乙女ゲームのモブに転生した少女が主要キャラを全滅させるお話
「それでは取り調べを始めさせてもらう」
コーティアナ王国第二王子ノルマルト・コーティアナは静かに告げた。
どこか奇妙な部屋だった。中央にテーブルがあり、向かい合わせソファが置かれている。希少な樹木から削りだされた落ち着いた色合いのテーブルはまぎれもなく一級品だ。職人の手による革張りのソファも、席に着く者を和ませる張りと柔らかさを両立している逸品だ。壁紙も部屋を彩る調度品の数々も高級品ばかりだ。それだけならば、貴族の邸宅の応接室に思えたことだろう。
しかしその部屋に優雅で落ち着いた雰囲気はない。代わりにその場を占めるのは、ピンと張りつめた空気だ。
部屋の四隅に武装した騎士が立っている。少し離れた事務机には生真面目そうな文官がノルマルト王子の言葉を記録している。
テーブルに着くノルマルト王子の向かい側に、一人の令嬢が席についている。その手には枷がはめられている。彼女の後ろには武装した騎士が一人おり、その行動に目を光らせている。
部屋自体にも強固な結界が施されており、許可されない者は出入りできないようになっている。
ここは罪を犯した高位貴族を取り調べるために使用される貴人用の取調室だ。今回、罪人はさほど高位の貴族ではない。王族自らが聴取することとなったためにこの部屋が用意された。
罪人の名は、男爵令嬢マルディレラ・エフオリガン。肩まで届く栗色のまっすぐな髪。やや小さめのブラウンの瞳。その顔立ちは平凡で、目だった特徴はない。
対するノルマルト王子はさらりとした金髪に、輝く碧眼の美丈夫だ。整った顔立ちもその身にまとった風格も王族にふさわしいものだ。
これほど身分の離れた二人が、こうしてテーブルをはさみ一対一で話すことなど通常ならばまずありえない。並の貴族なら震えが止まらなくなるだろう。しかし男爵令嬢マルディレラには緊張した様子はなく、むしろどこか冷めた雰囲気すらあった。
「まず最初に確認させてもらいたい。夏季休暇から今日までの間に命を失った伯爵子息ケイニグト・ウォートドロン、伯爵子息ウィーエルド・サーシディアル、侯爵子息ベイエルフ・ウィクスポート。以上3名を殺害したのは君であり、その罪を認めて自首した。そういうことで相違ないだろうか?」
「はい、間違いありません」
ノルマルト王子の問いに対し、マルディレラは落ち着いた声で答えた。
ノルマルト王子は亡くなった3名の生徒とは友人関係にあった。その死因について個人的に探ってもいた。それでも本来なら、自らが取り調べを行うことなどなかっただろう。
「君の自白に当たっての要求は、私が取り調べに同席することだったな」
「はい、そうです。ご要望をお聞きくださりありがとうございます。しかも王子自らが取り調べくださるとは、光栄の至りです」
「……何のためにこんな要求をしたんだ?」
「亡くなった貴族子息たちのご学友である王子に話を聞いてほしかったのです。ご心配なさらずとも、『あのこと』を他の誰かに話すことはありません」
そう言いながら、マルディレラは左手の甲を軽く指で叩いた。その仕草に、ノルマルト王子は自らの秘密を知られていることを確信した。
コーティアナ王家の血を引く者は、左手の甲に王家の紋章が現れる。その紋章が現れる時期は個人差があり、生まれたときから紋章がある者もいれば、20歳を過ぎてから紋章が出る者もいる。
ノルマルト王子は17歳だが、未だ紋章が現れていない。代わりに偽りの紋章を刻んでいる。
王子が幼かったころ、王国は政治的に不安定な状態にあった。紋章が無ければ王家の血を引いていることを疑われ謀殺される危険があった。そうした事態を避けるために高名な魔導士によって秘密裏に疑似的な紋章が刻まれた。高度な魔法で刻まれたそれは、熟練の魔導士が時間をかけて入念な調査をしない限り、絶対に見破れないとされている。
自分の紋章を偽っていることが、ノルマルト王子の密かなコンプレックスとなっている。
この取り調べにあたり、マルディレラはこんなことを言ってきたのだ。
「罪状を明かすにあたり、ノルマルト王子に取り調べにご同席をお願いしたいのです。王子にはこうお伝えください。『王子の心に秘めた、剣のもとの暗がりに、答えを示して差し上げます』、と」
ノルマルト王子は左手で剣を扱う。「剣のもとの暗がり」とはつまり、左手の甲の偽りの紋章のことを示す言葉だ。
偽りの紋章は王家にとって極めて重要な秘密だ。マルディレラをただ排除すればいいというものではない。情報源がどこなのか、どこまで情報が広まっているかを明らかにしなければならない。
当然、秘密裏に彼女の身辺を探らせた。学園の成績を見る限り、紋章の秘密を見破れるような能力を持つとは思えなかった。彼女のエフオリガン男爵家はこれといった特徴のないありふれた貴族の家系だった。他国とつながっている様子も見られない。
ノルマルト王子はまず彼女の要求を呑み情報を探ることにした。ただ同席するのではなく、取り調べを通じてマルディレラがどんな秘密を握っているか明らかにするつもりだ。もし今回で分からなければ、不本意だが拷問にでもかけるしかないだろう。
それにしても、とノルマルト王子は思う。見れば見るほど普通の令嬢だ。
ありふれた栗色の髪。目鼻立ちはそれなりに整っているがこれといった特徴はない。夜会などで見かけたとしても、目をとめることはないだろう平凡な令嬢だった。
だが、ノルマルト王子は得体のしれない異常なものを感じていた。自首したというのに悪びれた様子がない。手枷をかけられ武装した騎士に見張られているというのにおびえた様子もない。王族を前にしているというのに緊張すら見られない。
すべての出来事にまるで興味がないかのようのだ。外見はありふれた男爵令嬢でも、そのあり方にはどこか異質なものが感じられた。
「それで……どうやって貴族子息3名も殺めたというんだ?」
調べた限りではマルディレラと被害者の間に接点はない。3名とも彼女より高位の貴族であるし、調査によれば学園内で会話することもなかったようだ。自首に当たり彼女はいくつかの証拠品を提出していた。それがなければ門前払いされていたことだろう。
「わたしは被害者3名が在学中に出会うイベントのすべてを把握しています」
「イベントを把握? どういうことだ?」
「これは信じていただけないことでしょうが……実はわたしは別の世界から来た転生者なのです。そしてここは、乙女ゲーム『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』の世界なのです」
「オトメゲーム? 聖女恋愛奇譚? いったいなんのことだ?」
「乙女ゲームというのは架空の物語のことです。別の世界で、この世界のことは『物語』として描かれていました。わたしが殺した3名は、その『物語』における主要キャラでした。だから何をするかわかっていました。その知識を利用して殺害を成功させたのです」
「なにをわけのわからないことを言っているのだ! ここは取調室で、君は自首してきた罪人なのだぞ! ふざけているのか!?」
ノルマルト王子は思わず声を荒げた。
マルディレラの言うことは荒唐無稽な妄想としか思えない。ここが普通の場なら彼も笑い飛ばしていたことだろう。あるいは騎士に命じてたたき出していたかもしれない。
だがここは取調室だ。そしてこの場にいるのは王国の第二王子だ。王族をからかえば極刑もありうる状況だ。それなのにマルディレラは極めて冷静で、語る言葉も実に淡々としている。
「……この世界の住人であるあなたには理解できないことでしょう。それは仕方のないことです。ですが、これから語る犯行内容は、この前提がなければ成り立ちません。だからお話したのです」
マルディレラは再び左手の甲を指でたたいた。
この世界は架空の物語で、彼女は他の世界からの転生者。ならば偽りの紋章について知っていることの説明はつく。
その想像はノルマルト王子をぞっとさせた。
「……取り調べを続けよう」
頭を振って、ノルマルト王子は仕切り直すことにした。
確かに彼女の言葉が本当なら、様々なことに説明がつくかもしれない。だからと言ってそれが真実とは限らない。マルディレラがただの狂人であるという可能性もある。偽の紋章についてもただの当てずっぽうで、たまたま正解を引き当てただけかもしれない。あるいはハッタリということもありうる。
変死した3人の貴族子息。その死について語らせれば、彼女の言葉が真実かどうどうか、明らかになるはずだ。
「まずは、伯爵子息ケイニグト・ウォートドロンの死亡について確認させてもらおう。彼は夏季休暇の間、実家に帰省していた。その際、伯爵領内の湖に転落して溺死した。君はこの事故について、自分が仕組んだことだと主張するのか?」
「はい、そうです。事前に提出した投網と囮の魔道具はご確認いただけましたか?」
ノルマルト王子は眉をひそませながら頷いた。
伯爵子息ケイニグトは騎士を目指していた。赤毛で琥珀色の瞳を持つたくましい青年だった。
3か月ほど前、夏季休暇期間中のこと。彼は伯爵家に帰省していた。伯爵邸の近くにある湖の桟橋から転落した。その際、運悪く放置された投網があった。ケイニグトは頑健で泳ぎも達者だが、さすがに全身に網が絡まればまともに泳げるわけがない。
当時、現場にいたのは彼の妹、パーエシア嬢だけだった。令嬢の細腕で大柄な兄を救助することは不可能だ。彼女はすぐに助けを呼びに行ったが、残念ながら間に合わず、伯爵子息ケイニグトは溺死した。悲惨な事故だった。
しかしマルディレラは自分がやったと主張している。彼女が自首する際に提出した投網と囮の魔道具は、現場で発見されたものと同じ型のものだ。彼女曰く、予備が残っていたとのことだ。だがそれは、事件の噂を聞けば調達可能な物品に過ぎない。囮の魔道具も、魚をおびき寄せる一般的なものだ。
マルディレラが事件当時、伯爵領を訪れたという記録もある。だが伯爵領の湖は有名な観光地の一つであり、これもただ偶然居合わせただけのことだろう。
彼女の自白以外に犯行を立証しうるものはない。なにより、これが事故ではなく故意の殺害だというのなら、決定的に欠けているものがある。
「桟橋にあらかじめ網を張っておき、狙った場所に突き落とせば、命を奪うことができたかもしれない。だが現場には彼の妹、パーエシア嬢しかいなかった。何らかの魔法が行使されたという報告もない。落ちるかどうかもわからないのに網を仕掛けるなんて、あまりにも偶然に頼りすぎている。それでは意図的な殺害とは言えない」
「先ほどお話したように、わたしはこの世界の『物語』を知っています。彼が湖に落ちることは知っていました」
「どうして彼は湖に落ちたんだ? 都合よく足でも滑らしたのか?」
「いいえ、妹のパーエシア嬢に突き落とされたのです」
内心で嘲笑しながら投げかけた問いに、意外な回答が返ってきた。驚きを見せるノルマルト王子にかまわず、マルディレラは言葉を続けた。
「学園での生活を楽し気に語る兄の姿に、妹は気を悪くして湖に突き落とす……そんなセンスに欠けたくだらないコメディシーンでした。でも周囲に人気がなく、湖に落ちるという状況は大変に都合がいい。囮の魔道具は本来は魚を集めるためのものですが、少しいじれば人の注意をひくことができます。水に落ちて方向を見失った人間に囮の魔道具が作用すれば、自分から網に飛び込んでいくことになるわけです。そうやって伯爵子息ケイニグトを溺死させました」
まるで教師に当てられた生徒が正解を読み上げるような自然さで、マルディレラは犯行内容について語った。彼女は心の病かなにかで、転生などという馬鹿げたことを言い出したのだと思っていた。だがその語る内容は極めて理性的で、計画的で、そして陰湿だった。
ノルマルト王子は戦慄に身を震わせながら問いかけた。
「君は……家族の他愛ないやりとりを利用して、伯爵子息ケイニグトを殺害したというのか?」
「はい、そうです」
「パーエシア嬢は事件以来、床に伏せっていると聞いている。目の前で兄を失いショックを受けたのだと思っていたが、もし今の説明通りだとするなら……彼女は自分の手で兄を死に追いやった事を気に病んでいることだろう。君は人の命を奪っただけではなく、その妹に一生消えない心の傷を与えたと言うのか?」
「そういうことになりますね。それはまあ、なんていうか……お気の毒ですね」
どうでもいいことのようにマルディレラは言った。まるで心を動かされた様子がない。完全に他人事だった。
「ああでも、そういうことならパーエシア嬢に確認すればわたしの犯行であることを立証できるわけですね」
マルディレラはついでのようにそう付け加えた。
その確認がどれほどウォートドロン伯爵家の人々を悲しませることになるのかわからないのか。ノルマルト王子は改めてマルディレラを見つめた。その姿には罪悪感や後悔はまるで感じられなかった。
彼女が本当に転生者かはわからない。だが少なくとも、ただの異常者ではないことだけは確かなようだった。
「……それでは次に伯爵子息ウィーエルド・サーシディアルの死亡について確認したい。約2か月ほど前に彼は学園寮の自室で服毒自殺をしていることが確認された。君はこれを自分が仕組んだことだと主張するんだな?」
「はい、そうです。事前に提出した手紙の写しはご確認いただけましたか?」
ノルマルト王子は眉をしかめながら頷いた。
マルディレラの提出した10通ほどの手紙。学園寮の伯爵子息ウィーエルドの部屋から、同じ内容、同じ筆跡の手紙が見つかっている。筆跡は普段のマルディレラのものとは異なるが、これは差出人を悟らせないための工夫だろう。
その手紙は、彼の秘密を指摘して追い詰める内容だった。
「『獣化の呪い』に関することなら、サーシディアル伯爵家の嫡男として心得ていたはずだ。あんな手紙程度で自殺を選ぶとはどうにも信じがたい……」
200年ほど昔のこと。獣人の部族が王国に反旗を翻した。当時のサーシディアル家当主はその反逆に対し徹底的に対応した。最終的に獣人の部族は滅ぼされた。その功績によってサーシディアル家は伯爵の爵位を王家から賜った。
しかしその活躍は栄達だけでなく、不幸も呼び込んだ。獣人の部族はサーシディアル伯爵家に『獣化の呪い』をかけたのだ。以来、サーシディアル伯爵家の者は獣と化すこととなった。その症状は様々で、耳や手など身体の一部分のみ獣になる者もいれば、半身が獣と化してしまう者もいたという。獣化が治る者もいれば、一生そのままの者もいると聞く。その実情は秘匿され、外部の者が知ることはない。
伯爵子息ウィーエルド・サーシディアルは銀髪に灰色の瞳をした怜悧な青年だった。細剣の使い手で、その突きの鋭さは王国の精鋭騎士でも防ぐのは難しいと言われるほどだった。
ノルマルト王子は個人的に交友があった。ウィーエルドはやや神経質なところはあったが、流言飛語に惑わされて自殺に至るような心の弱い人間ではなかった。
「いいえ、自殺を選んだのではありません。むしろ逆です。『獣化の呪い』を抑え今の生活を維持するために、彼は危険な賭けに出たのです」
「なんだと? それはどういうことだ?」
「彼の『獣化の呪い』は左腕に現れました。利き腕が完全に獣となれば、鍛え上げた細剣の技を失う。彼は何よりもそのことを恐れていたのです」
その苦しみはノルマルト王子にも想像できた。
伯爵子息ウィーエルドの刺突はほれぼれするほど美しく、しかし鉄を穿つほどに鋭いものだった。あそこまで剣技を高めるには相当な修練を要したことだろう。それが呪いによって理不尽に奪われるなど耐えられないことに違いない。
「サーシディアル伯爵家は『獣化の呪い』で中傷を受けることも少なくありません。わたしが匿名で出した手紙も、普通なら伯爵家をねたむ人間のくだらない悪口として相手にされなかったたことでしょう。しかし、彼は無視できなかった」
「なぜそう言い切れる?」
「『獣化の呪い』はいきなり発現するものではありません。初期の段階では一時的に『獣化』し、元に戻るということが繰り返されます。手紙には『獣化』する日時とその『獣化』の度合を正確に記しておきました。さすがに無視はできないでしょう」
ノルマルト王子は息を呑んだ。確かに事前に目を通した手紙には、日時について予言めいたことが書かれていた。ただの戯言として気にしなかったが、もしそれが事実を言い当てていたどうなるか。
伯爵家において『獣化の呪い』は他人に明かすことのできない秘事だ。匿名の手紙に『獣化の呪い』の細かな症状と発現するタイミングまで書かれたら、普通の誹謗中傷のように受け流すことなどできるはずがない。伯爵子息ウィーエルドは疑心暗鬼に囚われ、相当な恐怖に苛まれていたことだろう。
「手紙を10通届け、彼が十分に信じ始めころを見計らい、放置すれば『獣化の呪い』は全身に及ぶと記した手紙を送りました。恐怖にかられた彼は、伯爵家に伝わる呪い解除の薬を口にしました。『獣化の呪い』は強力なため、それに対抗する薬は劇薬です。強い精神で立ち向かわなければ薬の毒性によって逆に身を滅ぼすことになります。恐怖にかられた彼が耐えられるわけがありません。だから彼は自殺したのではなく、自滅したのです」
ノルマルト王子は戦慄に身を震わせた。マルディレラが異世界からの転生者であるということは未だに信じがたい。それでも『獣化の呪い』を言い当てたのだから、何らかの形で未来を知っていることだけは間違いないのだろう。
だがノルマルト王子を震わせるのは、そのことよりむしろマルディレラの手口だった。
伯爵子息ウィーエルドは剣の腕を磨くことに励んでいた。利き腕の『獣化』は彼を大いに悩ませたことだろう。
マルディレラはその弱点を的確に攻めた。彼の精神を揺さぶり、追い詰め、そして自滅へと至らせた。匿名の手紙だけで姿を見せぬままにそれをなした。まるで暗がりに網を張り獲物を待つ蜘蛛のような、陰湿で容赦のないやり方だ。
「本来の『物語』では、サークレディア嬢が彼の心を支え、神聖魔法でサポートして『獣化の呪い』を解呪していました。今回はそのルートにはなりませんでしたが……」
「サ、サークレディアだって? あのサークレディアか?」」
「ええ、王子もよくご存じの、一年生のサークレディア嬢です」
ノルマルト王子はサークレディアのことをよく知っていた。
今年の春に入学してきた平民の少女、サークレディア。ピンクブロンドのふわふわとした髪に薄桃色の瞳。貴族とはちがうかわいらしさを持ち、その笑顔は昼下がりの日の光のように見る者の心を和ませる。だが彼女について特筆すべきは容姿より、その優れた能力だ。
サークレディアはたぐいまれな神聖魔法の適性を見出されて学園への入学を許された。そればかりかろくな教育を受けられない平民にも関わらず、難関と名高い学園の入学試験でトップクラスの成績をたたき出した。入学後も高い成績を維持している。
その有能さにはノルマルト王子も目をかけていた。貴族の学園において平民は見下されひどい扱いを受けることがある。困りごとはないかと話しかけるうちに親しくなった。
「わたしの知る『物語』は複数の結末があります。その一つにサークレディア嬢が伯爵子息ウィーエルド様と結ばれるというものがありました。もしそのルートだったら、このやり方で自滅させることはできなかったでしょう」
「さっきも言っていたが、ルートとは何のことだ?」
「『物語』の分岐のひとつとでも考えてください。実はサークレディア嬢はこの『物語』のメインヒロインであり、世界の中心なのです。彼女の選択によってルートが決まります」
確かにサークレディアはかわいらしいし、優れた能力を有している。その場における中心となることも珍しくない。それでも彼女が世界の中心だと言われると、王国の中核をなす者の一人であるノルマルト王子にはなんとも受け入れがたいものがあった。
「そして今現在のルートは侯爵子息ベイエルフ様と結ばれるというものでした」
マルディレラの言葉にノルマルト王子は目を伏せた。
侯爵子息ベイエルフ・ウィクスポート。肩まで伸ばしたさらりとした黒髪に、アメシストに例えられる紫の鋭い瞳の美しい青年だ。その美貌にため息を吐く令嬢は少なくない。学業に長け、特に魔法の扱いにかけては学園でもトップクラスの腕前だった。
彼が平民の娘サークレディアが親しくしているのは知っていた。身分の差は大きい。だがサークレディアの神聖魔法の優れた適性を鑑みれば、いずれは聖女の称号を受けることは間違いないだろう。王国から認められた聖女なら侯爵家に釣り合う。そうなれば二人が結ばれることは十分にあり得ることだった。
しかしその未来は断たれた。侯爵子息ベイエルフは死んだのだ。
「……君は侯爵子息ベイエルフの死も自分の仕業だと言っていたな。だが彼の死に関与したのは婚約者ジーアラシアだ。彼女の自殺未遂を止めようとして、彼はその命を失った。不幸な事故だった」
侯爵子息ベイエルフは婚約者がいながらサークレディアとの仲を深めていた。
それに危機感を抱いた婚約者ジーアラシアは、ある日行動に出た。
放課後、学園の中庭。仲睦まじく語り合う侯爵子息ベイエルフとサークレディアの前に来て、ナイフを取り出すとこんなことを言い出したのだ。
「あなたに捨てられるくらいなら、この場でこの命を絶ちます!」
そう言って、ジーアラシアはナイフを喉元に突きつけた。
侯爵子息ベイエルフはバカなことをするなと婚約者を止めようとした。もみ合ううちにベイエルフは腕に小さな傷を負った。傷自体は小さく、出血もわずかなものだった。しかしそのナイフは弱い雷属性を帯びていた。それが運悪く作用し、ベイエルフの心臓はその鼓動を止めてしまった。蘇生を試みたが、彼が息を吹き返すことはなかった。
事故とは言え侯爵子息を殺めたのだ。婚約者ジーアラシアのディラーゲント伯爵家は高額な賠償金を支払い、領地の一部を没収された。婚約者ジーアラシアは自らの罪を悔やみ、戒律の厳しさで知られる修道院に自ら入った。
サークレディアも学園にいづらくなり、今は帰省している。
関係した誰もが不幸になった痛ましい事故だった。
これまで『物語』の知識で死を招いてきたマルディレラだが、この事故ばかりは関与していると思えなかった。
「ノルマルト王子は当然ご存じかと思いますが、ベイエルフ様の侯爵家には、婚約者にナイフを贈るという奇習があります」
「奇習などと言うな。あれはウィクスポート侯爵家の立派な伝統だ」
「わたしからすれば頭のおかしいシナリオライターの考えたくだらない設定ですが……そうですね。この王国ではそういうことになっていましたね」
「侯爵家に対して無礼だぞ! 口を慎め!」
ノルマルト王子は鋭い声でマルディレラを制した。
確かに知らない者からすればおかしな風習に思えるかもしれないが、ウィクスポート侯爵家がナイフを贈るようになったのはちゃんとした由来があるのだ。
かつてウィクスポート侯爵家は領民に負担を強いる悪政を行っていた時期があった。当時の侯爵夫人は夫を諫めるためにナイフを自らの喉元につきつけて訴えた。
「あなたがこれ以上領民を虐げるのなら、私はこの命を絶ちます!」
この命を懸けた訴えにより、当主は行動を改めた。そのことにより侯爵家はより栄えるようになった。
それ以来、侯爵家は婚約者の女性にナイフを贈るようになった。当主は常にナイフを意識し、善政をするよう務めた。
婚約者ジアラクシアの行動はこの故事に倣ったことなのだろう。だがそれは、痛ましい結果に終わってしまった。
マルディレラは軽くため息を吐くと、叱責されたことを気にした様子もなく話を再開した。
「ジーアラシア嬢は学園内でも時間があれば贈られたナイフを磨いていました。人前で刃物を取り出すなんて、倫理観がどうなってるのか疑問ですが……」
「確かに刃物を人前で出すのはよいこととはいえない。だが、婚約者からの贈り物を大事にするのは令嬢として素晴らしことだ」
「やはりこの世界では、恋愛にまつわることについては寛容になるのですね……とにかく、頻繁に布で刀身を磨いているというのが重要でした。そこで何人かの友人を経由して、刃物を磨くなら『輝きの磨き布』がいいと彼女に伝えたのです」
「『輝きの磨き布』?」
「安物なので王子はご存じないでしょう。ゲーム序盤で低価格で手に入る、刃物の攻撃力を少しだけ上げる消費アイテムです」
「ゲーム序盤? なんのことだ?」
「これは失礼。とにかく、『輝きの磨き布』で刃物を磨くときれいに輝きます。実は微弱な雷属性が付与されたから輝いて見えるのです」
「それであのナイフは雷属性を帯びていたのか」
ノルマルト王子はこの取り調べに当たり、事前に事件に関する報告は受けていた。本来、ウィクスポート侯爵家が婚約者に贈るナイフにはなんの属性も付与されてない。それなのに雷属性が死因となったことは奇妙だった。
ジーアラシアは雷撃魔法を扱えたので、無意識にナイフに雷撃の魔力を込めていたのではと推測されていた。だが『輝きの磨き布』によるものといわれるなら、その方が納得できる。
しかしそれは殺害方法として不十分なものだった。
「ナイフに付与されていた雷属性は微弱なものだった。通常なら心臓を止めるようなものではないと聞いている。侯爵子息ベイエルフが心停止に至ったのは、何らかの不幸なめぐりあわせとみられている。『輝きの磨き布』をジーアラシア嬢に使わせるよう仕組んだからと言って、君が殺したとは言えないはずだ」
「いえ、雷属性を付与すれば確実に殺せることは分かっていました」
「なぜそんなことが言い切れる?」
「実はゲームの仕様上のバグで、ベイエルフ様は特定の状況下で雷属性の攻撃を受けると特大のダメージを受けるのです。ゲームの進行度が低く、HPの低い状態では微弱な雷撃でも即死に至ります」
「仕様? バグ? いったい何の話だ?」
「ええと、つまり……ベイエルフ様本人もおそらく知らないことですが、彼は雷属性に極端に弱かったのです。それこそ、ナイフに付与された微弱な雷撃で心停止に至るほどに。『物語』でベイエルフ様がナイフで傷を負うことはわかっていましたから、事前に細工を施したというわけです」
魔法の扱いが得意だったベイエルフがそんな弱点を抱えているとは意外なことだった。いや、得意だからこそかもしれない。学園内の模擬戦でベイエルフは他の生徒を寄せ付けない強さだった。雷撃魔法を受けたことなどなかったに違いない。
そのことよりもノルマルト王子はそのやり口に慄然とさせられた。
婚約者ジーアラシアは毎日のようにナイフを磨いていたのは、侯爵子息ベイエルフを愛するが故だった。マルディレラはその想いを利用して殺害の手段としたのだ。それはジーアラシアの想いを踏みにじることだ。自分の手を汚すことなく、ちょっとした情報操作でそんな凶行を成し遂げたのだ。
湖で溺死した伯爵子息ケイニグトは、家族の他愛ないやりとりを利用された。
『獣化の呪い』に悩まされたウィーエルドは、手紙で不安を掻き立てられ自滅に追い込まれた。
そして侯爵子息ベイエルフは、彼女を愛する婚約者の気持ちを利用され、関係する誰もが不幸になる最後に至った。
『物語』によってただ先を知っているというだけでこんなことにはならない。どの犯行もあまりに悪辣で、底知れない悪意が感じられる。
意図が読めない。底が知れない。考えをめぐらすうちに、ノルマルト王子は最初に確認すべきだったことを思い出した。
「……君は何のために自首したんだ? なぜ私を呼び出したりしたんだ?」
罪人が自首する理由は大きく分けて二つある。ひとつは罪から逃げられないと悟り、減刑を図るため。もう一つは罪の重さに耐えられなくなり、自ら裁きを下されるためだ。
マルディレラは減刑を望んでいない。むしろ罪を確定させることを望んでいるような口ぶりだ。彼女が自白しなければ捜査の手が彼女まで及ぶ可能性は低かっただろう。
彼女には悪びれた様子はなく、後悔しているように思えない。罪の重さを感じているかすら怪しい。
自首する理由がわからない。
わざわざ第二王子を呼び出したことも、なんの意味があるのか分からなかった。
「自首をしたのは、あなたをここにお呼び立てするためです。わたしの犯行内容をお聞かせして、怖がって欲しかったからです」
「な、なんだと……?」
「どうです? 怖かったですか?」
マルディレラはそう問いてかけてきた。まるでお茶会で出した紅茶の香りが気に入ったか尋ねるような、気軽な問いかけだった。
意図がわからない。得体が知れない。目の前にいる令嬢はいったい何者なのか。恐怖がノルマルト王子の顔を青ざめさせた。
その顔色で察したのか、マルディレラは満足げにほほ笑んだ。ノルマルト王子の全身を怖気が走った。女性の顔をこれほど恐ろしいと思ったのは生まれて初めてのことだった。
マルディレラの背後についていた騎士が、彼女の肩をつかんだ。これ以上、ノルマルト王子に狼藉を働くことは許さないという警告だ。
「……楽しいお話もこれで終わりのようですね。でも時間稼ぎはもう十分。来てください、グアストラ!」
突如、マルディレラは上を向いて何者かの名を叫んだ。
するとどうしたことか。開かれた彼女の口から何かがにゅうと手が伸びてきた。白い指。黒い袖口。それは腕だ。彼女の口には収まるはずのない長さの腕が伸びてきたのだ。
この奇怪な事態に対し、しかし騎士はひるまなかった。すぐさま抜刀すると、得体のしれない手に向けて切りつけた。
腕はたやすく切られてしまうだろう。誰もがそう確信する中、腕はまるでゴミでも払いのけるようなしぐさをした。それに触れられた刀身は、まるでガラス細工のように粉々に砕け散った。
「な!?」
たじろぐ騎士に対し腕が伸び、手のひらが胸元に軽く触れた。それだけで頑強なはずの鎧がひしゃげ、大穴が開いた。騎士は血を吐きながらどうと倒れ伏した。
部屋の四隅に控えていた騎士が抜刀して殺到する。その剣が届くより早く腕は動き続けていた。
マルディレラの口から、まるでグラスからこぼれたワインがテーブルクロスに広がるようなとめどなさであふれ出た。腕が出て、頭が出て、胴が出て、足が出た。全てを出し尽くした後、テーブルの上に一人の男が現れた。
短く整えられた黒髪。抜けるような白い肌。刃物のように鋭い、血のように紅い目。身にまとうのは黒の燕尾服。すらりとした体躯は、180センチはあるだろう。
騎士たちの斬撃が燕尾服の男に迫る。それに対し、男は腕を広げながら優雅に回った。ダンスのように華麗な動きだった。
それだけで戦闘は終わった。騎士たちは首から上を失い、糸の切れた人形のように倒れた。離れて控えていた記録係の文官も首を失い絶命していた。
どんな技を使ったのか、燕尾服の男はただの腕の一振りで、テーブルに着く二人を除くすべての人間の命を奪ったのだ。
ノルマルト王子はその一部始終を見ていた。一瞬の出来事だった。声を上げることも、指先ひとつ動かすこともできないまま、すべては終わっていた。
「……グアストラ。テーブルの上に立たないでください。お行儀が悪いですよ?」
「我が主よ、これは失礼した」
マルディレラの言葉を受けて、男はテーブルから降り彼女の傍らに立つと、マルディレラの手元を撫でた。すると彼女の手を封じていた枷が消え去った。
手が自由になったことを確かめると、マルディレラは視線を向けてきた。ノルマルト王子はびくりと震えた。そんな様子を気にした風もなく、マルディレラは傍らの男を紹介した。
「ご紹介が遅れました。わたしが契約した悪魔グアストラです」
燕尾服の男――グアストラは恭しく礼をした。
男から禍々しい魔力が立ち昇る。先ほど騎士を苦も無く圧倒した手並みと言い、その魔力の高さといい、まぎれもなく高位の悪魔だ。
「バカな! こんな強力な悪魔を、詠唱も魔道具もなしに呼び出せるわけがない!」
この取調室は騎士団の施設だ。物理的に強固な作りとなっているし、魔法的な防御が幾重にも張られている。いくら高位の悪魔でも、誰にも察知されることなくここまで来ることは不可能だ。
召喚魔法ならば呼び出すことは可能かもしれない。だが召喚には強力な魔道具か呪文の詠唱が不可欠だ。
自首して貴人牢にいたマルディレラが、魔道具を持ち込めるわけがない。先ほどまで彼女の犯行内容について話していたのだから、呪文の詠唱も不可能だ。
「召喚の魔道具はありました。あらかじめ飲み込んでおいたのです。魔力が低く貴人牢に入れられる前の検査でも見つからない優れものですが、呼び出しに時間がかかるのが難点です。犯行についてあんなに詳しく説明したのは、実はその時間を稼ぐためだったんです」
マルディレラの語りに合わせて、グアストラはクルミほどの大きさの黒い球を取り出した。表面にはびっしりと得体のしれない文字が刻み込まれている。おそらくあれが悪魔を呼び出す魔道具なのだろう。
「それにしても、やっぱり胃から召喚するのは大変ですね。事前に試しておいてよかったです」
「練習の時は喉を傷つけてしまい申し訳なかった。痛むところはないだろうか?」
「ちょっと顎ががくがくしますが、痛みはありません。大丈夫です。うまくやってくれましたね」
「お褒めにあずかり恐縮だ」
和やかな会話を前に、ノルマルト王子は震えていた。
マルディレラの行動はなにもかも計画的なものだった。
犯行がばれる心配もないのにわざわざ自首したのは、王子をこの場に呼び出すためだった。それが何を意図しているかはあまりにも明白だった。それでもノルマルト王子は問いかけずにはいられなかった。
「まさか君は私のことを……」
「ええ。お察しの通り、殺すために呼び出したのです。あなたの『物語』にはうまく利用できるイベントがありませんでした。王族だけあって普段の守りも固い。『物語』は侯爵子息ベイエルフのルートに入ってしまったのでイベント自体がほとんど発生しない。だからこうしてつけ入る隙のある取調室に呼び出したというわけです」
すべては罠だった。ノルマルト王子を殺すための罠だったのだ。
取調室内にいた騎士は全て殺された。ノルマルト王子は高い魔力を有しているが、それはあくまで人間を基準にした話だ。目の前の悪魔グアストラはあまりに別格で、戦うことはおろか逃げることも不可能だ。ノルマルト王子は自分の死が避けられないことだと覚った。
「ああ、そうそう。王子には紋章が現れない理由をお話しする約束でしたね」
「な、なんだと!?」
突然そんな話題を振られて、絶望に閉ざされていたはずの口が開いた。紋章が現れないことは彼の心に暗い影を差す悩みだった。反応せずにはいられなかった。
「あなたに紋章が現れないのは、一言でいえば話の都合です」
「は、話の都合?」
「あなたとサークレディアが結ばれるルートで、自信を取り戻したあなたの右手に紋章が現れる――そんな安っぽい盛り上がりを作るためだけに紋章が現れずにいるのです。ちなみに別ルートでは特になんの理由もなく紋章は現れます」
あまりにもくだらない理由を告げられノルマルト王子は茫然となった。
紋章が現れないことにずっと悩んできた。自分には王族の資格がないのかと、眠れぬ夜を何度も過ごした。
それが全て話の都合だったなどと言われて納得できるわけがない。
だがそれを告げたのは、この世界のことを『物語』として知るマルディレラだ。その言葉は、きっと真実なのだ。
「なぜだ……なぜ君はこんなひどいことをするんだ?」
ノルマルト王子は問いかけずにはいられなかった。
あまりに理不尽だった。なぜ避けられぬ死を目の前にして、わざわざ自分の苦悩を踏みにじられなければならないのか。
その問いに対する答えは、あまりにも簡潔なものだった。
「この世界が嫌いだからですよ!」
初めてマルディレラが激しい感情をあらわにした。その顔に浮かぶのは、底知れない憎悪と炎のように熱い憤怒だった。
「乙女ゲーム『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』が大っ嫌いなんですよ! 程度が低くてくだらない、バカみたいな駄作! そんな世界に無理やり転生させられた! だからめちゃくちゃにしてやりたかったんです!」
「そんな……そんな理由であんなことをしたのか!? 嫌いな世界だから3人も死に追いやり、私のことも殺すというのか!? そんな身勝手な理由で彼らの尊厳を踏みにじったというのか!?」
「あなたたち4人は『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』の攻略対象! 忌むべき駄作の中心人物です! 生かしておく理由はありません!」
「バカな、バカな、バカな! 私たちは生きている! 君がこの世界を『物語』として知っていたとしても、ここで生きている人間なんだ! その命を奪っておいて、良心は痛まないのか? 君には人の心がないのかっ!?」
「良心? 人の心? バカなことを言わないでください。こんな駄作の世界が生きているなんて認めない。あなたも既に殺したあの3人も、この世界のあらゆるものすべてを、私は命と認めない! それを消し去ることに何のためらいもないし、心が動かされることもありえません!」
ノルマルト王子は信じられないと言ったふうに首を振った。
目の前の転生者を名乗る令嬢の存在を受けいられられなかった。理解ができない。意味が分からない。あまりにも異質すぎる。
「君が別の世界からやってきたということを、今こそ理解した。君は……異世界から来た怪物だ」
その言葉を受けて、マルディレラはすっと表情を消した。先ほどの熱情は消え去った。いや、違う。ノルマルト王子にはわかった。胸の奥に秘めたのだ。彼女はきっとこんな風に、胸の奥で憎悪の炎を燃やし続けているのだ。
そして、マルディレラは凍るように冷たく静かな声で、傍らの悪魔に命じた。
「グアストラ。王子を消してください。死体すら残さないほど徹底的に、消滅させてください」
「承知した」
グアストラが呪文を詠唱すると、黒い雷がノルマルト王子に降り注いだ。
そしてノルマルト王子は、チリ一つ残さず消滅した。
マルディレラに転生する前。彼女は楼敷 美奈子という名の、ごく普通の高校2年の少女だった。
美奈子には幼いころから親友がいた。藤吉 純佳。聡明で思慮深い、優しい女の子だった。同い年の彼女のことが大好きだった。ずっと親友でいられると思った。
しかし、純佳は堕落した。
純佳は乙女ゲーム『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』にはまってしまった。
ストーリーは雑で矛盾が多い。RPG的な要素もあるが、ゲームバランスはきわめて温く攻略性が低い。一般的には駄作と評価されているゲームだった。
しかしキャラクターデザインは秀逸だった。全体のストーリーはともかく、個々のイベントはキャラの魅力を引き出す質の高いものだった。そのため一部のファンから熱狂的な支持を受けていた。特に二次創作が盛り上がっていた。
それに純佳はどっぷりとはまってしまった。これまで文学作品について深い考察を語り合っていた彼女が、推しキャラについて感情を吐き出すだけになってしまった。
美奈子も幼馴染に歩み寄ろうと『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』をプレイした。しかしストーリーの致命的な破綻の数々、工夫の余地のない温すぎるRPG要素に、良さを見出すことはできなかった。純佳があれほど情熱を傾けるのは何か理由があるに違いないと思い、何度も繰り返しプレイしたが、それでも駄作という結論は揺るがなかった。こんな駄作に情熱を注ぐ彼女の気持ちがどうしても理解できなかった。
話が合わなくなり、純佳とは疎遠になった。彼女は『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』のファンの友達を増やし、時間があれば推しキャラへの情熱を語り合う、堕落した愚か者になってしまった。かつての彼女は失われてしまった。
それでも美奈子は純佳のことを嫌いになれなかった。きっといつか、悪い夢から覚めて、元の物静かで知的な少女に戻ってくれると信じた。
美奈子の憎悪は『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』へと向かった。あの駄作こそが諸悪の根源だと憎んだ。
そんな失意の底の中、運悪く事故に遭い、美奈子は命を落とした。
そして男爵令嬢マルディレラ・エフオリガンとして転生した。前世の記憶を取り戻したのは学園の入学前のことだった。中世ヨーロッパ風の世界観のはずなのに不自然に現代日本的な文化。コーティアナ王国という名前。ここが『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』の世界であることをほどなくして確信した。
マルディレラという名前は記憶になかった。どうやら本編とは関わりの無いモブに転生したようだった。
気付いたとき、まず最初に考えたのは自殺だ。この世界に生きることにまるで価値を感じられなかった。
だが実際に『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』の主要キャラを目にしたら考えが変わった。幼馴染をたぶらかした外道。外見だけよくて浅い設定の、恋愛のことしか考えていない愚か者たち。彼らに対し何もせずにはいられなかった。
それに、もしかしたら。この世界での行動は、前世の『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』に何らかの影響があるかもしれない。ここをめちゃくちゃにすれば、幼馴染も目を覚ましてくれるかもしれない。そんな希望とも言えない妄想にすがり、マルディレラは行動を開始した。
原作を何度も繰り返しプレイしたから、各イベントは熟知していたし、相手はただの恋愛バカだ。殺害方法はいくつも思いついた。途中で発覚してもつまらないので、なるべく確実で足がつかない手段を選んだ。
ノルマルト王子だけは隙が無かった。普段から護衛の騎士がついており、殺害は容易ではない。だが彼を最後の標的とするならやりようはある。自首して取り調べに王子を呼び出す。あらかじめ自爆の魔道具を飲んでおき、道連れにすれば殺せるだろう。どのみちこの世界に長居するつもりはない。そういう終わり方も悪くないと思った。
メインヒロインであるサークレディアは殺害対象としなかった。彼女は普通にゲームを進めるだけで単独で魔王を討伐するくらい強くなる。ゲーム中、意図的に死なせようとしても、様々なスキルやアイテムで即座に復活する化け物だ。学園の模擬戦でも、実際にその逸脱した強さを目にした。
彼女だけは現実的な殺害手段が思いつかなかった。『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』は駄作だと改めて認識した。
幼馴染を堕落させたのは男性キャラだったこともあり、彼女については干渉しないことにした。
そうして伯爵子息ケイニグトを湖で仕留めて迎えた二学期。学園寮の自室で伯爵子息ウィーエルドを追い詰める手紙をしたためていると、突如悪魔グアストラが現れた。
「魔王様から見込みのある人間がいると聞いてやってきた。小娘、お前がマルディレラ・エフオリガンか?」
「見込みがあるかはわかりませんが、ええ、そうです。わたしがマルディレラです」
「……お前は私のことが恐ろしくないのか?」
悪魔グアストラから立ち昇る魔力は強大だった。魔力を感じ取れない平民でも、その禍々しさに腰を抜かすことだろう。おびえるのが正しい反応だということはわかる。
だがマルディレラにとってはどうでもいいことだった。
「わたしにとってはこの世界のすべてが虚構にすぎません。あなたがどれほど強大な悪魔であろうと、虚構であることに変わりはありません。この世界で生きているわたしの命も偽物。恐ろしいことなど何もありません」
道半ばで終わることは残念にも思ったが、もともとこんな世界で生きていくのは嫌だった。既に伯爵子息ケイニグトは仕留めたから、少しは原作に影響を与えることもできたかもしれない。魔王に目をつけられたのなら、これからの行動も予定通りにできるとは思えない。
それなら、ここで殺されることも仕方ないと思った。
「……なるほど。魔王様が目をつけるわけだ。君は素晴らしい人間だ。どうか私と契約してほしい」
よくわからないが気に入られたようだ。契約など面倒に思えたが、それでこちらの計画を邪魔しないのなら悪くない交換条件だ。
そして悪魔グアストラと契約した。ノルマルト王子の殺害は巻き込み自爆ではなく、悪魔グアストラの力を借りることになった。
そしてマルディレラは、思惑通り『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』の主要キャラを全滅させた。
「さあ、着いたぞ」
ノルマルト王子を消滅させた後。悪魔グアストラの転移の魔法で、マルディレラは魔王城の一室に連れてこられた。
壁も床も黒く、部屋の中は薄暗い。しかし広々とした豪奢な作りだった。調度品の数々も、小物のひとつに至るまで精緻な作りの高級品だ。王族を迎えても問題ないほどの格調高い部屋だった。
「この部屋は何なんですか?」
「君の部屋だ。私が手配した」
「……魔王城の一室を与えるとはずいぶんと豪勢ですね。わたしに何をさせるつもりですか?」
「もちろん我が主として魔王軍で活躍してもらう。ドレスも仕立ててある。これから魔王様にご紹介するつもりだ」
「契約の時にも言っていましたが、それ本気だったんですね……」
マルディレラは深々とため息を吐いた。
「どうした? さすがの我が主も魔王様にお会いするのは緊張するのか?」
「いいえ、そういうわけではありません。ただ、がっかりされるのが面倒くさいんです。『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』の知識があったから、王族一人に貴族子息3人を仕留めることができました。でももう『物語』の範囲は終わりつつあります。これから先のことは何もわかりません。なんの役にも立てませんよ?」
「そんなことはない。君は必ず魔王軍で力を発揮する。幹部にだってなれるだろう」
「……まあわたしとしては、この世界がもっとめちゃくちゃになるのを眺められればそれでいいですけどね」
マルディレラはやる気がないようだが、グアストラはマルディレラに本気で期待している。彼女は自分の異質さに気づいていないのだ。
この世界にはこれまで何人もの転生者がやってきた。彼らは時として世界に変革をもたらしてきた。この世界から元の世界に戻った転生者が物語をつづり、それが世界に影響を与えているとも聞く。
そんな転生者たちの中で、マルディレラはなお異質だ。
この世界をゲームだと思い込んで冒険する転生者は珍しくない。しかしこの世界で生きるからには息をして、食べて、他人と触れ合うことになる。生きているという実感は圧倒的だ。たとえゲームの世界と分かっていても、人間は命を失う恐怖から逃れられない。だから転生者は生き残るために努力する。
だが、マルディレラは違う。彼女は生の実感を得ながらも、それを虚構と決めつけている。この世界を虚構と断じて、自分の命までそれに含めている。
マルディレラは虚構に対してなにをしてもいいと思っている。だから道徳に縛られない。倫理観に邪魔されない。禁忌を恐れない。人としての常識を有していながら、それらが存在しないかのように思考し判断することができる。
そんな彼女なら魔王軍の軍師たちも思いつかないような凄惨かつ容赦のない戦略を思いつくに違いない。魔王はそこまで見抜いてグアストラを差し向けたのだ。
「そういえば、サークレディアのことはどうなりました?」
「彼女はまだ故郷にいる。おかげでずいぶん攻めやすくなった。現状可能な最大戦力を投入する。討伐ではなく封印を試みる方針だ」
「そうですか。返り討ちに遭わないといいですね」
マルディレラの他人事のような軽い言葉に、悪魔グアストラはひやりとさせられた。
ゆくゆくは聖女となり、単独で魔王討伐まで可能なほど強くなるというサークレディア。懇意にしていた侯爵子息ベイエルフの死によって、彼女は一時的に故郷に帰ることになった。
王都から離れたおかげで魔王軍の戦力をより大きく動員できる。サークレディアの故郷はろくな守りもない小さな村だ。通常なら負ける要素はない。
だがマルディレラの情報によれば、現時点でもサークレディアは強大で、そのうえ死なない存在らしい。いくら有利な状況でも正面から戦って勝てるとは限らない。だから親族を人質にして封印するという作戦が立てられた。
魔王軍にとって最大の脅威となりうる存在を、育ち切る前に摘み取ることができる。この一件だけでもマルディレラが魔王軍にもたらした功績は大きなものだ。魔王城の一室にドレス程度では釣り合わないほどだ。
そんなやりとりをしていると、ドレスを手にしたメイドたちがやってきた。
「それではしばらく席を外させてもらう。しばらくしたら迎えに来る」
「ええ、わかりました」
そう言ってグアストラは部屋を後にした。魔王城の長い廊下を進み、誰もいないバルコニーへとたどり着くと、ぐっとこぶしを握った。彼はこれからのことが楽しみでしかなかった。
悪魔とは人を堕落させることを本分とする。だからグアストラは、マルディレラのことを堕落させるつもりだ。
マルディレラは幼馴染を堕落させたという理由でこの世界を憎み、無価値なものと決めつけている。そんな彼女がもし、この世界で愛せる者を見出したらどうなるだろう? 自分も堕落してしまったと、さぞや悩み苦しむに違いない。その葛藤は悪魔にとって極上のごちそうだ。
彼女を堕落させるのは容易なことではないだろう。だからこそ、実にやりがいのある仕事だ。
魔王軍で活躍するマルディレラを支えつつ、彼女が堕落するよう様々な策を講じる。悪魔としてこれほど充実した生活は他にないだろう。
グアストラは夜空を見え上げた。今宵は満月だった。
マルディレラという最高の主を得ることができた。このめぐりあわせはきっと邪神の導きに違いない。夜を支配する月を通して、グアストラは邪神に感謝をささげるのだった。
終わり
※乙女ゲーム『コーティアナ王国の聖女恋愛奇譚』は架空のものです。
特定のゲームをモデルにしたものではありません。
大丈夫とは思いますが念のため。
「大嫌いな乙女ゲームの世界に転生したヒロインが作品世界をぶっ壊す話を書こう!」なんて思いつきました。
せっかくだから原作知識を活用した方法で主要キャラをやっつける感じにしたら、当初の想定よりエグイ話になってしまいました。
お話づくりはやっぱり難しいです。
2025/8/6 19:15頃、8/7
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。
2025/8/13、8/14、8/16
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!