだから、ありがたく頂くのが当然だった。
母の愚痴は止まらない。薬剤師である㭭幡さんのことは娘に優秀な恋人が出来たとほくそ笑み、絶対に自分の親戚に引き込みたいからと食糧を融通するのも許容している。しかし、その客人にまで食事を出すことには不満でしかないのだ。
「大麻、大麻さえ手に入れて売り捌ければ。もっと良い暮らしが出来るのに。安海だって帰ってくるはずなのに」
安海、というのは不二果の妹だった。二重のぱっちりした目が印象的な、まるで人形のような美少女。不二果とは髪の色くらいしか似ていない。両親ともに可愛らしい妹が一番で、姉は妹に気を遣って、両親に尽くすのが当たり前という安っぽいドラマに出てきそうな家庭だった。妹はダンスや歌、お芝居が好きで、市民劇団に所属していた。それがいつの間にか芸能プロダクションのオーディションを受けたり、地下アイドルとして活動していたり、とにかく忙しくなった。
あの日、安海は大阪のライブハウスでコンサートをしていた。揺れで崩壊したライブハウスから唯一救出された同じグループの女の子は現場は血の海だったと語った。そのライブハウスは揺れの後の火災で燃え落ち、もはや誰がいたのかもよく分からない。とはいえ安海がコンサートのためそこにいたのは疑いようもない。せめて花を手向けようとしたら母は怒り狂った。確かに大阪で安海を見たと言って譲らなかった。
働くのが嫌で結婚し、いつの間にか二回の離婚をした母は、楽だからという理由でいつの間にか大麻の売人になっていた。問いただすと隙を見て通っていたクラブの知り合いから貰うのだと宣った。
不二果は母を連れて仕事の伝手を頼って此処まで流れてきた。大阪から離れれば解決するかもしれないと考えたのだが甘かった。ここまで来て大麻を探し求める母はもうとっくに中毒者でもあった。伊勢麻の存在を知ってから大麻を大阪に持ち帰ろうとしている母の更生を不二果はもう諦めている。母と二人の時、不二果の感情は死んでいる。一日が過ぎるのをただひたすら待っている。
ある日などは大麻畑の場所を神宮に聴きに行くと主張する母に不二果は何も考えずに付いて行った。
「だから、大麻あるんでしょ、どこで育ててんの、言いなさいよ!」
「言えません。あとウチで使っている大麻はそういうのじゃありません。お引き取りください」
「でも麻布作ってるんでしょ! だったら少し分けなさい! 言え! 言えーー!!」
「あれ? 麻布って荒妙の話かな? あれ気になるよね、いやよくご存知で」
母は一度ヒートアップすると止まらない。子供の頃から安海を庇ってきた不二果には分かっている。だから知らない人に矛先が向かっている時は天井の染みや雲を眺めて待っている。今回はなんだか空気を読まない男が割り込んできたことには気がついたが、不二果はそれをただぼんやり眺めていた。
「んー、品種ならトチギシロ、ほぼ無害なやつですね。そうじゃなきゃ、今のご時世、怖くて栽培できないのでは? 生活がつらいほど麻薬が流行るのは歴史が証明してます。あのアヘン戦争も、アメリカの無茶な関税通告も麻薬が流行ったからで……」
「適当な事言って誤魔化すんじゃないよ! 絶対お前ら隠してんだ!」
「隠してたらダメでしょう。少なくとも生きづらい人の心の拠り所たるべき宗教が、神様より麻薬を拠り所にさせたら終わりです。管理する時の都合を考えても、出来るだけ無害な品種を使うのは当然でしょう」
「嘘だ、嘘だ、どいつもこいつも馬鹿な女だって舐めやがって……」
「まだ言います? 植物なんて油断してると溢れ種とかで他所に出ていくものだと思いますけど。ケシ、遺伝子組み換え菜種、色々あるはずですよ?」
「ケシに菜種?」
「テレビやネットがあった頃はたまにニュースになりませんでした? 菜種はともかく、ケシは違法だから特に。ちょうどあっち、昔の駐車場みたいなとこにも花畑できちゃってるし。まあ、あれも歴史の一端かなぁ」
「詳しく教えな」
もう母は不二果を時折睨み付けるように見ながら話を聞き出そうと躍起になっている。早速集めて来いということだろう。
甘味処『藍林みつばち』を開けるために戻る道中、案の定、不二果は乳液採取を命じられた。もちろん、堆肥を今日約束している所に届けた後の話だ。米を炊いておむすびを大量に作って、大急ぎで知り合いの元革製品雑貨屋、今は靴でも作れる人に話をつけた。それから恋人とその客人のために昼食を届けに走り、発酵の足りてない鶏糞を混ぜ返して様子を見て、出来上がってる堆肥を届けにも行かなければならない。
「不二果ちゃん、環君の靴頼んでくれてありがとう。ご飯も、いつも美味しそうだ」
「ありがとー」
「光君と環ちゃんが喜んでくれるなら良いんだよー」
「不二果ちゃん、一緒に食べよ」
「食べよ」
「ありがとう。でも私はまだお腹空いてないから大丈夫だよ」
「本当に? 無理しないでね。これ終わったら何か埋め合わせするから!」
「埋め合わせって?」
「どうしようか。壹拾さん達みたいに一緒に旅にでも出る?」
「あはは、じゃあずっと東に旅して行けば、また壹拾さん達に会えるかもしれないんだ。行きたいね」
行こう、とは言えない。一緒に居られなくなるかもしれないのだから。せめて夢見るくらいは赦してほしい。
「貴女はどうしたいの?」
真っ直ぐな問いに不二果は現実に引き戻された。昼間のうだるような熱気は今日も昼下がりにバケツをひっくり返したような雨を連れてきた。地面に叩きつけられた大粒の雨は五十鈴川に注ぐ濁流となって町中に轟音を響かせる。雨宿りしている扉が壊れて錆びついた軽自動車の屋根にも容赦無く雨が叩きつけている。
「分かりません。もう、どうでも良いです」
答えてから後悔した。どうせ母親に縛られる不二果に未来は無い。だからこんな問いは雨音で聞こえないふりして無視してしまえば良かったのだ。
「じゃあ、私と貴女がどんな仕事を命じられたか、うっかり口を滑らしても貴女はどうでも良いのね」
「母を脅すんですか?」
「お母様? 私にはどうでも良いわ。貴女の世話になった覚えはあるけど、その母親までは知ったことではないのよ」
少し遠くの道を駆け抜けていく人影が見えた。走っていく先は不二果達の目的地でもある駐車場と同じ方角だった。暫くすると今度は来た道を引き返して行って、あっという間に見えなくなった。
「ああ、そういえばケシの花が咲いている場所なんて、いったいどうやって知ったの?」
「ただの偶然です。伊勢神宮で、母が麻を育ててる場所を聞いてたら勝手に話に割り込んできた男の人が言ってたんです」
「貴女、母親と一緒にその人に食い物にされるんじゃない?」
「知りませんよ。なんか大麻の品種の話とかアヘン戦争とかアメリカの関税とかいっぱい話してました。好きなこと話し出すと止まらない典型的なオタクなんだとは思いましたけど」
「……そういうことか、あの馬鹿が」
「え?」
「そいつは多分、貴女のお母様が大麻やケシの情報を聴き出そうとしていたことをポロッとどこかで漏らすわよ。ねえ、さっき向こうの道を人が走っていくの見えたでしょ?」
「見えましたけど、それがどうしたっていうんですか」
「あれ、太基君だと思うわ。あの子、植物やキノコには詳しくてね。何なら海藻なんかも一度教えられた種類は間違えないの。方向感覚も完璧だし、ちゃんと情報さえあれば指示された植物を引っこ抜いてくるくらい朝飯前のはずよ。そうだとしたら、何故あの駐車場の方角に向かったのかしらね?」
「誰かが指示したとでも言いたいんですか?」
「そうよ、ああ私の夫が歴史オタクだって話はしたかしら? 日が昇る前から伊勢神宮で神様のお食事を供える様子を観に行っちゃって、貴女にお世話になってる割には顔すら合わせてないみたいだけど」
「え、じゃあ私達が会った人って」
「私の夫だと思う。ねえ、今私達以外に他所の人がどれだけいるかしら。今走って行ったのが太基君だとするなら、多分、㭭幡さんあたりがとっくに知ってるんだわ。子供達のために頑張って食中毒の調査をしている彼が、ケシの中毒なんて聞いたらどう思うかしら」
「それは……」
「今なら未だ、蜂蜜中毒だけで済むわよ?」
「え、そこまで」
「やっぱり知ってるんだ。まあ蜂蜜だけなら子供達には可哀想だけど事故扱いで済むかもね。㭭幡さんも同じ蜂蜜で中毒者を出さないために調べているだけで、誰かを罰したい訳ではないって言ってたわ。だけど大麻とケシは洒落にならないの分かるわよね?」
「……本当は分かってます。彼が子供達を守るために一生懸命なことも、母がしていることが良くないことも」
「そうでしょうね。ねえ、貴女も良い大人なんだから責任は取らなきゃいけないけど、誰かの言いなりになって思考や感情を放り出す必要は無いのよ?」
「はい」
雨はいつの間にかあがっていた。もうここで雨宿りを続けているわけにはいかない。自分で考えて感じて歩いていかなければならない。
ただ不二果の場合、考えることと感じることを自分自身に赦して取り返すのが先である。




