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影無き者達の鎮魂歌  作者: 憂鬱な盆栽
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河合村の教壇

はじめまして。

本作は、明治末期の山奥を舞台にした架空戦記・人間劇です。

戦争を描きながらも、焦点は「生と死」。

派手な戦闘よりも、ひとりの教師と生徒たちの関係を重視しています。

どうぞゆっくり読んでいただければ幸いです。

岐阜県吉城郡河合村。

地図の端にかろうじて記された小さな集落は、四方を険しい山々に囲まれ谷底に降り立つ霧はいつも柔らかく視界を淡くぼやかしていた。春の朝、山の木々はまだ湿り気を帯び、日差しに濡れる新芽は青く輝く。谷を流れる小川は岩にぶつかるたびに軽く白い泡を立てながら蛇行して流れ、遠くでカジカが鳴く声が谷間に反響した。鳥の羽ばたき、風に揺れる枝のざわめき、さらには川沿いに立つ藪の中で小動物が跳ねる音——すべてが静かで緩やかな谷の呼吸のように感じられた。


その春、榊連司は初めてこの谷に足を踏み入れた。黒い外套に身を包み、長いコートの裾が小石を蹴り上げる。視線は遠くを見つめるように定まり、谷の風景に流れ込む霧の奥を見据えていた。村人たちは遠くからやってきたその男を「東京のえらい先生」と噂したが、本人は何の気負いもない。むしろ都市の喧騒から逃れ戦場で失われた心を静かに癒そうとする者のように見えた。


榊は1890年、陸軍中野学校を最年少で卒業した人物だった。日清戦争では諜報員として敵地に潜入し、数々の功績を挙げた。しかし戦いの終わり頃には、その目に光はなくなっていた。戦場で刻まれた無数の死と無意味な消耗が彼の魂を静かに蝕んでいたのだ。言葉よりも沈黙を信じ、感情を表に出すことを避けるようになった。


「……静かに暮らせるところなら、どこでもいい」


彼の口から洩れたのは戦争で疲弊した魂のささやきだった。軍を辞した結果、行き着いたのがこの河合村であり山奥の小さな小学校だった。


――――――――――――――――――――――


谷を渡る


榊は谷を縫うように続く山道を歩いた。春先の湿った土の匂いが鼻腔を満たし、踏みしめるたびに小石が微かに軋む。谷の斜面には竹林や雑木林が密集し、光は木々の間を斜めに差し込む。木の葉がそよぎ、鳥や昆虫の声が響き、榊の心にかすかな安心感を与えた。


途中、農夫と猟師にすれ違った。老いた木こりは榊を見て頭を下げ、軽く会釈するだけだった。村の人々は口数が少なく、余計な干渉をしない。榊もまた無言で挨拶を返す。彼にとって必要以上の交流は重荷でしかなかった。谷の暮らしは戦場での喧騒と比べれば平穏で、ある意味では救いの場所だった。


小学校に近づくにつれ谷の香りはさらに濃くなった。川沿いの湿地には野花が咲き乱れ、子供たちの笑い声が遠くで木々の間を駆け抜ける。鶏の鳴き声が朝の空気に混ざり、土の匂いと木の香りが交じり合う。榊はその光景を静かに見つめながら、心の奥でかすかな温かさを感じた。


――――――――――――――――――――――

小学校の佇まい


校舎は簡素な木造で、板の間の教室は古びていて黒板には長年の使用による墨の跡が刻まれていた。机も椅子も手作りで所々にガタつきがある。しかし、その素朴さの中に村人の誠実な生活の跡が見え隠れしていた。榊は教員室の片隅に荷物を置き、窓から外を眺める。校庭には雑草が生え時折小さな風に揺れる。


生徒は二十一人。山で鍛えられた少年少女たちで、腕力に優れ、活発で、しかしその目は純粋だった。榊は彼らを見て戦場での経験が脳裏に浮かぶ——守るべき存在、同時に距離を置かねばならない存在。



初めての村人との会話


初日の午前、榊は村の人々と短い会話を交わした。農夫たちは作業の合間に立ち止まり、軽く頭を下げるだけで、長々と話すことはなかった。老木こりは森での道案内をしてくれ、山道の危険箇所を指し示した。榊は黙って頷き、必要以上に話さず彼らの生活を静かに尊重した。


村人たちの慎ましやかな生活は榊の心に穏やかな影響を与えた。戦場では目まぐるしい命のやり取りに晒されていた彼だが、ここでは時間が緩やかに流れている。薪を割る音、川のせせらぎ、鶏の鳴き声——すべてが彼の魂を少しずつ静めていった。


――――――――――――――――――――――


子供たちの観察


校庭に集まった子供たちはまだ榊の存在に慣れていない。雑木の陰から様子を窺い、時折小声で笑い合う。腕っぷしが強く気性の激しい田島勇吾、理知的で冷静な早瀬直、弟たちを守る気丈な加納沙代——特に目立つ三人を榊は注視した。


午前の時間、榊は校舎の片隅に座り出席簿に目を通しながら子供たちの動きを記憶した。勇吾が木の枝を揺らし、直が石を並べて独自の計算を試み、沙代が弟たちの髪を整える。それぞれの行動が榊にとって微細な戦場の兆しのように映った——力、知性、守護の本能。


榊は思う。


「戦場に出た者として、彼らを守る方法を知らねばならない……しかし、戦には巻き込ませぬ」


彼の心には微かに矛盾が芽生えた。戦場の残酷さを知るからこそ、静かな日常を維持したい——しかし、その安全は永遠ではない。



教壇に立つ直前の静寂


午前の観察を終え、榊は教壇に向かう前、教室の隅で深呼吸をした。窓の外の木々は柔らかな光に包まれ霧が谷を漂う。風は微かに揺れ、校庭の子供たちの足音と笑い声を運ぶ。


榊は机の上に手を置き、静かに目を閉じる。戦場の記憶が遠くでざわめき、谷の穏やかさと混ざり合う。彼の胸には、子供たちを守るという使命と、平穏を守りたいという願いが同居していた。


「……よし」


小さく呟き、榊は教壇に足を進める。これから始まる初めての授業——平穏の中に潜む緊張の始まり。谷の空気が、ほんの少しだけ、彼を試すように揺れた。

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