旅の理由と覚悟
紫珠乃はリストに書かれた場所より先に内宮を目指した。鳥居で一応の礼儀として一礼し、手と口を水で清め、さっさと社務所に向かって歩く。手には貴重な保存食の中から引っ張り出した干し野菜を持っている。それを奉納させてくださいと伝え、餡餅屋に行きたいと伝えると、御朱印と一緒に一筆書き添えてくれた。
相変わらず外より暑く感じられる内宮を後にして、今度は餡餅屋の本店を目指した。
切妻屋根の古風な建物を再現した一帯は、陽が高くなってしまったこの時間では人もまばらになっている。その通りの一隅に佇む甘味処はこの辺りで一番古い老舗であり、何なら通り一帯、全ての店の元締めと言っていい存在だった。
暖簾をくぐると店員であろう一人の老女が顔を出す。神宮で聞いたと言ってもらった紙と御朱印を差し出すと、お一つどうぞと餡餅を勧められた。ここまでは噂通り。店の入り口には日除けの簾が掛けられて、少しでも暑さを和らげる工夫がされている。それでも暑いことに変わりはなく、加えて他所からの観光客も滅多に来ないのか、紫珠乃の他には客は居なかった。
「お姉さん、見ない顔ですね。遠くから詣でてくださったんですか」
「ええ、元々は浜松に住んでいましたから」
「それはそれは、遠い所をようこそ」
「奉納したら一つくれるなんて嬉しいですねえ、良いんですか?」
「私らがこうしていられるのも神宮のおかげ、天照大御神様のおかげですから。一筆あれば人数分ってことにさせてもらってます」
「へえ、人数分ってのは公平で良いですね。 あ、少しお酒の匂いがしますね。味醂みたいな」
「お姉さん鋭いのね。そう、今はお砂糖が無いので味醂ね。だから昔と同じ風味には出来なくてね」
「同じお米で作る水飴とか、あるいは蜂蜜とかではなくて敢えて味醂なんですね? 結構、作るのに時間がかかるのではないです?」
「その辺りは昔からの酒屋さんにお任せです。色々良くしてくださいますから」
色々、という表現で老女は明言を避けた。流石にこの辺は㭭幡さんの言う『企業秘密』だ。
原材料の話では無い。元々法律的にも開示するのが当たり前の情報でもある。御神酒として捌けない分を回してもらえるような取引先含めた周りとの関係性こそが老舗たる強み、余計な詮索をするなということだ。㭭幡さんの場合は食中毒の調査という建前があったから仕入れルートまで聞き出せたのだろう。
「そういうの、なんか老舗の良さって感じがしますね。もしかしてこの辺りで商売しておられる方々、全部顔見知りだったり」
「『全部』は言い過ぎ。でもまあ、このご近所で商売されている方々は信頼のおける良い人達よ」
「そうなんですね。じゃあ、どうせ次のお祭りまでは伊勢に居るつもりだし、店主様お勧めのお店を贔屓にさせて貰おうかしら」
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね」
「私もせっかくなら最大限楽しみたいので。そうそう、この辺で偶然知り合った方にどんなお店があるか聞いてメモしたんですよ。ただ、教えてくれた本人も詳しく知らないお店が結構あるみたいで」
「中途半端な案内だねえ」
「名前は知ってて行ってみたいと思いながら先延ばしになってしまっているそうです。でも折角リストアップしてくださったので、出来れば帰るまでにはちゃんと感想くらいは伝えたいかな。どこが良いとかありますか? 折角なら楽しかったって報告したいですし」
老女はリストを眺めると少し考え込み、それから一つの宛先を示した。
「お姉さん、ここに書いてあるお店は大体は知り合いだし間違い無いって言ってやれるけどね、この『藍林みつばち』だけはやめときな。最近この辺りに住み着いた人達だけどね、あんまり良い噂は聞かないね」
老女は渋い顔をして溜息をつき、やれやれとばかりに首を振った。
「そうなんですか! ありがとうございます、助かりました」
「良いのよ。まったく、お婆さんの噂話なんてこんな時くらいしか役に立たないねぇ。大半はロクでもない、しょうもない話ばっかり」
「聞きたくない話まで聞こえてくるのも、なかなか良い気持ちはしないですよね」
「まあ、そういう所も含めての客商売ね」
「凄いなあ、私だったら無理かも。あ、お餅、店内で頂いて良いですか」
「どうぞ、ごゆっくり」
店の軒先で紫珠乃がゆっくり餡餅を味わっている間に老女が店番を他の者に任せて外に出て行った。
老女が向かった先は神宮の西隣の小学校、つまり㭭幡さんの勤務先だった。木板に書かれたリストは全て甘味処であり、四月の祭りにも出店していた店舗である。甘味処の店主である老女にとっては付き合いの長い相手であり、彼らが蜂蜜を仕入れていることも知っている。㭭幡さんが食中毒の調査として聞き込みをした翌々日に紫珠乃が来たのだから、木板を誰が書いたかなど老女は当然気が付いていた。
その頃、太基と伊丹さんは午前中の仕事を終えて遅めの昼食を摂っていた。バケツを掛ける作業は早々に終わっている。バケツを掛けながら、少し分け入るのが難しい足場の悪いところには枯れ草や枯れ枝が残っているのに気がついた。これもついでとばかり大量に集め、借りてきた紐で纏めていった。
そろそろ帰ろうとしたところで白い笹百合の群生地を見つけた。折角なら綺麗な花の咲く場所で昼食にしようと腰を下ろしたのがほんの数十分前のこと。笹百合の葉が風に揺れ、西に東にその葉を擦り合わせる僅かな音が、まるで急な来客に驚き騒めいているように聞こえた。
「若いのはええなあ、付いて行くのが精一杯や」
「いや伊丹さん相当動ける方ですよね」
実際、この二人はかなりの健脚だった。また自然の中で少しの油断が命取りであることも良く理解している。猟師でなければ見分けがつかない獣道は太基が見分け、今は丸腰なので避けて通る。伊丹さんは太基が言わなくても常に互いの位置を見失わないように注意して動いてくれるし、虫の羽音や鳥の気配などにも敏感だった。スズメバチの羽音にも太基と殆ど同時に気が付いて息のあった退避ができる。冷静に退避して、方向感覚を失うこともない。
この二人だからこそ、岩壁伝いの急峻な坂を登り、沢の浅い場所に倒れて天然の橋となった樹を渡るような実に難易度の高いルートを越えて、この場所まで辿り着いたのだった。
「百合根って食えるんかいな」
「笹百合は大丈夫ですけど。爺ちゃんは採るなって言ってたかな。野生の百合は少なくなってしまったからって。もう、今日は止めときましょうよ。さっき蟒蛇草も見つけたし、明日採りに来ましょうよ」
それきり話が途切れて、暫く無言でおにぎりを頬張っていた。精米せず玄米のまま炊いた米とほど良く塩抜きされた梅干しが散々汗を流した後には美味かった。前日から浸水に梅干しの塩抜きもして準備してくれた㭭幡さんの彼女、不二果さんには感謝しかない。
「不二果ちゃん、儂等にこんな良くしてくれて、無理してないとええけどな」
「でも、今日は環君がいるからゆっくりお散歩でもするって言ってましたけど」
「アホ、その分食い扶持稼げんやないか」
「そうですね。蟒蛇草、少しあげたら良いかな」
「おう、それがええ。ワシはこの歳で沢山食おうとは思わんしな。それより帰りながらまた山菜の探し方とか見分け方とか教えてや。大阪なんか、あん時本もぎょうさん波に浚われてしもうてな、山菜の本なんかも探したけど見つからへん。ワシ、海のものは教えてやれるけど山の方はさっぱりや。少しでも分かれば、教会の炊き出しも助かるねん」
「そういえば、そもそも何でこんな遠くの教会を頼ってきたんですか」
浜松の市街地に居るうちに、屋根に十字架が架かっているのがキリスト教の教会の建物であることは太基にも分かってきた。ここまでの道すがら幾つかそういう建物を見て、案外あちこちに探せばある事にも気がついていた。だから尚更、何故ここまでの距離を伊丹さんが旅してきたのか不思議だった。伊丹さんはそんな太基の疑問にも丁寧に答えてくれた。
キリスト教と言ってもプロテスタントは幾つかの教派があり、牧師は同じ教派の教会に転勤となることもある。
紫珠乃も子供の頃から牧師である親の転勤に付いていく形で住む場所を点々としており、以前は大阪に住んでいた。紫珠乃と伊丹さんが知り合ったのもこの頃の話である。その後、紫珠乃は就職までにかかる学費を抑えるため高専に進み、そのまま就職した。紫珠乃の就職と同じ頃に彼女の親は浜松に転勤している。
それから数年後、例のあの日。紫珠乃は妊娠中で、夫である文里と共に浜松の親元を訪ねていた。それ以来、帰ろうにも帰れなくなった壹拾家は浜松で生活する事になる。
一方、伊丹さんはといえば例のあの日からずっと大阪で食べる物にも事欠く生活をしていた。そんな中、悪いことは重なるもので、日頃居ついている教会まで空き巣に入られた。まだ紫珠乃達が大阪にいた頃のプリント写真とその後数度やり取りした手紙の束が偶然出てきたのは、空き巣被害の後始末をしている最中だった。
『浜松は農業が盛んでお茶に蜜柑、じゃがいも、キャベツも美味しいです。うなぎだけじゃないみたいですね。良いところですから伊丹さんも機会があれば一度いらっしゃい。歓迎します』
この一文が伊丹さんの心を動かした。一か八か、浜松の教会を頼ってみることにした。心に浮かんだのは、まだ赤子だった我が子を失って悲しむ若い女と家出してきた高校生を連れて大阪まで流れてきた、遠い昔の日々のこと。当時の苦労に比べたら何も恐れることはない、と覚悟を決めたのだった。




