童(わらべ)
「してない!」勢いよく立ち上がって、ライラは言った。
唐突な大声にカイルの身が跳ねた。
ライラは音量を少し控えめにして続ける。
「人に迷惑をかけるようなことは絶対にしてない。今まで一度たりとも」
少し気まずそうに目を逸らしながら。
それでも、一度たりともと言い切った。カイルより遥かに長い人生で、一度たりとも。
「わかった。僕が悪かった。申し訳ない」
カイルは両手を上げ、面と向かって謝罪した。
ライラは下を向いてまた目を泳がせ、ゆっくりと座席に腰を下ろした。
「ごめん」とライラは言った。
「いや。考えが足りなかったのは僕の方だ」
カイルはライラが思っているよりも強く反省していた。
カイルの悪い癖だ。良いか悪いかに固執して、本当に重視すべきものが見えなくなる時がある。
存外にカイルの表情が沈んでいたので、ライラもまた過剰な罪悪感という悪い癖を加速させた。
「ああそうだお客さん、ウチは馬を休ませてる間の食事代なんかも料金に含まれてます」
御者は何も知らない。それにしてもやっぱり声が掠れている。
「え、ええそうですか」
正直それどころではなかった。
「よかったら帰りも」
「いや結構です」
どんなにお得でも、こんな馬車はもうごめんだ。カイルが軽く断った直後、
「なに?」
ライラが何かにそう言った。斜め上のあたりを見ているが、そこには何もない。
「まってね」
言いながら、ライラはマントの裏に手を伸ばす。
そして一冊の本を取り出した。赤黒い色の、分厚い本だった。
ライラはそれを膝の上に置いた。
「それは?」カイルが問う。
「この子は、〈紅童〉」
ライラは真ん中あたりのページを開いた。
少し暗くても、そこに書かれた文字はカイルにもはっきりと見えた。
真っ赤だったからだ。
『えへへ。ライラがいじめれてたから、守ってあげようと思って』
カイルは顔をしかめた。不気味だったからというより、いじめたという表現が不満だったからだ。かといって反論する余地はないので黙るしかない。
代わりにライラが反論した。
「いじめられてないよ」
単純だが、それだけでもカイルは少なからずホッとした。
『あれ、そうなんだ。なあんだ』
「でもありがとね」
『えへへ』
表情は動かないが、ライラはしっかり微笑んでいるつもりだった。
『ねえライラ、そのお兄ちゃんと話してもいい?』
唐突でちょっと予想外な質問。ライラは大丈夫かなと少し考えてから、カイルの意思をアイコンタクトで求める。
カイルは頷いた。〈村娘〉よりは全然良い子そうだなと彼は思った。むしろライラが慎重すぎる気がする。
「いいよ」とライラが言う。カイルは両手で〈紅童〉を受け取った。
見た目通り、ずっしり重たい。
前回失敗したカイルは、今度こそちゃんと仲良くなろうと意気込んだ。
「僕はカイルだ。よろしくね」
『ワタシは〈紅童〉! 収納する魔術が使えるんだあ』
この幼い感じ。童という名に違いはないらしい。カイルは自然と十歳未満くらいの子供の姿を連想した。
『ねえお兄さん』名前では呼んでくれないらしい。
「なんだい?」
『お兄さんはライラのこと好き?』
「え……」
「……」
気まずい展開に戦慄するカイル。ライラは渡したことを早速後悔し始めている。
『ワタシはだいすき!』
カイルはまだ〈紅童〉のことを純粋無垢な子供だと思っているため、それがより気まずさを加速させた。
カイルはライラに対してなんの気持ちもないわけではないが、かと言ってそれは好きでも嫌いでもない。そもそも歳が違いすぎる。見た目も実年齢も。
しかしながら幼子は好きか嫌いかでしか納得しない。
カイルは詰んでいた。
「うん、僕も好きだよ」
恥ずかしいというよりは、女の子に対してそういうことを軽率に言うのがカイル的にはタブーだった。誤解を免れようとしても、何をしたってライラに失礼になってしまう。
だからカイルは堂々としていた。
さて、ライラの反応だが、ここは赤面したりするのが正常なのかもしれない。しかし実際には青かった。
焦りで顔を青くして、〈紅童〉を取り上げるか否かで葛藤していた。ライラはこの先の展開に嫌な予感を抱いていたが、それが確定したわけではないので悩んでいた。
『えへへ』文字が綴られる。『じゃあ、どれくらい?』
「どれくらいかあ」
子供によくあるやつだ。両手を広げて、これくらい好き! とか言うやつ。
と、カイルは思っていた。
『ライラを、どうしたいくらい好き?』
「……ん?」
カイルの頭の中は派手にシェイクされた。感情は気まずさを通り越し、別のものへと変わっていく。
わけがわからないので、カイルは聞いて確かめるしかなかった。
「どういう……意味だ?」
『どういう、いみ? イミはね、えへへ』
真っ赤な文字が綴られていく。
『奪いたいくらい好き? 犯したいくらい好き? 縛りたいくらい好き? 殺したいくらい好き?』
カイルの顔、そして〈紅童〉を持った手先から、血の気が引いていった。
『ワタシは食べたいくらい好き!』
「たべ……」
カイルの手元から〈紅童〉が消えた。
理由は単純。ライラが取り上げたからだ。
ライラは〈紅童〉を即座にカイルから遠ざけて、若干肩を上下させながらカイルを見ていた。
心なしか、焦りの表情が浮かんでいるようにも見える。
「忘れて」とライラは言った。
数秒の沈黙の後、
「いや無理だ」無理もない。
カイルは恐怖することにもう疲れていた。本人の名誉のために述べておくが、カイルは決して怖がりなわけではない。悪いのは最近で彼を襲ったいくつかの出来事の方だ。
ライラもカイルに同情しているのか、ため息をつきながら〈紅童〉に視線を落とす。
「それはワタシ以外に言ったらダメだよ」
ライラ自身は何度も聞かされた話だったが、初対面であるカイルとの会話にもその話題を選ぶとは、ライラも予想しなかった。いや、発想自体はしていたが、無いだろうなと思った。
本たちがライラ以外の存在とどのように関わるのか、ライラは知らないのだ。
『ライラ、このお兄さん面白いよ。ワタシうれしい』
ライラはまたため息をつく。今度は呆れが半分、愛情が半分という比率のため息だった。
そして〈紅童〉をそっと閉じた。マント裏にしまおうとすると、カイルが言った。
「なんか僕は不安になってきたぞ」