ドラッグの基礎知識
ガサガサと何かが茂みを掻き分ける音がした。太基達は急いでおにぎりを包んでいた竹皮を捨てて荷を纏めた。一番太くて長い枝を手元に引き寄せて構える。最悪のパターンは熊、いやこの辺りなら猪か。
やって来たのは幸いにして人間だった。タオルで汗を拭きながら、初老の男が太基達が来たのとは反対の方向から登ってくる。杖を手に、ゆっくりとした足取りで、時折後ろを振り返っている。人だと分かったところで二人とも構えを解いた。それでもこちらに気づいた男は驚いていた。今度はこちらが猪か何かと間違えられたかもしれない。
「こんにちはー、大丈夫ですかー」
「大丈夫とちゃうやろ、すまんなあ、驚かしてしもて」
「へ、ああ大丈夫です。しかしねえ、ロープを越えて来たんですか? 困るなあ」
「ロープ? そんなもん何処にあるんや」
「いや道の途中に立ち入り禁止のロープと猪避けの有刺鉄線が張られてたはずです、とぼけないでください」
「あの、あっちの道には無かったです」
何やら話が噛み合わない。男の声が刺々しくなってきた。あっちの道には無いという太基の言葉も取り合ってくれない。
「もうええわ。ワシらもう飯も食ったし帰るところやで。何や有刺鉄線やら越えていくくらいやったら、来た道戻ろうや」
「はい、少なくとも雨が降る前に沢は越えたほうが良いですね」
「え、そっちは崖じゃあ……」
一般的に獣道を道とは言わない。その常識が綺麗に抜け落ちている二人に初老の男は青ざめた顔をしている。
「あれ、太基君に伊丹さんだ。奇遇だなあ」
後ろから漸く追いついたという様子の文里が呑気に声を掛けた。
「何でこんな所にいるんですか?」
「何って、この辺で育ててるものが色々あるそうだから見学に。今まで式年遷宮で使う檜だけ育ててるイメージだったけど、百聞は一見に如かずだよ。あの日以来、元々計画的に植樹していた領域の外にも桑を植えてみたりとかしているそうだ。同じことを続けるだけじゃなくて変化もしていく、歴史の転換点に立ち会った気分だ!」
「地主さんが行方不明か亡くなられた土地の管理を兼ねてることもちゃんと説明してくださいよ。神宮が勝手に使っているように誤解されると私達が困りますから」
「つまり、そのおっちゃんは神宮の人かいな」
伊丹さんは初対面だとは思えないほど気さくに話しはじめる。大阪の人間の気質でもあるのだろうが、相手が自分と同年代のおじさんであるためか更に遠慮がないように見える。
「はい、狩衣ではないので分かりにくいかもしれないですが。私は今日、本当は休みです。数日前にこの方から大阪のほうが大変だからボランティアに行くのだというようなことをお伺いしましてね。このご時世に素晴らしい心掛けだと上に掛け合ったんですが、まあ気軽に見学して良いとは言ってくれませんでして。ただ『権禰宜個人の休みの散策や交友関係は関与いたしません』だそうで」
「なるほどなあ。大阪から来たっちゅうんはワシのことやけどな。おっちゃん、ホンマにありがとうな」
「ああ、それでお知り合いだったんですか。ええ、困っている方に目を向けないようでは神様に顔向け出来ませんから」
「ホンマもんの神職者は違うのー。ワシなんかキリスト教の教会に拾われて出入りはしとるし炊き出しも手伝うが、本音をいうなら面倒や思うことはしょっちゅうやし、酒も呑みたいし、女も抱きたい、世間擦れしたクソジジイじゃ」
「それもまた人生、良いじゃないですか」
「人生、な。まあ、こんなんでも教会に関わっとるのも人生か。まあ、退屈はせえへんな。今のウチの牧師も中々おもろい奴でな。アル中、ヤク中、ヤクザにゴミ漁りしとるホームレスばっかり拾っちゃあ説教かまして神の愛を説く阿呆や。あ、でも最近ヤクは減ったな。せいぜい葉っぱとキノコ、たまーにジャンク。今のジャンクはホンマにジャンクらしいで。精製できひん言いよるわ」
「葉っぱとキノコ?」
「大麻、マジックマッシュルーム、違法なドラッグですよ」
「せや。大麻って祭祀に使うらしいから神宮で育ててんやろうけどな」
「なんか微妙に誤解されてる気が。確かに神宮でも神御衣祭でお供えする和妙、荒妙の衣のうち、荒妙の原料は大麻ですから法律に則って育てている区画はあります。ただし麻薬としては無価値な品種です。それでも盗もうとする方がいるのでお見せすることはできませんが」
ドラッグというものが分かっていない太基を置いてきぼりにして大人同士の話は進む。伊丹さんは権禰宜よりよく効く品種の大麻の方が儲かりそうだ、転職した方がいいなんて冗談を飛ばす。権禰宜さんも笑っているが、それでいいのか。話に付いて行けない太基は、ふと浮かんだ疑問を文里に尋ねてみる事にした。
「なんで葉っぱなんてよく分からない言い方するんですか?」
「大麻のこと? 煙を吸って気持ち良くなったり、幻覚を見たりするために使ったり保管したり人に売ったりしたら捕まるから。気持ち良くなれるだけじゃなくて、まともに考えることが出来なくなるし、繰り返し使いたくなるし、良くない使われ方をすることが多いから法律で禁止されている。だけど欲しい人はいて儲かるから、わざとバレにくい表現で売り買いの話をするんだ」
「そんなモノを育ててるんですか?!」
「使い方次第なんだよ。大麻の繊維から作る麻布は柔らかくて汗をよく吸うから、夏服には涼しくて最高だ。種は食用になる。昔からの素材で、神事とも縁が深いね。そして権禰宜さんの言う通り、伊勢麻の原料はトチギシロといってクスリとしては使えない種類だよ」
「じゃあ心配要らないんですね」
「そうだね。今朝も伊勢神宮をお参りしてたら麻の話を権禰宜さん捕まえて聞いてる人がいたよ。神御衣祭が近いし、興味ある人はいるんだろうね。ただ今朝のは誤解も甚だしかったし、あれはうるさかったな。だから知る限り説明してやったら納得して帰って行ったよ」
「世の中、布に何を使うか聞きたがるような人もいるんですね」
「そうだけど、歴史好きならこれくらいは資料をあたって調べて欲しいよ。クスリとしてなら、トチギシロなんかよりチョウセンアサガオ、シャクナゲ、あとはその辺に生えてた渥美ケシとかのほうが余程危ないかもね」
気づけば伊丹さんがじっとこちらの話を聞いていた。さっきまでの和やかな雰囲気が嘘のように鋭い目を向けている。
「ちょっと待ち、その今朝会ったいう人に、渥美ケシの話までしてないよな?」
「しましたけど、基礎知識でしょう? アヘン戦争も5、6年前のアメリカの関税騒ぎもドラッグの基礎知識無しに理解出来ません。花に罪は無いですから、その昔自衛隊まで出動して焼き払う騒ぎになった渥美ケシも花畑見てくる分には、まあ学びですよね。今日帰った頃にシズにはちょっと相談しようかな」
「話したんかい! 花畑まであるんかい!」
「ありましたよ。もとは多分駐車場かな? 結構たくさん」
「アホかお前は。で、話した相手、どんな奴や」
「んー、年配の女性と、もう一人は僕より少し年下かな? 彼女はちょっと明るめの髪色をまとめて、今のシズと同じ大きめのお団子ヘア。たぶん母娘かな。母親の方はやたら声が大きくて嗄れ声だった。正直もう話したくないです」
「髪色覚えてたのは褒めてやってもええか、この際。他になんか話したか?」
「娘さんの方とは花の話から蜂蜜の話になったんで、蜂蜜の歴史の話もしたら楽しそうに聞いてくれましたよ。平安時代の延喜式にも伊勢や摂津から巣蜜を献上した記録があってですねえ」
「歴史の話は後でええわ。太基、さっさと山降りるで。雨が降る前に沢抜けたら、あとは降られてもええ。お前とワシなら何とかなるやろ。どうにも、嫌な予感しかせんのや」
「ああ! 待ってください、降りるならこっちからにしましょうよ。ちゃんと道がありますから!」
道があると聞くなり芝の山を抱えて伊丹さんが歩きだした。万が一迷っても仕方がないし、できるだけ固まって行動した方が安全なので権禰宜さんに案内をしてもらった。
「なあ太基、確か昨日から飯食わしてくれとる兄さんが薬剤師やな」
「そうですね」
「状況次第じゃ、その兄さんにも協力してもらう方がええな。世の中『資格』っちゅうのが有るか無いかで全然反応が違うてくるんや」
そんなことを話した後は全員が黙々と山を降りた。有刺鉄線とロープを超える頃にはポツポツと雨が降り出した。邪魔な柴の山を温泉宿に置いてくる頃にはバケツをひっくり返したような雨になった。




