山の少年の生活譚
あの時は珍しく大雪が降った後だった。さらに数日前に降った雪が溶けきらずにまた凍り、その艶々した表面を覆い隠すようにまた雪が降った。まだ小学生だった太基は雪遊びができるのが嬉しくてたまらなかった。
仕事に追われる両親に代わって、当時は一緒に住んでいた祖母が太基と妹の面倒を見てくれていた。太基は宿題もそこそこに、祖母の目の届かないところまであっという間に出て行ってしまうような活発な子供だった。
祖母には雪が深くて地面が見えないところ、雪が山の上で張り出しているところ、割れたりシワができているところには近寄ってはいけないと言われた。大人しく聞き入れる子供ではなかったが。
その時は突然やってきた。
地面が揺れ、ただ驚きで立ち竦んだ。気づけば雪崩に巻き込まれて為す術も無く雪に流された。とっさに顔を覆ったお陰で埋まっても何とか息はできたが、助かるとは思えなかった。
白い、重たい、冷たい、暗い。
薄れていく意識の中で、あるはずのない視線を感じた。だけどもそれは遠くから自分を見ているだけで、よそよそしい感じがした。急に寂しくなって、太基はようやく出たい、生きたい、と心の底から願った。太基はあの日、山の怖さを身を以て知った。
その後どうやって助かったかは覚えていない。気がついた時には家で寝かされていた。祖母と両親と妹に泣かれた。その祖母は数日後に居なくなった。その理由を祖父も両親も子供達には話さなかった。
その日から太基の日常は全く変わってしまった。両親とも別の仕事が忙しかったはずなのに、二人して畑仕事や養蜂を始めたし、鶏を飼うようになった。太基と妹は学校に行かなくなり、家の仕事を手伝うようになった。妹は小学校に行きたいと駄々をこねたが、代わりに両親から読み書き計算を手習いで教えられて我慢していた。太基は祖父に連れられて山菜採りと罠漁を教えられた。罠漁は苦手で、未だに太基の仕掛けた罠にはろくに獲物がかかったことがない。麓に降りて買い物をすることが無くなり、代わりに本やらお下がりの靴や服を麓の人たちが持ってくるようになった。祖父と父は時折麓に降りることがあるが、いつも何ともいえず辛そうな顔をして戻ってくる。
あれから、もう5年近くが経とうとしている。
太基が鉈を振るうと、子供の腕ほどの枝が小気味よい音を立てて下に落ちていった。岩にでも当たったのだろう。あまり低い所に落ちていたら面倒だ。
太基は先ほどまで隠れていた木立の奥に目を向けた。木立の奥から、白く透き通るように美しい何者かが少年を見ている。靄みたいにしか視えないから表情は分からない。
一緒に山に入った祖父の気配が少し遠くなったのを感じ、踵を返してその場を離れた。人ならざるモノを見つめすぎると何かしら不吉な目に遭うような気がしている。何故かと問われてもはっきり説明は出来ないが、子供の頃に聞いた昔話が怖かったことは覚えている。
そう、山は子供の頃から駆け回ってきた遊び場であり、祖母にさんざん聞かされた恐ろしい物語の舞台でもあった。此処は途方もない年月を存在し続けた土と岩に支えられ、何十年も生きる木々やその中で生きる虫、鳥、獣達の場所だ。毎日昇っては沈む太陽と休むことなく吹きつける風があり、太古の昔から山の神がそこにいる。全ての生き物に分け隔て無く、恵みを与え、牙を剥く。それを承知で分け入っていくのだ。
太基は白い何者かを見ないようにしながら、祖父の後を追う。あの白い何者かも雪崩に襲われたあの時から見かけるようになった。祖父に話したら山神様かもしれないと言っていた。山神様なら罠漁だってもう少し上手くできて良いじゃないかと聞いたら、それは違うと言われた。簡単に投げて寄越されるものじゃない、勝負して授かるものだ。鉄砲の弾さえあればまた違うように教えてやれたかもな、と。
祖父は太基が仕掛けた罠の方へと向かっていた。どれだけ太基の仕掛ける罠が不器用で下手くそで獲物のかかった試しがなくても必ず見て回るのだ。普段は獲物がいないのを確認して帰るだけだから淡々と流れるように作業する。しかし今日は随分と手前で立ち止まり、太基に手振りで来い、と言った。
猪がかかっている。
持っている中で一番柄の長い斧を渡された。無言で受け取って猪の前に立った。ギラギラした目でこちらを睨み付ける。
怖い。でも仕留める。これは僕の獲物だ。
自然と身体が動いた。意識して動くというより何かが乗り移ったみたいに。渾身の力で振り下ろした斧は正確に眉間を捉えた。初めてにしては上出来、いや上出来すぎるくらいだ。
さっきまで暴れていた猪は、もう地に倒れていた。わずかに目に残っていた光もゆっくりと消えてしまった。
獲物の内臓を全部出して土に埋め、血抜きを済ませて家に帰る頃には昼を少し過ぎてしまった。
「母さん! ただいま。それ、終わりそう?」
太基の母はちょうど家の前の畑に落ち葉や堆肥を撒いていた。鶏への餌やりや小屋掃除など、最低限の仕事は終わっているのだろう。
「あら、遅いと思ったら! 猪! お義父さん、また有難うございます」
「ワシじゃない」
「え?」
「僕の罠にかかったヤツ。斧を眉間に入れて、獲ってきた」
「太基が? 本当に? すごいじゃない」
話をしながらも、彼女はいそいそと奥の作業小屋の扉を開け、水桶を持ってきていた。
「そこに吊るしといてくれる? あ、父さん未だ帰ってきてないから皮剥いで部位ごとに分けといてね。私じゃ手に負えないから!」
そう言って彼女はまた忙しなく畑に戻ってしまった。残された太基と祖父は小屋で黙々と皮を剥ぎ、ブロックに分けて吊るしていく。食べられるようになるまでには数日ほどかかるのだ。普段以上に太基が自分で作業をし、祖父はちょっと手伝うことはあっても殆ど見ているだけだった。汗だくになって、終わる頃には既に陽が落ちかけていた。




